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辞書の編纂

 三日目の朝は、意外にもすっきりした目覚めだった。今日は曇天らしく、太陽は時折顔を出したり、ひっこめたりと気まぐれに動いている。誰よりも早く食堂に行って朝食をもらうと、アスタはそれをすばやく食べきさって、誰かが来る前に一度部屋に戻る。


 昨日の夕食は、さすがにヴィルヘルムとは違うところに座った。幸いにも、王子王女が同席を許してくれたので、その言葉に甘えたのだ。

 彼らは言語が堪能で、アスタにとっても非常に勉強になる話が聴けたし、今日は辞書の編纂について話し合うということになった。言語科の学生としてアスタの意見も欲しいらしく、本来なら通訳はいらないがアスタも同席することになった。そこにはヴィルヘルムもいるそうだが、二人きりでないなら大丈夫だと考えていた

「さて……そろそろかな」 

 アスタはもう一度鏡で自分の姿を確認すると、王子イクセルの部屋へと向かった。アスタの使っている部屋がある車両とは違う車両だったで、慎重に数えながら歩く。すると、ちょうどその部屋をノックしているヴィルヘルムと目が合ってしまった。

「……おはよう」

 ヴィルヘルムはじっとこちらを見つめた後、何かを探るようにそっと挨拶をしてきた。アスタもそれにならって、挨拶を返す。

「おはようございます」

 もしここで扉を開くのが数秒遅かったら、アスタはどんなに気まずい思いをしただろうか。しかし思いのほかはやく扉を開いてくれたので、ヴィルヘルムの不躾な視線は扉によって遮られたのだった。

 そして一拍ののちに、扉からイクセルがにゅっと首を出すと、こちらを見て微笑んだ。

「アスタさんもいらっしゃったんですね。おはようございます」

「おはようございます。イクセルさん」

 王子ということを伏せているためなのか、彼の部屋にはお付きの者はいないようだ。そうでなければ彼自ら扉を開けることはないだろう。

 アスタはさっと扉に寄っていき、そして自分で扉を押えた。しかしイクセルは扉にかけた手を離すことなく、じっとこちらを見つめている。

「入ってください。扉はお気にせずに」

 気にしないわけにはいかない。アスタはそう思ったが、イクセルが穏やかに微笑みながらも、頑として譲らない。

 結局はアスタが折れて、さっと部屋の中に入った。自分がぐずぐずすればするほど、イクセルに扉を抑えさせる時間が伸びることに気づいたからだった。

 部屋に入ると、その部屋は三部屋の続き間の真ん中の部屋だと分かった。何故なら寝台に当たるものはなく、備え付けのソファが二つ、向かい合って置いてあり、その間にテーブルかあった。これだけではただのコンパートメントだが、入り口側には魔石の備え付けられた洗面台と、簡易キッチンによって、この部屋が特別であることは証明されていた。

「いらっしゃい」

 ソファには、麗しのスティナ王女と、先に部屋に入っていたヴィルヘルムが向かい合うようにして座っていた。アスタがどちらに座るか悩んでいる間にイクセルが当然のようにスティナの隣に座り、アスタは渋々ヴィルヘルムの隣に腰を下ろした。

「ああ、座ったけれど茶を淹れようと思ったんだった」

 イクセルがそんなことを言って立ち上がろうとしたので、アスタは慌てて立ち上がって首を横に振った。

「私が淹れますよ! 座っててください」

 これ以上、王子を働かせるまいと決め、アスタは立ち上がって簡易キッチンへと向かい、水を温め始める。

 その間に茶葉を出そうとしたが、列車の備え付けの棚は背が高く、アスタは手を伸ばし、爪先立ちになるようにして茶葉を取ろうとした。しかし不安定なバランスで箱を取ろうとしたせいか、一緒に積んであった箱が崩れそうになり、アスタは唇を噛み締めた。

 するとふいに目の前に陰りができ、頭の上を通り過ぎるようにして手が伸びてきた。そしてそれはあっさりと箱を手に取ると、アスタの顔の前に茶葉を差し出して言った。

「これですか?」

 爽やか狸ことヴィルヘルムだ。ベルシュ語を話すからなのか、やんごとなき二人の前だからなのか、彼は分厚い皮をかぶって狸に大変身したようだった。

 側から見れば、とても紳士的であるその行動は、アスタにとってはひどく我慢ならないことのように思えた。何故ここまで苛立ったのか分からない。感謝の気持ちというものはどこかで完全にき止められていて、負の感情の源泉だけが蓋をカパリと開けているようだった。

 しかしいくら感謝よりも苛立ちが勝ろうとも、ここで礼を言わないのは、アスタの品格が疑われる。

「ありがとうございます」

「お茶は淹れられませんので、あとはよろしく頼みますね」

 最後の反抗心から、目を合わさずに言えば、ヴィルヘルムは微かに笑いながら丁重な口調でそう言った。

 それはまるでアスタの心内を見透かしているかのようで、アスタの正の気持ちの源泉はよりいっそう堅く閉ざしてしまったのだった。

「忍耐よ。忍耐」

 ベルシュ語でそうつぶやきながら、アスタは茶を淹れることに集中した。茶葉はラクテアのものだったので、ラクテア式で淹れる。カップを魔法で温めてから茶を注ぐと、トレーに乗せて四人分運ぶ。初めは三人分にしようかとも思ったのだが、それはイクセルもスティナも許さないに違いないと思った。

 彼らは王家の人間ではあるが、極力一般市民として振舞うように心がけているようだった。だからこそ、この“対等”な立場で臨む会議において、アスタだけが遠慮心を発揮するのは彼らにとって不本意なはずである。

「どうぞ」

 スティナとイクセルにお茶を出した後、ヴィルヘルムの方は顔を合わせずに差し出した。そして自分の分のカップもテーブルに置くと、トレーを下げてからソファに座る。

 ほどよく沈み込むクッション性のよいソファは、お昼寝するのには最適な心地よさだった。

「さて早速ですが、辞書制定にあたって、いくつか取り決めをしたいのです」

 スティナはそういうと、ゆっくりと茶を口に運んだ。そして何故か驚いたような様子でカップを見つめ、アスタの方を見る。

「お口に合いませんでしたか?」

 王女ならばラクテアの茶も嗜んだことがあるだろうと思っていたのだが、見込み違いだっただろうか。

 しかしスティナは首を横に振って、笑顔で言った。

「美味しいわ。美味しくて驚いているの。城のものはこんな風に淹れられなかったので」

「……きっとビア式に淹れているんでしょうね」

 ラクテアの茶葉はビアのものよりかなり小粒で、短時間で仕上がりやすい。そのため、ビアの茶葉と同じように長く蒸らすと、渋味がでて本来の香りが損なわれてしまったりする。逆にビアの茶葉は長めに蒸らさないと味が薄くなりすぎて飲めたものではなくなるのだ。

「淹れ方があるのね」

「はい。きちんと入れれば、どちらも美味しく飲めるのですが、まだあまり普及してないないのでしょうね」

「正直に言えば、ビアの茶の方が断然美味しいと信じていたわ。今これを飲む前までは。でも、ラクテアのお茶も美味しいのね……」

 スティナは優雅な仕草でカップを持ち上げるともう一度静かに飲んだ。それを見てか、イクセルもまた、カップを口につける。そして大きく頷いた後、アスタの方をじっと見つめた。

「茶の淹れ方は誰から?」

「母からです」

 そう反射的に答えてから、アスタはまだこの二人には自分の両親について一言も話していないことに気付いた。それに、母セルマのことはかなり面倒な議題である。

「お母様はラクテア出身なのですか?」

「……ええ」

 ヴィルヘルムが会話に加わらないながらも、瞬きもせずにこちらを見つめているのが分かった。彼がいる以上、アスタは嘘をつくことができないのだ。

「騒乱の時代に国境を越えた愛……素敵ね」

「ほんとうに」

 身構えていたアスタに、拍子抜けするような言葉をかけたのはスティナだった。それを受けてイクセルもまた、微笑んで同意する。

 この察しのよい二人は、おおよそアスタの両親の事情を予想できているのだろう。しかしあえて不問に付してくれるようだ。

「それで、辞書のことですが……誰に編纂を頼むかというところから議論したいのです」

 イクセルが流れるように話題を変えると、スティナもすかさずそれに乗った。

「まずはもちろんハールス教授。それから、ヴィルにも協力を頼みたいの」

「政治用語にかんして、ですね」

 ヴィルヘルムがベルシュ語を話すと、どこかたどたどしく聞こえてしまった。彼はかなり上手に話す方だが、周りにいる人間があまりにもベルシュ語に長けているためだ。

「はい。それから、軍のトップにも是非協力願いたいですね」

「それは私から話しておきます。エストレーラから乗車されるので」

「あとは……医療関係者や、哲学者なども必要かしら」

「アスタさんはどう思われますか?」

 自分は不要なのではないかとアスタが思い始めたころ、イクセルが急にアスタに話を振ってきた。

 突然のことで取り繕う暇もなかったため、アスタは思いついた疑問をそのまま口にした。

「辞書はベルシュ語でベルシュ語の説明をつけるのですか? それともビア語やラクテア語で? でもどの道、ベルシュ語のものが必要になりますよね? いつかはベルシュ語を公用語とするのですから」

「……それは、たしかに議論の余地がある」

 その問いに答えたのは、質問したイクセルではなく、ヴィルヘルムだった。彼は何故かラクテア語でそう言い、こちらを見つめた。どうしてベルシュ語でないのか不思議である。

「おそらく三つとも、必要でしょうね」

 しかしどうやらそれは無意識であったらしい。次に続く言葉はきちんとベルシュ語だった。

「ベルシュ語の辞書なら、神殿で使われているものと、かつてベルシュ語が使われていた時代のものが存在します。おそらくそれを再編集した方が早いかと。あと、ベルシュ、ラクテア辞書が最も難関ですね。ハールス教授はラクテア語を解しませんから」

「それに関しては、アスタさんが手伝ってくださいませんか?」

「私が、ですか?」

 スティナがあまりにも無邪気に言うので、アスタは頷きかけたが、この列車での自分の立場を思い出した。

「いいえ。それは良策ではありません。私の出自を危ぶみ、能力を見ることなく判断する人がこんなにも多いのでは、辞書の信憑性にだってケチをつける人がいるに違いありません」

 アスタが教授であれば違うのだろうが、ただの一学生である。それが国家事業として行われる辞書の編纂に携わったとなれば、第二のセルマになりかねない。古く凝り固まった権威主義者たちは、新参者を受け入れようとはしない。

「辞書の編纂自体が嫌な訳ではないのね?」

「編纂は、携われるなら光栄です。国を一つにするために、ベルシュ語での統一を進めるということ自体には賛同していますから」

 もっと正直に言えば、辞書の編纂は是非やってみたいことであった。言語学の研究者になる気はあまりなかったのだが、辞書の編纂というのは実用的で結果が見えやすく、興味のもてる仕事だからだ。ただし、そのために教授になる気はないので、やはり現実的には携わることはできないだろうが。

「アスタさんはいつ卒業されるのですか?」

 横から口を挟んだのはイクセルだ。

「来年です」

「就職先はお決まりですか?」

「……いいえ」

 これには例え相手がラクテア人であっても、多少答えるのに抵抗があった。この時期では就職先を決めている子がかなりいるのは事実で、それはビアもラクテアもそう変わらないだろうと思ったからである。

 ところが、イクセルもスティナもその返答を聞くと、二人揃ってパッと顔を輝かせた。もともと整って美しい二人が、生き生きした表情を見せたので、アスタは眩しくて目を細めてしまいそうなほどだった。

「それなら、ぜひ教育省うちで働きませんか?」

「え?」

「私たちの理想は、二つの国家を一つにすることです。アスタさんが手伝ってくだされば、教育を通じてそれを実現できるように思うのです。教育省の人間ならば、辞書の編纂に携わっても誰も文句は言いませんし」

 いつの間にかスティナは丁寧な口調で話していた。それは、アスタに選択肢をあたえてくれているということなのだろう。命令ではなく。ここでのアスタはあくまでもスティナと”対等”な立場にあるのだ。

「教育省……お二人は既にそこで働かれているのですか?」

「ええ。私たちは結婚とともに王籍を外れるので、働かなければ生きていけませんからね」

 冗談めかしてスティナがそういうと、イクセルがからかうように続けた。

「その割には、君は王権を振りかざして教育省主権を握ったんじゃなかったかな?」

「使えるものは使わなくては。この時代、教育は何よりも大切なものになるわ」

 スティナは少し痛いところを付かれたとばかりに肩をすくめて見せたが、それでも開き直った様子でそう言い切った。

「教育省……考えてみます」

「前向きにお願いね」

 自分でも意外なことに、あっさりと肯定の言葉が出てきた。それはおそらく、自分で決められないがゆえに、こういう流れに乗ってみるのも悪くないという、やや投げやりな考えの元だろう。しかし、こうやって今通訳の仕事をしてみて、自分の能力を生かせるのはやはり言語というフィールドにおいてだと実感していた。


 その後の議論は、辞書の編纂の方法や、どこの出版社に任せるか(これはもっぱらヴィルヘルムが采配を握っていた)、そこから発展して学校での言語教育へと発展していった。

 ヴィルヘルムは時折、何か言いたそうな目でこちらを見つめていたが、アスタはそれをすべて気づかないふりをしてやり過ごしていた。

 こうして列車旅の三日目はゆっくりと終わりへと向かって行った。

 



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