白い本1
若き賢者と謳われるパレイゼ・リード・フェルマ――否、現国王パレイゼ・リード・レテノアは、何も最初から賢者だったわけではない。彼に知恵と知識を宿らせたのは、ある一冊の本だった。
真っ白いキャンバスのように何の色もない表紙のその本をくれたのは、それこそ本当の賢者だった。流浪の賢者、猫の知恵もの、呼ばれ方はさまざまだったが――ふわりとした亜麻色の毛並みをした彼女は一角獣を連れた猫の魔物で、移動書店をやっているのだと言って、幼い頃のパレイゼに一冊の本をくれたのだ。
「この本がきみのところに行きたがっているようなんだ」
猫の賢者は金を取ることはしなかった。「本が望む持ち主を見つけてやるのが私の仕事だよ」と言って、彼女は間もなく新たな旅に出発した。以来再会はしていない。旅の賢者は気ままで、いつどこに現れるかわからないものなのだ。
それはともかく、白い表紙の本を開いたパレイゼは、不思議な感覚に襲われた。自分の知らない誰かの人生を、いくつも追体験するような、脳内に一気に情景が駆け巡って、目の前の現実がどれだかわからなくなってしまうような――そんな奇妙な感覚が途切れた頃には、パレイゼはあらゆる知識を引きだせるようになっていた。そしてその知識によって、本が“持ち主の記憶を記録する”魔術品であることを理解した。
――つまり、パレイゼは、それまで本を所有していたことのある数多くの誰かの記憶を、そっくりそのまま受け継いだのである。
本来知りえないはずの誰かの秘密も、まだ習っていない学問の知識も、妖精には縁遠い戦略の話だって、パレイゼには理解できるものとなった。急に過去の人々の叡智を得た彼だったが、意外にもそのことが誰かに知られることはなかった。元々読書が趣味だったから、何を知っていても本で得た知識なのだと相手は勝手に勘違いしてくれたからだ――ある意味では全くの見当違いでもないのだが。元々リードの家系の妖精は感情を表すのが下手すぎて、表情が死んでいると言われるくらいに無表情だったのも多少なりとも影響があったか。
奇異の目で見られることがなかったのは、幸運だったのだろう。ただ賢い子供としてパレイゼは父を手伝い、領地経営に携わった。学ぶまでもなく、本の叡智によってやるべきことはわかっていた。父は優秀な息子を疑いもせず、パレイゼは仕事をし始めることこそ早かったが、領民にもそれなりに慕われ、概ね平穏な子供時代を過ごした。
その平穏さに終止符が打たれたのは、十五歳の誕生日を迎えたその翌日のことである。
「息子よ、国王陛下がお前をお呼びだ」
「なにゆえに」
「お前が賢いからだろう?」
父に連れられて、パレイゼは初めて王城へ出向いた。一応リードの家も王族と血縁ではあるが、特別近いというほどでもないため滅多なことでは王都へ行くことがない。若きパレイゼにとっては、そもそも領地から外へ出ること自体がほぼ初めてと言っていいような状態だった。
王都ゲリアの城は、絢爛という言葉が相応しかった。
フェルマの城は調度品も実用性一辺倒で飾り気がなく、建物自体は綺麗に作ってあるけれど、中身は全く面白みのない質素な城だ。それに比べて王城はあらゆるものが豪奢だった。最初に目に入ったのは凝った作りの庭園で、薔薇の木々がよく手入れされているのがわかった。廊下の天井には絵画が描かれており、それ以外にも歴代の王の肖像画が金の額縁に入れられて飾ってある。通された客間のベッドは体重をかけるとその分深く沈むような柔らかさで、家具も一流の職人が作ったものばかり――まるで別の世界に迷いこんだかのような錯覚を起こす、そんな場所だった。
そんな場所でも、白い本には“記憶”があった。一応パレイゼ自身は初めて見るものばかりでそれなりに驚きもあったのだが、何せ知識としては知っているものだ。他人からはまるで動じていないようにしか見えなかった。未だ成人も迎えていない若者が、急に呼ばれたにしては、堂々として怯えた様子もない――そんな風に見られたのが、果たして得だったか損だったか。
いざ国王との謁見の際もまた、パレイゼにとっては不思議なものとなった。
「そなたがパレイゼ・リードか」
謁見の間に入って、パレイゼが見たのは大臣や神官たち、護衛の騎士たちや女官たちといった大勢が控える中、玉座に座る豊かな髭を蓄えた妖精王だった――が、それに強烈な違和感を覚えた。
そして辺りを見回して、彼はその違和感の正体に気が付いた。周りから「一体どうしたんだ」と言われるのも気にせず、パレイゼは玉座を無視して一人の甲冑を着た騎士のもとへ行った。
「お初にお目にかかります、陛下」
そう言ってパレイゼが首を垂れると、騎士は兜を取った。そこにいたのは玉座にいるのと同じ顔――否、ほんの少しだけ目つきが優しく、眉が太い、よく注視しないと区別がつかないような、そんな顔の男だった。
「驚いた。影武者を見破られたのは初めてだ」
――彼こそが、本当の妖精王。それを悟ることができたのも、偏に白い本の記憶だが、そんなことはパレイゼ以外は誰も知らない。
さて、その妖精王は髭があるといっても、肌は艶があり、黒髪にも白髪一本混ざっていない。見た目こそ若々しく、パレイゼとそこまで変わらないように見えたが、長寿の妖精は老いるのが遅い。実際には数百年と生きているとの話だから、まだ老いる歳ではないだけなのだろう。
ともかく、影武者を使っていると看破したパレイゼのことを、妖精王は「噂に違わぬ賢さだ」と言ってひどく気に入ったらしかった。このとき、まだ子供がいなかったこともあって、遠い血縁である少年のことを息子のように思ったのかもしれなかった。
それからというもの、パレイゼはことあるごとに王城に招かれ、茶会に参加したり、国王やその正妃と遊戯に興じたりした。そこで鉄面皮による駆け引きの上手さを褒められ、豊かな知識から知識人たちの会話にも混ざるようになり――いつしか少年だったパレイゼの交友関係は、信じられないほどに広くなっていた。
交友関係が広くなるということは、それだけ色々と話を聞くということである。根も葉もない噂も多かったが、本人の口から秘密を打ち明けられることも増えてきた。パレイゼ自身が知りたいことばかりというわけではなかったが、そうして色々な方面から話を聞くことは、王城へ出入りするうえで立ちまわり方を考えるのに役立った。いくら過去の人々の記憶があっても、これから未来の話は自分で考えなければならない。勿論、過去の知恵は行動のヒントにはなった――人に特別好かれようとすると苦労するが、嫌われないように気を配る程度のことはそこまで苦ではないということもわかった。老いた政治家たちをよく敬っていれば嫌われはしない。嫌われてさえいなければ、わりと思うようにことが動かせる。好き勝手にやって生意気な若造と言われるよりは、多少侮られても子や孫を見るような目で見られるほうが都合がいいのだった。本当に好き勝手やるのは、フェルマ領があるからそれで充分発散できる。
あらゆる学問に通じる若きパレイゼはいつしか賢者と呼ばれるようになり、めきめきと頭角を現していった。フェルマ領を正式に継いだ後も国王の寵愛を受けて、気が付けば国政の議論に参加するようになっていたのだから人生とはわからない。成人の儀式の際には「いずれ栄光を掴み、フェルマ領はいっそう繁栄するでしょう」と言われたが、政治家になったことは栄光のうちに入るのだろうか。そもそも公爵という爵位が十分に栄光だと思うのだが、その辺りはパレイゼにはいまひとつ判別がつかない話であった。命に関わる内容ではないのでどうでもいいといえばどうでもいい。相変わらず国王と、ついでに正妃に可愛がられている日々である。父は「いやあ出世出世」などと非常にわかりにくい表情で笑っているが、一体何がそんなに面白いというのだろう。謎である。
パレイゼはただ、与えられた役目を全うすることに努めた。政治とは国を回すことである。より良く動かしていくために必要な準備を整えるのが役割だ――そう解釈し、国民の、ひいてはフェルマ領の民がより良い暮らしができるようにと尽力した。ここでも“先人の知恵”に助けられたことは言うまでもないが、だからこそ知識を得ることを重要視したパレイゼはまず実験的にフェルマ領に学校を作り、積極的に学びの場を作ることにした。知らなければ何もできなくとも、知っていればやれることが増える。それを身を持って体感している彼は、まず学校教育を当たり前とするための下地を作ることにしたのだ。このときパレイゼは二十六歳で、レテノアで初の一般市民に開かれた、授業料のかからない学校機関を作ったとして初めて歴史の表舞台に立つ瞬間でもあった。全国に学校教育を当然の常識として普及させるにはまだ時間が必要だったが、むしろこれまでのレテノアの体制が古すぎたのだとも思っている。これからは変革の時代だ。目指すところに向けて、できるところから変えていかなければ。
この頃、パレイゼは第一王子イースイルの教育係として指名される。パレイゼよりちょうど二十歳ほど年下の王子は、幼いながらに利発そうな目をしていた。王族の証である八枚羽の痣を持ち、それに見合う高い魔力を有する。
彼はずっと子のなかった国王に待望の長男が生まれたということで、何かと話題の人物でもある。それが真実かどうかはともかく、パレイゼも、王子の母である王妃ロランが子を授かるために旧く特別な魔術に触れたらしいと噂を聞いている。実際に魔族が王城に出入りするのも見ているため、あながち全く嘘偽りというわけでもないのだろう。その直後、側室のグレネ妃も子を身籠ったというから、パレイゼとしては急な話だと思ったものだ。
尤も、グレネ妃は何かと体調を崩しがちで、ロラン妃のほうも流石に二人目の子を授かった後は体に無理が祟ったようで寝込むことが多くなったが、なるほど、そこまでしてでも王との子は必要であるらしい。
当のイースイル王子自身は、自分の出自に関する噂までは知らないようだったが、周りから期待をかけられていることは肌で感じているようだった。遠目に見かける王子は子供ながらにぴりぴりとしていることが多く、しかし、パレイゼの前では気が抜けるようだった。たぶん懐かれているのだろう。何せ周りは王子に取り入ろうとする者や、その将来に期待をかける大人達ばかり。父や母でさえ家族であるより先に国王と王妃であり、息子を見るというより王子を見るという目で見てくるのだ。幼い少年にとっては、気を張らないでいい数少ない相手なのかもしれない。イースイル王子にとってのパレイゼとは、政治家としてよりも教師としてのほうが身近なのだ。パレイゼはただ与えられた役目を果たすだけなので、生徒であるイースイルが頼ってくるというのなら、教師として手助けするだけのことである。
「みんな完ぺきがいいんだ」
時折、イースイルはそう嘆いている。その理由を、彼よりは大人であるパレイゼは、よく知っていた。
「完ぺきじゃなきゃだめなんだ。でもうまくやれない。わたしは王子なのに」
少年はまだ幼くものを知らない。王子として完成するにはまだ足りないものが沢山あるが、それが子供というものだ。しかしながら、それを周りの者たちはよくわかっていないのだろう――冷静に一歩下がったところから観察していれば、なんとはなしにわかるものだ。ずっと望んでいた跡継ぎに相応しいであろう王子だから仕方がないといえば仕方がないのだろうが、色々と拗らせているに違いなかった。それが重圧として、イースイルにのしかかっているのだ。
「殿下は真面目であらせられる」
期待された分、応えようと努力するのはこの王子の良いところだ。期待されるのが当たり前となっている状況のなか、その全てを背負おうとするのは上に立つものとして生まれた気質なのだろうか。
「だがそれだけでは殿下が疲れてしまうだけですよ」
「でも」
「殿下は殿下らしくしていればいいのです。知識や経験などはなくて当然です、あなたはまだ子供なんですから。それがわからない馬鹿な大人達のために泣く必要はありません」
「泣いてない」
「大体、完璧なんてものはこの世のどこにもありませんよ。そんなものは幻想です。どんなに素晴らしく見えるものでもどこかしら歪みや傷があるものです。逆に、そんなところがない人がいたら、それは人らしくなくてつまらないでしょう。殿下を泣かせるような輩もつまらないには違いありませんが」
「パレイゼ、人のはなし聞いてるか?」
「私はあなたが完璧でなくとも、あなたを大事に思っておりますよ」
これは本当の気持ちである。いくら役割だといっても、勉学を推奨する立場にいて、初めて受け持った生徒がイースイルなのだ。最初の教え子であり、いつかは彼に仕えるようになる。そこに情が湧かないはずもなく、真面目に授業に取り組むよき生徒としても、未来の主としても、大事な存在には違いない。それに最初から完璧であったら、教えがいもないというものだ。
イースイルは、そこでようやく、くすりと笑った。
「パレイゼはやさしいな」
顔はつめたいけど、と言われて否定できる要素がまるでなく、パレイゼは苦笑せざるをえなかった。リード家の者は代々表情筋に問題がある――どうしようもない。
「パレイゼがいれば、わたしもがんばれそうだと思う。妹たちにもはずかしくない兄さんでいたいし」
子供らしい、明るい笑顔であった。パレイゼは安心した。子供が笑っていられることこそ、一番良いことだ。