契約書には気を付けて
ソラル暦二五六〇年、春。
大陸西南部に南北に並ぶ二つの国――ビア王国とラクテア王国。
その二つが紆余曲折を経て、ビア=ラクテア連合国として成立した。連合国誕生に際し、大陸全土を巻き込んだ世界戦争や、両国に隣接する大国との侵略戦争が大きな引き金となったことは間違いないだろう。両国に大きな爪痕を残した二つの戦争は、両国の――我が連合国の生活を大きく変えた。その衝撃は、両国間で数度にわたって行われた戦争をすべて水に流すに値するほどであった。
一方で、連合国成立を実行に移せた要因は他にもある。こう断言するのは、言語学教授ハールス氏である。ハールス氏によれば、両国それぞれの言語、ビア語とラクテア語。それらがベルシュ語という同じ言語から成り立っており、互いの言語である程度のところまで意思疎通できる。このことは、連合国成立において非常に大きな影響を与えている、と。ハールス氏はさらにこう言う。「ビア=ラクテア連合国は、ビア=ラクテア統一国(仮称)の第一段階に他ならない。王権はゆるやかに崩壊、あるいは統一されていくだろう」
「アスタ!」
新聞を読み込んでいたアスタは、自らの肩を容赦なく揺さぶられて、ようやく誰かが自分を読んでいたことに気付いた。
「あ、おはよう、レーア」
「あ、じゃないわよ! その様子じゃ、ハールス教授からの伝言をまだ聞いてないのね!」
典型的なビア人の証である金髪碧眼のレーアは、少し釣り目気味の目をさらに吊り上げてアスタににじり寄った。そのあまりの迫力に、手に持っていた新聞を落としてしまったほどだ。
【ビア=ラクテア中央鉄道開通!】の文字が躍る紙面が視界に入ってそれを思わず目で追うと、レーアが落ちていた新聞をすばやく拾い上げて、アスタの視界に入らないように自身の背中に隠してしまった。
「今すぐハールス教授の研究室に行きなさい! あなた、就職で迷ってるんでしょう? きっと良い経験になるわ」
「良い経験?」
「ほら、早く」
意味の分からないアスタは問い返すものの、レーアはそれ以上の説明を拒んだ。こうなっては立ち上がらざるを得ない。新聞の続きが気になったが、今はレーアの言葉に従って研究室に行くべきだろう。それに新聞社に取材を受けた張本人に会いに行くのだから、そちらに聞いたほうが早いかもしれない。
「行ってくる」
「あとで話を聞かせてね」
なぜかとても楽しげなレーアは、そう言うなりアスタの背中を押して部屋から追い出した。
追い出されたアスタは言われた通り教授の研究室へ向かう。歩きながら廊下の掲示物に目をやると、魔石研究所の広告が貼ってあった。その隣には開通したての中央鉄道の旅行パンフレットも置いてある。
最近のアスタはこういう広告を見る時に、その広告によって宣伝されている商品よりも、その会社の商業展開であったり、研究内容であったりと言ったもののほうが気にするようになっていた。
来年、学校を卒業するアスタは、自分がどういった職業につくかという人生における大きな選択を迫られているのだ。
アスタは自分の前にあるレールの一つは見えていた。そのレールに乗っかれば安全に就職できるだろう。
しかし、それが自分の本当にやりたいことなのか分からない。自分の中でまだまだ軸というものが定まっていないのだ。
両親が共に突出してある分野における天賦の才能をはっきしているため、アスタもその後を継ぐのだと思われがちであるが、実はその気はあまりない。というのも、自分には両親ほどの突出した才能があるとは思えないし、両親ほどその分野に興味があるわけでもないからだ。
漠然とそれなりの給料をもらえて、それなりに休みのもらえる職場がいいとは思う。しかしそれは、何をしたいのかという根源的な問いにたいする解答にはなりえない。
「アスタ、やっと来たのね」
考えごとをしながら歩いていると、研究室の先輩が声をかけてきた。自分では意識していなかったが、もう研究室の前までたどり着いていたらしい。そして声をかけてきた先輩もまた、アスタに説明をしてくれる気はなさそうだ。はやく入りなさいという一言を残して、彼女は廊下を歩いて行ってしまう。
「失礼します」
扉をノックしてそう言うと、アスタは教授の返事は待たずに部屋に入った。教授はしばしば研究に没頭して、他人の声を完全に遮断してしまうからだ。
部屋に入ると、天井までつくほどの背の高い本棚がまず目に着く。その次には山のように積み上げられた文献が散らばる大きな机だ。ハールス教授の机は他の教授の机より大きいというのに、雑多に置かれた書類のせいでずいぶんと小さく見えていた。
幼いころから父の研究室に遊びに行っていたアスタは、父のそれが一般的だと認識していた。そのためこの学校にきてハールスの研究室を覗いたときは心底驚いたものだ。ところが学校で生活していくうちに、研究者の部屋として一般的な状態であるのはハールスで、父の研究室は片付きすぎているのだということに気づかされていた。
「あいかわらず散らかってる……」
小さな声でそうつぶやくと、部屋の奥にある机で埋もれるようにして座っている白髪まじりの男性にそっと近づいた。
「教授」
予想通り机の上の書類に没頭していたハールスは、アスタがその隣まで歩いて行って呼びかけるまでアスタの存在にすら気づいていなかったようだ。彼は声をかけられるとかすかに肩を上下させて、それからぱっと顔を輝かせて言った。
「実習が決まったぞ!」
「……はい?」
この研究室ではおおよそ聞きなれない言葉に、思わず問い返してしまった。実習というのは、魔石の精製であったり、魔力以外のエネルギー開発であったり、そういうことを専門としている研究室の専売特許であり、アスタたちのような言語学の研究室にいるものにはおおよそ馴染みのないものであった。
「しかも給料付きだ。君を推薦しておいたから、行ってきなさい。できることなら私が行きたかったよ」
何やら一人で興奮しているハールスは、全く事情を飲み込めていないアスタに一枚の紙を手渡した。一番上には契約書と書かれている。
「”共同政府”がベルシュ語が話せる人を探していてね、本当は私に来た依頼だったのだが、これは君のが適性があるんだ」
「何を仰ってるんですか! もちろん人よりはベルシュ語に秀でてはいますが、教授より上手に話せる人なんてこの世にいません!」
新たな公用語となったベルシュ語は、ビア語とラクテア語の元となった古い言語であり、現代では神殿における記録や大がかりな魔術構成に使用されるぐらいのものだった。
それを研究し、発音を再現して体裁を整えたのがハールスである。彼の功績なくしては、ベルシュ語を再び公用語として使おうという動きにはならなかったと断言できる。
そのハールスが適任者でないというのならば、アスタには到底務まらない仕事である。
「ベルシュ語に関しては、私のが優れているかもしれないね。そこは否定しない。しかし彼らの求める人材は、ビア、ラクテア両言語を解した上でベルシュ語を使える者なんだよ」
「確かに今の時代で両言語を操れる人は少ないですけれど、政府関係者はベルシュ語を話せますよね? ハールス教授が新首都のエストレーラまでわざわざ出向いて、自ら講義なさったではないですか!」
「君も知っているように、政府関係者はベルシュ語を話せる。三年がかりでのプログラムだったからね。ところが、悲しいことに母国語には全く敵わないんだ。それに、話せるのは上層部であって全員ではないし、軍部の人間など話す気もあるのかどうか……」
ハールスはどこかあきらめたような口調で言った。
「それはまあ……ベルシュ語が公用語でなく常用語となるのは今の子供たち、あるいはその子供世代からを見込んでいますから」
言語統一の大変さは共同政府も一定の理解を示していた。しかし目指すところが統一国家であるならば、言語の統一はしておいたほうが望ましい。もちろん一つの国に複数の言語が使用されている場合もあるが、言語を統一したほうが団結力が高まるであろうというのが政府の見解である。
「そういうわけで、ハーフの君が最適だと思ったんだ。ラクテア語はたしかにビア語に似ているし、ベルシュ語とはもっと相似点がある。しかしながら、共同政府が探しているのはどちらも高度なレベルで話せる人材のようでね。それにベルシュ語にしたって、私は君に教えることは何もないのではないかと最初に疑ったぐらいだったよ」
「確かに私の家は三言語を使い分ける特異な家ではありますが……」
ビアとラクテアは何度も小競り合いをしていたし、世界戦争や侵略戦争の時にようやく同盟を結んだくらいであったので、ビア人とラクテア人のハーフは非常に珍しい。両国人の通訳であれば、確かに自分は適正が高いであろうとわかっている。
「就職に悩んでいるのだろう? これはきちんと給料も出るが、たった十日間だけの仕事だ。経験としては悪くないと思うが」
たしかに今、これといってやりたいことが決まっているわけではない。短期でも働いてみれば何か見えてくるものがあるかもしれない。
共同政府がどうして通訳を欲しているのかわからないが、一般人から募集するということは、機密事項を話すような重要な会議の通訳ではないだろう。そもそも共同政府は本日付で動き始めるが、その準備は三年がかりで行われてきたのだ。今更どたばたと何かすることもあるまい。
「教授がそうおっしゃるのでしたら、やってみます」
「そうか。良かった! では契約書にサインを」
教授はそういうと自分が持っていた羽ペンをこちらに差し出した。アスタはそれを受け取ると、契約書にサインした。
「では、これが詳細だ」
彼は契約書をするりと取り上げると薄い冊子を渡してきた。
「ビア=ラクテア記念急行……」
タイトルにいやな予感を覚えて、アスタはそれをぱらぱらとめくる。速読はアスタの強みでもある。このくらいであれば数分で読み切れてしまうだろう。
そうしてざっくりとすべてのページを読み終え、アスタは自分が騙されたと感じた。
契約書を奪い返そうと思い顔を上げると、ハールスがいたずらが成功した子供のような表情でこちらを見ていた。契約書はすでに彼の手にはない。どこかにしまったのだろう。
「謀りましたね」
「いい教訓になっただろ? 契約書は契約をちゃんと読むまでサインしてはいけないと」
茶目っ気たっぷりにウィンクをして、彼はそう言った。
彼の言葉は理にかなっている。だが誰が自分の担当の教授に騙されると思うだろうか。
「そのとおりですね!」
彼のダークグレーの髪をむしって報復してやりたい。
そんな衝動にかられながらも、アスタは是と言わざるを得なかったのだった。