止まらぬ怒り
二日目の朝。
比較的どこでも眠れることに定評があるアスタは、列車が動いて揺れていようがまったく問題なく眠ることが出来た。部屋のベッド兼ソファが案外寝心地が良かったというのもあるかもしれない。
手早く身支度を済ませると、旅の醍醐味とばかりに再び展望列車へと向かった。
展望台に上ると、朝は流石にまだ肌寒く、もう一枚羽織ればよかったかと思いながらも東側の手すりに手をかけた。予定では四日目にエストレーラに到着し、五日目に出発してラクテアの旧首都へと向かう。ラクテアの方が土地が大きかった関係で、エストレーラはもともとラクテア王国の町であった。つまり新首都エストレーラに着いた段階で、アスタは母の故郷に足を踏み入れることになるのだ。
「早いな」
太陽の光を浴びて大きく伸びをしたところで話しかけられ、アスタはその体制のまま振り返った。
「た……ヴィルヘルムさん。おはようございます」
「た?」
狸だ、と言いかけたその最初の音を耳ざとく聞き返されて、アスタは言葉に詰まった。とりあえず手を降ろして自然な体制に戻る。
「体操してました。と言おうと思ったのですが、まあ、見れば分かるかと思いまして」
「ふうん」
信じてくれたかどうかは定かではないが、さすがにアスタが彼のことを心の中で爽やか狸と呼んでいるとは見抜かれまい。
「今日からは忙しくなるからな。それも必要かもしれない」
「はあ……そうでしょうね」
昨日の夕食でさえものんびりとは食べられなかったのだ。そもそもアスタしか通訳ができないとなると、今日行われる会議にはほぼすべてアスタが必要ということになる。
「何日目かに親睦会でもしないのですか?」
「もちろんするが、親睦を深めるためにも言葉はいる」
「それだけなら、ベルシュ語で頑張れるでしょう。そもそもここに乗っている人間はベルシュ語を話せてしかるべき人間なのでは?」
「お前はどうしてそんなに通訳を嫌がる? 同時通訳しながら、会議の内容についても考えられるなら、相当それは向いていると思うが」
話をそらされている気がしてならないが、彼の疑問も最もだろう。確かにアスタはここに来てから、どうやって通訳から逃げるかしか考えていない。
「通訳を嫌がっているというよりは、ここにいる人間があまりにも自己中心的すぎて嫌になっているだけですよ。そもそも、私の出自が気になるぐらいなら、自分で話す努力をすればよいでしょう?」
アスタのような学生と違って、大人にはやらなければならないことがたくさんあるというのは理解はしている。ただ、もう少し努力してもいいのではないかと思ってしまうのだ。
母はビア語を習得するために並々ならぬ努力をしたし、アスタだって、ビア語とラクテア語は物心ついた時から話せたが、ベルシュ語は後天的に習得したのだ。ここまで話せるようになったのは、三年間の勉強と、ハールスに出会ったからに他ならない。
「努力が足りないように見えるか?」
「……ええ」
「それは……本当はみんな恐れているんだろうな」
「恐れている?」
「自分の国の言葉が消えていくのを。慣れ親しんだ言葉が消えてしまうのは悲しいことだ。言語が違えば考え方も違う。俺たちがやろうとしているのは、言語の統一ではなくて、文化の創造だ。二つの文化を足せば、それは全く新しいものになる。自分たちの基盤が崩れてしまうような気がするんだろう」
政府を共同政府と呼ぶか連合政府と呼ぶか、そんな違いが言語間に存在するように、二つの国の言語が形作る文化は似ていながら非なるものである。言語を変えるということは、物の見方を変えることだ。言語というものはいつでも文化に応じて変化する。
「でもきっとそれだけじゃない。まだ、私たちの間には大きな壁がきっとあるんです。誰もがビア人、ラクテア人と自分のことを言うように」
法律上は、書類上は、ビア=ラクテア連合国だ。ビア王国もラクテア王国も存在せず、ビア人もラクテア人も存在しない。しかしながら、言葉によってそれを無意識のうちに否定している。
「急に変えられるとは思っていない。でも、変えていかなければいけない。それが俺の……政府の使命だからな」
ヴィルヘルムの黒髪が風になびいた。今日はまだセットしていないらしい。
「どうして、政府で働こうと思ったんですか?」
長身の彼と目を合わせるためにアスタは首を少し上に向けた。
目が合うと、自分の心臓が跳ねた気がした。力強い瞳がこちらをまっすぐに見つめている。彼の表情に一切のごまかしも皮も存在せず、アスタの問いに真剣に答えてくれる気だということが分かる。
「父の悲願を果たしたかった。父は優秀な軍人だったが、世界戦争で命の危機に瀕したことがあった。その時、父を救ったのはビアの軍人だったんだ。ところが、そのビア人は、父を迎えに来た父の部下によって殺されてしまった。父を襲っていると勘違いされたらしい」
「そんな……」
「それが戦争だ。先に殺らなければ殺られる。父は部下を責めることはできなかった。しかし、もともとは同じ民族であるはずのビア人とラクテア人が、そんな風に殺し合うことに深い悲しみを覚えたそうだ。もちろん、自分を救ったがゆえに助けてくれたビア人が殺されたという罪悪感もあったんだろうが」
「世界戦争……」
「セルマ・エクダルの活躍で同盟が結ばれたことで、父はより強くビア=ラクテアの統一を望んでいた。彼女はまさに、ビアもラクテアも両方守って見せた。両国が戦う必要はないのだと最初に示して見せたんだ」
ヴィルヘルムは遠くを見つめていた。彼の口調はかすかに弾んでいる。
この話の流れは不味い。
アスタは我慢強くないのだ。比較的温厚な父と母から生まれたというのに、どうして自分はこんなにも短気なのか。
「今でも父が最も尊敬しているのは、炎の華と呼ばれた彼女だ。おそらく父だけではなく、ラクテア軍のほとんどが彼女の功績を称えている」
「尊敬……? 称える……?」
声が震えた。こらえなければ、そう思うのに、あふれ出るこの感情を止める術がない。
「お前……どうして」
ヴィルヘルムの手がすっと伸びてきた。彼の大きな手はアスタの頬を捉え、親指であふれ出る涙をぬぐわれる。
アスタは首を横に振って反射的に彼の手を払いのけた。
「何が、気に障ったんだ?」
彼はどうやら慌てているようだった。どことなく女性の扱いには慣れていそうな男だから、あまり女に泣かれる経験はないのかもしれない。
自分でもどうして泣いているのか分からなかった。ただ、この涙は悲しみではなく、怒りなのだとアスタは知っていた。
「炎の華は……失われてこそ惜しまれる。皮肉な話ね」
母が知ったらなんと言うだろうか。
大きすぎる魔力を持て余していた彼女の苦しみを誰も知らない。勝手に利用して、捨てて、いなくなれば崇めたてる。
勝手だ。身勝手だ。
「どういうことだ?」
「あなたは……知らない方が幸せだわ」
いつの間にか、自分の口調が砕けてしまっていた。それでもアスタは構わずに首を振った。
「歴史は一つじゃない。強い力によって葬り去られた”事実”だってあるの」
それだけを言い置くと、アスタは逃げるように展望台を後にした。あのままあの場にいては、口にしてはいけないことまで口にしてしまいそうになる。
泣くべきではなかった。
自分の部屋まで戻り鏡を見ながら、アスタは大きくため息をついた。
目を冷やしてしばらくすると感情の高ぶりはだいぶ落ち着いてきた。
そろそろ今日の会議が始まる時間なので、仕事に行かなければならない。そこにはもちろんヴィルヘルムもいるが、知ったことではない。
むしろ会議であれば、彼は深く追及してこないだろう。
アスタはそう結論付けると、会議室代わりにもなっている食堂車へ足を向けた。
食堂車に入ると、二人の大神官とヴィルヘルムがそこにいた。
さきほどとは違い、黒髪をきっちりと後ろに流している。彼は気遣わしげにこちらを見たが、アスタはそれを無視して前へと進んだ。
「ようやく来たか」
トーケルが横柄な口調で言った。ビアのほうの大神官だが、まったくもって好きになれない。
「遅れて申し訳ありません」
「始めましょうか」
ヴィルヘルムはそういうとアスタに椅子をすすめた。しばし悩んだが、それにはおとなしく従った。アスタとしては今、ヴィルヘルムの隣に座るのは避けたかったが、かといってトーケルやスティーグの隣というのもかなり躊躇われたからだ。
「中央神殿のことで、と言っていたが」
アスタは悩んだ末にとりあえずベルシュ語で通訳をしてみた。すると、聞いて理解する分にはトーケルもスティーグも問題ないらしいことが分かった。
これならば昨日の軍人二人よりは扱いやすい。
「制度作りを、手伝って、もらおうと思いまして」
アスタにならってヴィルヘルムは多少つたないながらもベルシュ語でそう言った。
「制度作り……とは?」
スティーグは疑問を口にするといぶかしげな様子でヴィルヘルムの方を見た。
するとヴィルヘルムは何故か一度こちらを見た。そしてそのあと、相変わらず爽やかな狸の仮面をかぶってこう言った。
「大神官という、位を無くします」