列車旅は悪くない
ラクテアとビアの旧国境を越える瞬間は、案外あっさりと訪れた。
朝食を食べていたら、今、旧国境を超えますという車掌が食堂でアナウンスしてくれたのである。流れていく窓の向こう側の景色を見つめながら、アスタは旧国境を越える瞬間をじっと待った。
車掌が声をあげるまでもなく旧国境の場所は簡単に分かった。そこにはかつての二国の国旗がはためいていたからだ。しかしその旗がある以外は、なんの違和感もない景色の連続だった。
つまりラクテアに入った瞬間、何かが劇的に変化するということはなかった。山が喪失するわけでもなく川が途切れるわけでもない。国境など人間が勝手に決めた恣意的な線でしかない。その線は目に見えるわけではないが人の心には深く刻まれる。
その線を取り払うと地図上の国は一つになるが、国民の心の中に刻まれたその線を消し去るには長い年月がかかるだろう。もしかすると、ビア人とラクテア人だった人がみんな寿命で亡くなってしまって、ビア=ラクテア人であることが当たり前である世代が育たなければ、完全には一つになれないのかもしれない。
アスタのように若い世代や、セルマの活躍を知る彼女と同世代は、互いに相手国に対して嫌悪感を抱いてはいない。しかしそれよりも上の世代は、まだお互いに敵として戦った記憶がある。互いに家族を、大切な人を奪われた恨みがある。今こうして手を取り合って一つの国になることに反対した人もゼロではなかった。むしろそれなりの数がいたと言っていい。
いつかの時代はビアが勝ち、いつかの時代はラクテアが勝利した。いつでも正義は勝者にあるように扱われてきたし、世界戦争でビアとラクテアの連合軍が勝利を収めた時も、そういう態度を取っていた。
「正義はあるのかしら」
「……戦争に正義なんてないのよ。ただどちらも、より多くの利益をかけて戦っているだけ。もちろん理由なき侵攻は批判されど、勝利さえしてしまえば、それが正義として扱われる。人を殺したという意味では、勝者も敗者も同じ罪人に他ならない」
何故か同じテーブルにつくことが慣習化していたスティナが、窓の外を見つめながらアスタの独り言に答えてくれた。
「でも今はこうして列車で行き来ができるのね。それはとても素敵なことだわ」
年齢的には彼女もほとんど戦争を知らない世代だと思うが、王族として教育を受けてきた彼女には、一般人とは違う何か感じるものがあるのだろう。
「そうですね。それは幸せなことかもしれません」
アスタはそれに同意して、家にいる母セルマを思った。もし彼女が望むのならば、彼女はラクテアに戻ることができるのだ。その時にはきっと父オルヴァーの発明した魔石を利用している列車に乗っていくのだろう。
「ねえ、本当に来ない? 教育庁に」
「え?」
「私、あなたの能力を買ってるの」
「是非お願いしたいですね」
スティナに続いてイクセルまでもがそう言いだした。
アスタは辞書の編纂という仕事にかなり大きな興味を持っていたし、この旅の中で、自分がやはり言語能力を使って仕事をした方がいいということはしみじみ実感できていた。
「困ります。アスタさんには政府で是非入ってほしい部署があるのですよ」
いつのまにかアスタの隣についていた狸、あるいはヴィルヘルム、またの名を首相の彼がそう言った。
「どこですか?」
イクセルが穏やかながらやや挑戦的に聞くと、ヴィルヘルムは爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「秘密です。新部署なのでまだ公にはできません」
「あら、曖昧な勧誘の仕方ですね」
「とにかく政府には来ていただきたいですね。それはお二人も同じ考えでしょう?」
ヴィルヘルムがそう切り返すと、イクセルとスティナは二人で顔を見合わせたあと、同じタイミングでふっと笑ってから頷いた。
どうやらアスタに選択権はないらしい。
「考えておきますね」
小さな抵抗からそんなことを言って、アスタはにっこりと微笑んだ。
そして、窓の外を見つめる振りをしてつぶやく。
「列車旅は悪くない……かもね」
列車旅は悪くない。
そこに在るのは、無限の出会いと別れだから。