そして、列車は動き始める
食堂車に入ると、まず目に入るのが赤を基調とした柔らかな絨毯だ。テーブルや椅子、窓枠など木でできているものは全て、上品な茶色で統一されている。
そしてそこにいたのは二人の男性だった。
二人はアスタが足を踏み入れた途端鋭い視線をなげかけてきた。どうして若い女がここにいるのかという疑問と、どこかアスタを蔑んでいるような雰囲気を隠そうともしていなかった。
そしてアスタはその二人の顔を知っていた。ラクテアの首相とビアの首相である。新聞で見たことがある顔が目の前にいるというのは、それだけで緊張が増してしまう。
アスタが思わず竦んで立ち止まっていると、後ろから爽やか狸が出てきて胡散臭い笑みを浮かべた。
「彼女は三か国語を流暢に話されるため、通訳としてお呼びしました」
出てきたのはベルシュ語だ。演説よりゆっくりと話しているということは、相手に理解してもらう気があるということだろうか。
そっと二人の顔を見てみると、どうやら理解しているようだった。
「初めまして。アスタと申します。通訳として微力ながら会議の進行をお手伝いさせていただきます。十日間よろしくお願いします」
比較的ゆっくりとベルシュ語でそう言えば、見たことのある顔が一歩前に出てきた。旧ビア王国の首相である。彼はアスタを一瞥した後、狸に視線を移して聞いた。
「ハールスきょうじゅに、たのんだ、のでは?」
たどたどしいながらも正しいベルシュ語だ。流石は首相というべきだろうか。彼は小柄な男性だったが、その小さな顔にはあまりにも大きすぎる眼鏡がそこにあった。新聞の時でも同じ印象を抱いていたが、実際に目の前にしてみるとさらに眼鏡が不自然に見えた。
「教授が紹介してくださったのです。教授はラクテア語が話せないので」
アスタはこのやりとりに、言葉にはできない違和感を感じた。しかしそれについて考える暇もなく、ラクテアの首相が出てきた。彼はビアの首相は背はあまり高くなかったが、とても恰幅の良い男だった。顔も大きく、横幅もあるので、ただそこにいるだけで威厳がありそうに見える。
しかしその男は、その見た目に反してたどたどしいベルシュ語で言った。
「ラクテア語を話してくれるのは、うれしいが、どこのだれか分からない、おんなの人につうやくをたのむというのは、どうなんだろうか?」
ようするに、ただの学生に通訳を任せるのが我慢ならないということだろう。教授ならばそれなりに権威もあるし、特にハールスはベルシュ語の体系を整え、ビア=ラクテア両国のほとんど全国民が名を知る有名人である。
こうなってみると、爽やか狸がいかに善良的で物分かりの良い人間だったかが分かる。彼はアスタの言語能力を疑いはしたものの、決してその出自を詮索しようとはせず、能力だけを見て判断していたからだ。
「そもそも、あー、こんなことを言うのはなんだが」
ビアの首相がビア語で続けた。
「君は学生だね? 君のような普通の、あー、一般的な女学生に、これから我らが議論するような難解な議題を理解して通訳することはできるのかね? 今回の会議はこの三人だけで行うものではない。軍部の人間や神殿関係者も出席する。今はここにはいないが、君が通訳だと言ったとき、私はどう説明したらいい?」
「つまりそれは、信用できないから、私を解雇したいという意味でしょうか?」
一連の会話で、アスタはすっかりこの場で働く気を無くしていた。気分が悪い。そもそもアスタはあまり沸点が高くないのだ。つい苛立って反抗的な態度をとってしまう。我ながら子供だとは思うが、こういう理不尽な扱いに黙っていられるほどおとなしくはないのだ。
ビアの首相は考えているようだった。かなり前向きにアスタの解雇を検討しているようだったが、それでもやはり不安要素はあるのかもしれない。彼がラクテアの首相に意見を求めようと振り返った時だった。
「彼女の能力は全く問題ありません」
口を挟んだのは狸だ。
「ですのでアスタさんも辞めたいなど言わないでください」
「辞めたいと申し上げているのではなく、解雇する意志があるのか確認しているだけです」
早口でベルシュ語で言い返してから、ふとあることに気づいた。
「ビア語を話されるのですか?」
口を挟んだ彼はラクテア人だ。もし彼がビア語を話せるならば、なおさらアスタは必要ない。しかしそんな期待とは裏腹に彼は首を横に振った。
「いいえ。ですが、単語は似ていますから。ラクテア語でも解雇は同じ発音でしょう?」
「……そうですね」
つまり単語だけ拾って話の流れを察したと言うことか。
「ヴィルヘルム君。いくら君が彼女の能力を保証しようとも、やはり国家に関わる機密事項を彼女に聞かせるのは」
流れを聞いて理解していたラクテアの首相が、狸に向かってラクテア語でそう言った。爽やか狸はヴィルヘルムという名前のようだ。この国ではよくある名前である。たとえばついこの前できた”共同政府”の首相の名前もヴィルヘルムであるし、記憶違いでなければ、ビア王国の第二王子の名前もヴィルヘルムだ。
「ハンネス首相、彼女はきちんと黙秘できる人間です。それに会議の通訳としては、中立の者がいたほうがいい。どこかで意味を歪めて通訳したと疑われるのも疑うのもごめんです」
ラクテアの首相ハンネスも、ビアの首相――名前は確かフィリップ――も、ヴィルヘルムの言い分を理解はしているようだが、納得はできないという顔をしている。
「アスタさん」
「なんでしょうか」
いまだにぶつぶつと言っている両首相をよそに、爽やか狸、もといヴィルヘルムが話しかけてきた。極上の嘘くさい笑みも一緒に、である。
「十日間よろしくお願いします。列車が動き出しそうです」
その瞬間、地面が揺らいだ。そして窓の外の景色がゆっくりと動き始める。
両首相も同じことに気づいたようで、二人で窓の外を見つめている。この二人の顔が驚いているということは、列車は準備が整い次第、動かすように伝えられていたのだろう。
あるいは、目の前の狸が指示した可能性もあるが。
「ヴィルヘルム君。動き出したようだが、我々の指示も待たずにとは、中央鉄道の連中は何を考えているんだね?」
ハンネスが咎めるような声を出した。彼らは今やベルシュ語で話す気はないらしい。
「お言葉ですが、列車の準備ができ次第出すように仰ったのはハンネス殿ご自身ですよ」
「それはそうだが、確認の一言ぐらいあっても良いだろう!」
「中央鉄道は”連合政府”の管轄ですので、私が許可を出しました。問題がありましたか?」
「通訳の問題が解決していない!」
でっぷりとした体に相応しい張りのある声だ。自分の母国語ならばはっきりと話せるらしい。
「どこに問題がありますか? 彼女はご覧のとおり誰よりもきれいな”標準語”を話し、かつ”地方語”も話せるのですよ」
「通訳としての能力は疑っていない。確かに美しい”標準語”を話している。が、それとこれとは話が別だ!
頭が筋肉でできている軍人どもはいいかもしれないが、神職関係者はここぞとばかりにつついてくるに決まってる!」
先ほどから話を聞いていると、この二人が納得していないということ以上に、他の人間の反応を恐れているようだ。”共同政府”が手配したとはいえ、いまとなっては両首相も半分、共同政府の人間である。
「せめて君が教授の親戚であれば……だが、違うだろう?」
「違います。ですが……そうですね。そういうことにするというのはいかがですか?」
アスタはここでベルシュ語に切り替えた。
「そういうことにする?」
爽やか狸が幾分かきつい口調で問い返してきた。この声色は仮面を脱ぎ捨てているほうだ。
「私はアスタ・ハールスを名乗ります。それで、ここにいる御三方以外は、納得されるのではないでしょうか?」
「それは――」
狸、もといヴィルヘルムは何かを言いかけたが、それを制したのは両首相だった。
「それはいい。そうしよう。ほかの人もなっとくする」
「そうですね」
二人がそろってベルシュ語で賛同したため、アスタはほっと一息を着いた。まだ何か言いたげなヴィルヘルムをよそに、両首相はこの提案に満足しているようだった。
「では我々は一度自分の部屋に戻る。予定通り、会議は一時間後に」
ハンネスがラクテア語でそう言うと、何故かそれは理解できたのか、フィリップも彼に従って食堂車から出ていく。
そうして食堂車に二人だけになると、ヴィルヘルムは嘘くさい笑みを止め、何故かこちらを鋭い目つきで睨みつけていた。
「どうされましたか?」
「何故、あんな案を?」
「彼らが求めていたものですよ」
「”連合政府”は、そういった権威主義を止めることを目指している。新聞で読まなかったか?」
なるほど。どおりで彼はアスタをそういう目では見なかったわけだ。
「そのことですが、言い回しを統一することを提案します」
「言い回し?」
「はい。ビア語ではどの新聞も”共同政府”となっていますので、それが正式名称だと思っていました。ところがラクテア語で聞いてみると”連合政府”のようですね」
「それは……気が付かなかった。通訳が間違えたな……」
「ベルシュ語ではどうされていたのですか?」
「それは……」
珍しくヴィルヘルムは言葉を詰まらせた。その反応だけで、だいたい何があったのかは想像ができる。
「会議をできるレベルになかったということですね」
「まあ、そういうことだ」
通訳を通して全ての会議が行われていたというのならば、こういう表現の不統一もうなずける。正常な国交があった二国間の言語ならともかく、しばらく戦争をして混乱していた二国だ。両方の言葉を問題なく話せる者はいないに等しい。そうなれば、通訳に不備がでるのも仕方がない話だろう。
「アスタはどうして二か国語を?」
彼の疑問は当然であり必然である。ゆるやかに流れる景色に目を奪われたふりをしてアスタは窓の近くまで歩いた。
「父がビア人で、母がラクテア人のハーフなので」
「ハーフ?」
顔は見えていないが、ヴィルヘルムがどんな顔をしているか容易に想像できた。
「いくつだ?」
「二十一です。二人の出会いは二十五年前。どのように、は黙秘させていただきます」
二人の出会いは、語るにはまだ早い。あの時代はまだ微妙な時代だったのだ。両親の苦労を知っているからこそ、この平和になった時代に新たな火種を持ち込みたくなかった。
「二十、五年前……」
「そういえば、お名前、ヴィルヘルムとおっしゃるんですね」
「え?」
強引に話題を変えて、アスタは後ろを振り返った。
「共同……いえ、連合政府の首相と同じ名前ですね」
「は?」
何故か彼は思いもよらないことを言われたという表情になった。新首相決まってからは、こういう話もあっただろうに。
「……記憶違いでしたか? 新聞では確か……」
「……いや、同じ名前だ」
ずいぶん間があったが、彼は肯定した。そしてぶつぶつとつぶやきながらアスタが見ていた窓と反対側の方の窓を向いた。
「部屋に案内しよう」
一番初めにするべきだったことを今さらながら言い出した。
その不自然さに釈然としないものを感じながらも、その場の違和感は無視することにした。さきほどの会話だけでも疲れていたし、列車旅はまだ始まったばかりだ。
これからの長い十日間を思って、アスタはその場で小さくため息をついたのだった。