アスタ・アッペルグレーン
動き出した列車を見つめながら、ヴィルヘルムは先ほどアスタが発した言葉を反芻していた。
――ええ。何か不都合なことでも? ここには川もありませんから、都合の悪いことを流すこともできませんが。
あの言葉は何かを前提としている。そしてそれはブルーノとアスタの共通認識なのだ。ラクテア人のブルーノとビア人のアスタの接点は分からない。しかし彼女に関しては気になることがいくつかある。
先日セルマ・エクダルの話題をあげた時、異常なほど強い反応を見せた。
炎の華と呼ばれた彼女は、世界戦争の際にラクテア王国で活躍した英雄の一人である。彼女は国境付近の戦闘で戦死したとされているが、彼女が死してもなお、彼女を称える声はやまなかった。
そしてビア王国でもセルマ・エクダルの名は必修で習うはずである。なぜならセルマ・エクダルがラクテア人だけでなくビア人をも敵軍から守ったことにより、ビアとラクテアの同盟が結ばれ、結果的にそれが二国の勝利につながったからである。
ラクテアで一度でも軍に所属したことのある人間ならば、彼女がいかに先の戦いで活躍したかについては嫌というほど聞かされる。
しかし彼女の話が出たとき、アスタは確かこういったのだ。
――炎の華は……失われてこそ惜しまれる。皮肉な話ね。
――歴史は一つじゃない。強い力によって葬り去られた”事実”だってあるの。
「まさか……セルマ・エクダルは生きてるのか? そしてそれを葬ったのが……」
ヴィルヘルムは長い思考の末に一つの結論を出した。そしてその結論に至った後、アスタの部屋へと慌てて向かった。
「どうされました?」
血相を変えて走るヴィルヘルムに、たまたま通りかかったイクセルが驚いたように問いかけた。
「いえ、その、アスタさんを探しっていまして」
動揺したままベルシュ語を離すと上手く呂律が回らない。
「ああ、展望台に行くのを見ましたよ」
「展望台?」
「はい。その後、そういえば総帥ともすれ違いました」
「ありがとうございます! では急ぐので!」
王子相手に失礼かとも思ったが、今はそれどころではなかった。ヴィルヘルムは展望台への階段を一段とばしで駆け上がると、勢いよく扉を開け放った。
「アスタ!」
驚いたように二人の視線がこちらに向いた。
ブルーノはアスタの右腕を掴み、異常なほど接近していた。あの二人でなければ、野暮な真似をしたと思うところだったが、自分の推理にそれなりの自信を持っているヴィルヘルムは慌てて一歩踏み出して叫んだ。
「何をするつもりですか、ブルーノ総帥!」
その声を聞いたブルーノはすぐに右腕を離した。そしてアスタが何か魔術を使おうとする前に、彼は思いもよらない行動に出た。
アスタから一歩離れた後、彼は膝をついて首を垂れたのだ。
「本当に、申し訳ありませんでした」
攻撃に備えていたアスタは術を途中で打ち切り、驚いたようにブルーノを見つめていた。しかし先ほどの緊迫した表情をふっと解くと、穏やかな表情になって言った。
「上層部の命令は、セルマ・エクダルの暗殺だった。そうね? そしてその命令には神殿上層部の権力者も関わっている」
推理はしていたものの、ヴィルヘルムは驚きを隠せなかった。英雄と言われているセルマを殺そうとした人物が、軍の上層部にはいたのだ。
改めてその事実を突きつけられると、なんといってよいのかわからない。それも実行犯が連合軍の総帥をしている人間だというのだ。
「でもあなたは、セルマ・エクダルを殺せなかった。だから川から突き落として、あとは彼女の生命力に掛けた。これがあなたの良心の呵責?」
「ええ」
「そしてあなたはセルマ・エクダルを殺したと報告し、その報酬に出世コースに乗った」
「……否定はしません」
「どうして母を裏切ったんですか?」
「上層部の命令を突っぱねられる立場にありませんでした。神殿も絡んでいては、断れば自分もろとも殺されることが分かっていましたから」
「……とりあえず頭を上げてください。あなたの謝罪を私が受ける理由はありませんから」
アスタがそう言うと、ブルーノはゆっくりと顔を上げた。
アスタはヴィルヘルムの方を見ると、しばし考えたあとにゆっくりと話し始めた。
「母から彼女のラクテアでの話を聞いた時、私は母の代わりに復讐したい、そんなようなことを母に言いました」
穏やかな口調とは裏腹に、言っていることはかなり物騒だ。ヴィルヘルムとしては総帥が危害を加えられるのを黙ってみているわけにもいかないので、もしアスタが何か行動に出たら抑えられるよう、慎重に二人に近づいていく。
「それでセルマ隊長……セルマさんはなんと?」
「もし、もしよ、あなたが私の代わりに復讐してくれるのなら、こう言いなさい――」
アスタはブルーノの目を覗き込むようにして見つめた。そして瞬きせずにそのまま囁くように言う。
「私は今、あなたのおかげで幸せよ……ってね」
その言葉を聞いたブルーノはまずは驚いたように目を見開いた。そして何度かその言葉を頭のなかで反芻した後、ふっと笑みを漏らした。
そしてそのまま、何かの栓が外れたかのように声をたてて笑い始めた。
「ああ……完敗ですね」
「母がこういう復讐を望んでいるので、ヴィルヘルムさんも協力していただけますね?」
意外なほど穏やかに微笑んだアスタは、ここ最近で一番まともにヴィルヘルムの目をまっすぐと見つめていた。このタイミングで自分に話が降られるとは思っていなかったヴィルヘルムはたじろいだが、すぐに小さく頷いた。
「何も聞いていないし見ていない。ただ……一つ質問がある」
「なんですか?」
「父君は誰なんだ?」
一瞬、アスタは虚を突かれたような表情になった。しかしもはや隠す必要がないと判断したのだろう。
「気になりますか?」
「ああ」
そう言ってからヴィルヘルムはもう一歩だけアスタに近づいた。そして次の瞬間、自分もまた彼女に騙されていたことを知る。
「オルヴァー・アッペルグレーンですよ。一応は有名人ですし、その娘が通訳するならば誰もが納得するとは思うんですけれど……ビア=ラクテアの首相であるヴィルヘルム殿はご存知ですか?」
アスタは悪戯が成功した子供の様に無邪気に笑ってそう言ったのだった。