尽きぬ野望
最後尾の車両にある展望台に登ると、肌を撫でる風が心地よい。
展望台は思っていたより広かった。階段が展望台の真ん中にあり、それは列車の後ろ側を向いている。進行方向に振り向くと、そちら側には扉の着いた小屋のようなものがあった。クローズの文字が見えるので、関係者以外は立ち入り禁止なのだろう。アスタは階段を出てまっすぐ進むと、手すりに手をかけて半ば身を乗り出すようにしてあたりを見回した。
移りゆく景色は、馬車よりは速いけれども、驚くほどのことでもない早さだ。
これは列車の全速力ではない。ただ、寝台列車としては悪くない走りと言えるだろう。一般人が使える寝台列車は、ビアとラクテアの旧首都を乗り換えなしで十日間で走り抜けることはまだできまい。
手すりに捕まってただぼんやりと景色を眺めていると、不思議な高揚感が感じられた。まだビア国内にいるが、これからこの列車はラクテアに着くのだ。母の故郷へと。
母は極めて客観的にラクテアの地について語ってくれたし、ラクテアに関する本もかなり読んだ。しかしこうして訪れてみるというのは、聞きしに勝るものがあると母が言っていた。
「こんなところにいたのか!」
アスタの密かな心の高まりを邪魔したのは、野太い男の声だった。
振り返ってその顔を見つめるが、全くもって見たことのない顔だ。
「どちらさまでしょう?」
反射的に問い返したそれが、その男のプライドに障ったということに、アスタは遅ればせながら気づいた。男の顔が驚愕の後に、ひどく憤慨したものに変化したからだ。
「トーケルだ。ビア中央神殿の大新官の顔も知らぬビア人がおるとは!」
知らないと思っていたが、名前だけは知っていた。ビア国民のほとんどが、中央神殿に行ったことがあることを考えると、彼の憤慨は最もである。ただ、アスタは母の影響で神を信じていないので、成人の儀の時も神殿に行かなかったのだ。
「通訳のアスタと申します」
下手に言い訳して辻褄が合わなくなっても困ると、あえて名前だけを名乗った。
トーケルは当然、アスタからの謝罪があってしかるべきだと信じていたようだったが、アスタがその素振りを全く見せないことに気付いて、一度口を開いた。しかしどうやら彼はアスタに『頼みごと』があるらしい。
今まで表に出していた苛立ちを無理やりしまいこみ、どこぞの狸よりうさんくさい笑みを作ってみせた。
「君はビア人だね?」
「ビア=ラクテア人です」
問いの意味は理解していたし、従順に振舞う選択肢もあった。しかしアスタの元来持つ反抗心がそれを許さなかった。
「もちろん分かっている」
さきほどしまいこんだはずの苛立ちが顔を覗かせるが、それでもどうにか堪えて、トーケルは続けた。
「両親はビア人だろう?」
「いいえ。父はビア人ですが、母はラクテア人です」
アスタの答えを聞いた瞬間、トーケルの顔に侮蔑的な表情が浮かんだのを、見逃すことはできなかった。彼は躊躇っているようだった。それはビア人に頼みたいことなのだろう。アスタのような本当の意味でビア=ラクテア人ではなく。
「ラクテアで暮らしたことは?」
「ありません」
この答えは初めてトーケルを満足させたようだった。彼は再び笑みを取り戻すと、大きく頷いて言った。
「神ソラルがビアに与えた恩寵を知っておるな?」
「安寧と知恵ですね」
神を信じずとも、宗教史は学校の必修科目だったので覚えている。
「その通り。それは我らビア国民だけに与えられたものであり、神からの最大の恩寵である」
ラクテアにいくと、勇気と好機にすり変わるのだが、宗教というものは得てして曖昧なので、アスタはそれに関しては口を閉ざした。
「つまり、神ソラルに祈りを捧げる責務があるのは我らビア人である」
ここまで来ると、彼の主張しようとしていることが読めてくる。
宗派は違うが、ビアもラクテアも同じ神を信仰している。そして、かつて国が二つであった時、それぞれの国にすべての神殿を統括する中央神殿があった。つまりビア=ラクテア連合国には、二つの中央神殿が存在するのだ。これから一つの国として統合するにあたって、神殿も一つにしようという流れは自然である。
「これから連合国の大新官を決める話し合いが数日に渡って行われるが、君は私を推すべきだということがもちろん分かるだろう? ソラルに認められた正当な宗派はこちら側なのだから」
「私は旧聖書の教えに従っておりますので、どちらも正当であると考えています。ベルシュ語の教典こそが、ソラルの啓示ではありませんか?」
つい正論を返すと、大神官が言葉を詰まらせたのが分かった。ベルシュ語の教典を開いてみると、神の言葉を聞いた民族に、神は安寧と知恵、勇気と好機の四つを与えたと書かれている。その民族とはつまりビア=ラクテア人であり、国が分裂した際に、その教義も分裂したと考えるのが自然だ。つまりどちらがわにも理はあり、どちらかが間違っているとは言い難いのである。
「すると君はあれかね、あちらの大神官を推すというのかね?」
「私はただの通訳です。そのような権限は持ち合わせません」
「ふん。いくら私が清く正しい主張をしたとしても、その言葉を捻じ曲げて伝えられてはかなわんな」
ここまで来てようやく、彼がアスタを味方につけたい理由がわかった。彼は自分の言葉が正しく伝わらない可能性をつぶすと同時に、相手の主張を多少まげて通訳してほしいと言っているのだ。
ただ、彼が本当にそんなことが可能だと思っているのならば、あまりにも浅はかである。政府の人間にとって、神殿は目の上のたんこぶだ。ビア王国にしろラクテア王国にしろ、神殿は王家にすら影響を及ぼす強い力を持っていた。その二つがそれぞれ権力主張などされれば、政府は統治をするのが難しくなる。
「神に誓って、捻じ曲げたりはいたしません。どちらの言葉もありのままに伝えます」
「……そうか。まあ、よい。しかし娘、中央神殿の大神官に恩を売っておく好機を逃すとはな」
低い声でそういうと、彼はドスドスと大きな足音を立てて展望台から姿を消した。
「中央神殿の大神官、ね」
アスタは小さくつぶやくと、次々に現れては消える木々をぼんやりと見つめた。
政府側としては、中央神殿には大きな権力を与えないようにするのがベストである。王家も権力を放棄することを決めたようだから、それにならって神殿も解体する気なのではとアスタは踏んでいた。
しかしそれを旧大神官が気づいていないとは、よほど彼が間抜けなのか、それとも政府が巧みなのか、あるいは、まだ神殿の解体には着手する気がないのか……。
「おお、こんなところにいらっしゃったとは」
数分前に聞いたような台詞が再び聞こえてきた。ただしこんどはラクテア語だ。
アスタは嫌な予感がして振り向くと、これまた知らない顔だった。声は先ほどの男より幾分か高く、痩せていて、少し不健康そうな男だ。彼は何故かアスタの顔をみるとひどく驚いたような表情を見せた。しかしそれをごまかすように微笑みを浮かべる。
「どちら様でしょうか?」
「初めまして、御嬢さん。ラクテアの大神官を務める、スティーグと申します」
やりとりは先ほどと似ているが、感じはこの男の方が良いとアスタは即座に感じた。彼は物腰が丁寧であるし、自分を知っていて当然だという雰囲気は出していない。
「通訳のアスタと申します」
「存じておりますよ。お若いのに三つの言語を話せるとか」
「ええ、まあ」
「ラクテア語はどこで習ったのですか?」
「……母がラクテア人なもので」
嘘をつこうかと思ったが、これ以上の納得させられる理由が思いつかなかったため、しぶしぶ本当のことを口にした。
すると、スティーグは少しだけ表情を変えて、そっと訪ねてきた。
「母君のお名前を窺っても?」
「どうしてですか?」
「それは……その……昔、行方不明になった知り合いがいるもので。実はビアの方で暮らしているのではないかという希望が捨てられないのですよ」
アスタは男の言葉を聞いて、しばし考える。
母の話を思い返してみても、彼女が親しくしていた神官がいたとは聞いていない。だとするならば、彼は母を”裏切った”側の人間かもしれない。
「お名前を窺っても?」
「セルマという名前です」
「あら、あのセルマ・エクダルと同じ名前ですね」
我ながら素晴らしい演技力だと思う。アスタは自然にその名前を口にした。すると、スティーグはわかりやすく表情を曇らせ、手をきつく握り締めた。
「やはり……この話は忘れてください」
声が震えている。
アスタの反応を男がどのように解釈したのかは分からない。
ただ、一つだけ分かったことは、母セルマ・エクダルの追放劇には、神殿も一枚かんでいたということだ。それが分かったからといって、彼をどうこうしようとは思わない。ただ、もし彼がまだセルマを探していて、彼女の今の生活を壊そうとするならば話は別だ。
「ところで……中央神殿が統一されることはご存じですか?」
ここで話を戻せば、彼に余計なことを感づかせるかもしれないと考えて、アスタはおとなしくその話の流れに乗ることにした。
「ええ」
「中央神殿の神官をこの旅の間に決めるのですが……アスタさんは、ビア王国の大神官がそれを務めればよいとお思いですか?」
トーケルよりは回りくどいが、要するに自分の不利益になるようなことはしないでほしいという牽制だろう。
「私は旧聖書の教えに従っています。ベルシュ語で書かれた教典こそ、真実でしょう? だとするならば、私がどちらの味方をすることもありません」
先ほどと同じ答えをすれば、彼は明らかに安心したように見えた。
もともと違う国の人間だったというのに、考えることは同じなのかと思うと、人間の欲の限りなさを思い知らされる。
民の心に寄り添うはずの宗教が、立派な政治の道具として扱われている現状に、アスタはどことなくやるせなさを感じた。もともと信仰しているわけではないが、最も宗教に忠実であるべき人間が、ここまで私欲にまみれているというのは、情けない話である。
「それに、私に決定権はありません」
「もちろん存じております。ただ、少し確認をしたかっただけなのです」
最後の方はもごもごと口の中で言うと、スティーグはそそくさと展望台を下りていく。
アスタはその背中を見つめながら、大きくため息をついた。
「どいつもこいつも……と言った顔をしているな」
急に聞こえてきた声に思わず階段から視線を外すと、先ほどクローズの看板がかかっていた場所から一人の男が姿を現した。爽やか狸ことヴィルヘルムだ。
「聞いていたんですね」
母の名前を口にしなくて良かったと思いながらそういうと、ヴィルヘルムは階段を迂回してこちらに近づいた。そしてアスタの隣まで来ると、手すりに背中をつけて、両肘をそこにのせて上を向いた。
「神殿の動向は大切だからな」
「政府が望んでいるのは神殿の解体ではありませんか?」
アスタは階段に背を向けると、ヴィルヘルムがもたれかかっているその隣に腕を置いた。遠ざかる景色の中に時折混ざる家を見つけてはそれを視線で追う。
「神殿権力の解体……が正しい。政府もさすがに神に対抗しようとは思っていないからな」
「あなたは神を信じますか?」
アスタは顔を横に向けるとヴィルヘルムの顔を見た。彼はこちらもまた首だけこちらに向けて、その問いについてしばし考えているようだった。
「それは難しい質問だな。大神官たちの教えはまったく眉唾ものだが、神の言葉だとされている聖書自体は興味深い」
ヴィルヘルムがアスタの問いを否定しなかったことが、アスタにとってはかなり意外だった。彼は現実主義者に見えるし、神という曖昧な存在をまっさきに切って捨てそうだったからである。
するとどうやらその疑問が顔に出てしまっていたらしい。ヴィルヘルムはこらえきれないとばかりに声を立てて笑った。
その様子があまりに自然で、彼の本来の魅力を存分に引き出してくれたので、不覚にもアスタはときめいてしまったことに気づいた。
「俺は不可知論者だからな。存在の証明もできないが、不在の証明もできないと思っている」
「……そう言われると納得します。とても、現実的だから」
「アスタは何故、神を信じない?」
「どうして信じていないとご存じなんですか?」
「信じている人間からは、そんな質問は出ないからな」
「どうしてでしょうね……。でもきっと信じている人にも理由がないように、信じないことにも理由なんてないんですよ」
理由がないというのは嘘でもないが本当でもない。本当は母の影響だということを理解してはいる。しかしそれを口にはしたくなかった
ヴィルヘルムはきっとその逡巡を分かっているのだろう。しかし彼はそれ以上何も追及してきはしなかった。
ただ、無言で隣に立っているだけだった。