臆病風には吹かれない3
良く晴れた日だった。
害獣退治のために特別にゼルズの船を出す。エークはいつものように自転車で遊びに行くふりをして、船の荷に隠れてこっそりと乗り込んだ。やり口は完全に密航者のそれである。荷物の中に紛れ込んでも、子供の体重はさほどでもないので案外ばれなかった。
首尾よく荷物と柱の隙間に隠れて様子を窺う。後から乗ってきたマダム・ヴィオレは、船員たちにあれこれ指示していた。微妙によく聞き取れないが、害獣相手に戦ううえで必要な準備なのか、皆真剣な顔つきをしている。
マダム・ヴィオレはいつもと同じく、黒いジャケットを着ていて、動きやすそうな格好をしていた。冒険者というからには冒険のためには何か特別な格好をするのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。確かに波に揺れる甲板で重い鎧なんか着てはいられないだろうが、それにしても軽装だ。筋骨隆々とした海の男たちに混ざっている彼女は随分と細身で目立つが、いつもどおり堂々としてそこにいるからおかしいという気もしない。不思議なものだ。
やがて船が動きだすと、いよいよエークも緊張してきた。害獣という災害を間近で見ることになるのだ。危険な存在だ。だからこそ冒険者や専門家でなければ対処が難しい、そんなものとの戦いを見ようというのだから、それなりの覚悟はしておかなければとも思う。
沖に出てから船が止まる。マダム・ヴィオレが何か綺麗な色をした石――先日一緒に買いに行ったがらくたの中にそんなものがあった気がする――を海へ投げた。
波の音に紛れて、ぼちゃんという音すらわからなかったが、しばらくして突如がくんと足元が揺れた。波の揺れとは違うそれに、エークは慌ててバランスをとった。ふと太陽の明るさが遮られて上を見ると、黒っぽい巨体の“何か”が船の上を飛び越えていった。
ばしゃん、と大きな音を立てて海に沈む。巨体が暴れた影響で海水が跳ねて頭上から降り注いだ。びっしょりと潮水に濡れた服が肌に張りついて気持ちが悪いが、そんなことは言っていられない。エークは目の前の怪物に息を呑んだ。
それは、蛇のような姿をしていた――エークの知識では図鑑で見たことがある程度だが、まさに海蛇といっていいような外見だ。ただしそれは異常なまでの大きさで、開いた口から牙が見えた。まさに怪物そのもの――害獣の恐ろしさに圧倒されていると、不意にマダム・ヴィオレが動いた。
「思ったよりあっさり釣れてくれたな――暴れるんじゃないぜ!」
彼女が愛用の銃を取りだす。銃は濡れていて、彼女は舌打ちをした。エークと同じように潮水に濡れている――銃が湿っているのはよろしくない。彼女が指を鳴らすと、ふわりとした風が吹く。エークが瞬きした次の瞬間には、彼女の服は乾いておりしっとりと張り付いていた髪の毛もさらりと風に揺れた。銃も湿気った様子がなくなり、彼女が引き金を引くと乾いた音を立てて銃弾が飛び出し、害獣の目を潰すように裂傷を作る。さらにマダム・ヴィオレが新しく弾を替えて撃ちこむと、害獣の動きが徐々に鈍くなる――麻酔毒でも仕込んでいたのだろうか。あからさまに動きが違った。
それから、マダム・ヴィオレはジャケットの内側から新しい石を幾つか取りだして、害獣に向けて振り被って投げた。あの石たちもエークは見覚えがある。
カラフルな石はまっすぐ害獣に向かい、当たった瞬間に弾けた。それは爆発した、と言ってもいいような大きな音で、それと同時、ぼんやりと光を放つ糸のようなものが広がって害獣に絡みつく。エークでもわかるほど、それは魔力に満ちた糸だった――魔術品だ。
まるで網だ。今、害獣は人を襲う怪物ではなく、狩られるものとなっている。
先程のように暴れようとする害獣だが、しかし糸が邪魔なのか、毒で力が入らないのか上手くいかないらしい。その様子を見て、船員たちが「おお」と歓声を上げた。マダム・ヴィオレは「船の結界装置を起動させろ!」と指示を飛ばし、それに従って船員たちが何か機械を操作する――これも魔術品の一種だ。外敵から船を守るための道具で、父が金をかけたと言っていた覚えがある。内側からは出られるが、外側のものを寄せ付けなくするのだ。
害獣が口を開いて、噛みつこうとするかのように船に向かってくる。だが、結界と糸に阻まれて失敗している。目を傷つけられたのも影響しているだろう、黒ずんだ体液を撒き散らしながら、害獣は吠えるように牙を剥いた。
「お前ごときに食われてやる餌は此処にはいないぜ」
マダム・ヴィオレが再び石を投げる。害獣の口の中へ放り込まれたそれは、体の中で一体どのような魔術として発動したかわからないが、間もなくしてその巨大な海蛇は黒い血を吹いて海の中へ倒れるように沈んだ。
「おい、あいつを引き上げろ! あれだけの害獣の肉なら多少傷があったって魔力は充分、魔術師たちがこぞって欲しがるぜ。相当な価値がつくぞ」
すっかり慣れた様子のマダム・ヴィオレは、本当の持ち主である父よりも船長らしく見えた。船員たちが結界を解いて害獣の死体を引き上げにかかる中、彼女はかつかつとヒールの音を鳴らして積荷のほうへやってきた。
「――それで、エーク坊やはどうしてこんなところにいるのかな?」
エークはぎくりとした。にいやりと、彼女があくどい顔をしている。美しい顔立ちにしては、悪戯っぽく、いっそエークと歳の変わらない少年のような表情だった。
上から覗き込まれて逃げ場もなく、エークは曖昧に笑いながら「ばれた?」と言って彼女を見上げると、マダム・ヴィオレはにやにやと唇の端を吊り上げたまま、しかし諭すように落ち着いた声色で言った。
「そんなもん、最初っからわかってたよ」
◆◆◆
害獣退治に出かけたのは朝のことだったが、巨体の害獣を回収して帰るまでには、すっかり陽も暮れた後のことで、正直なところエークはひどく睡魔に襲われたので、もしかしたら真夜中だったかもしれない。星明りだけでは時計の針はよく見えず、港へ戻った際に出迎えてくれた両親からはこっぴどく叱られることとなった。子供が出歩くような時間ではなかったので多大な心配をかけることとなったのはエークとしても反省している。
一緒に謝ってくれたマダム・ヴィオレには暫く頭が上がらない。その日は何だかんだで害獣退治の祝いや謝礼もかねて、ゼルズ邸に一泊することとなった彼女は、エークがようやく両親の説教から解放された頃合いを見て、いつもどおりの気安さで声をかけてきた。
「おうエーク、疲れた顔してんな」
そう言うマダム・ヴィオレは、あのような恐ろしい害獣と戦ったあとだというのに、全く疲れも感じさせない。慣れた様子で仕留める様子を、エークは確かにその目で見ている――やはり彼女は本当に冒険者なのだ。間違いない。
エークは疲れていないと虚勢を張るのも面倒で、素直に白状した。
「こってり絞られたあ……」
「だろうな。これに懲りたらあーいう悪戯はやめとくんだな。お前がくっついてくるとは……まあちょっとくらいは思ったけど、本気で決行する度胸があるかどうかは疑ってたから俺も驚いたぜ」
「今度からは置手紙してくる」
「またやる気かおのれは……」
彼女は呆れたような物言いをするが、それで大人しくするようなエークではない。そもそも冒険者はそれなりに儲かると言ったような女に、少年の冒険心を潰すことはできないのだ。
「ま、ほどほどにな。今回みたいに相手が大したことなくて、お前が大人しくしてるってならいいけど、予定外のことが起こるとどうなるかわからない。俺や他の連中がお前を守りきれる保障はないし、お前自身がもっと強くならなきゃ駄目だ」
「魔術とか覚えて?」
エークが問いかける。通常、魔術は戦闘に使うようなものではないが――極めれば戦いに応用することもできるという。魔術品を使って害獣を駆除したマダム・ヴィオレも、ある意味ではそういうタイプの魔術師と言える。
幸いエークには魔力は潤沢にあるのだ。真面目に学ぼうとすれば、ものにすることはできるだろう――いつになるかはわからないが。
ただの子供であるのがいけないなら、変わればいい。その気持ちを籠めてマダム・ヴィオレを見つめると、彼女はいつになく優しげな顔で微笑んだ。
「そう、魔術とか覚えて――邪魔じゃなけりゃいい。どうせいつかはゼルズを継いで海に出るんなら、それまでに冒険の準備を済ませておけばいい」
大人になる前っていうのはそういう時間なのさ、と彼女は言った。子供のエークにはよくわからない感覚だが、そういうものなのだろう。
「マダム・ヴィオレが超本気で魔術を教えてくれるっていうなら本気出すかなあ」
「俺も忙しいからなあ、付きっ切りとはいかんが。未来ある若者には道を用意してやる、ってのも大人の仕事かねえ」
「いいの?」
「やる気があるならな。って言っても、大体教科書読んで宿題やれみたいな感じになりかねないが」
「うへあ」
「課題をちゃんとやってるか時々抜き打ちで実技テストをやる」
「もうやる気が起きない」
「おい」
――やる気は確かに起きないが、しかし、それはきっと必要になることなのだろう。
必要なことだろうが、言われたまま素直に従うのは何だか嫌だ。普段から学校の先生や家庭教師にあれこれ言われるのも本当は嫌なのだからこればかりは仕方がない、子供らしい反抗心というものだ。
「あ」
その時エークは思いついた。
「なんだ」
「なんでもなーい」
「……気になるような声を出すなよ」
マダム・ヴィオレは訝しく思ったようだが、これは内緒の話である。そうだ、言われるままに勉強するのが嫌ならば、勝手に勉強すればいいのだ。どうせ初心者のエークにはそれほど難しいことはわからないから、まずは簡単なところから、適当に図書館で教本になりそうなものを借りてくる。それか、父の書斎から何か本をかっぱらって来ればいい。そして一通りの基礎を身につけ、基礎から教えようとするマダム・ヴィオレを驚かせる――なかなか面白そうな計画だ。果たしてそれが上手くいくかどうかについては、現在のエークはまだ計算していない。
ふと、エークがマダム・ヴィオレを見ると、彼女が左手の薬指に指輪をしているということに気が付いた。それほど派手な飾りはついておらず、目立たないそれは、鈍く銀色に輝いている。
「マダム・ヴィオレって指輪とかするんだね……あ、それももしかして魔術品ってやつなの?」
彼女は魔術品を使うことで戦う魔術師だ。だからそう思って聞いたのだが、彼女はエークの予想とは違う答えを寄越した。
「ああ、これか。夫に貰った」
「……夫?」
エークは首を傾げた。夫――配偶者、旦那、夫婦の片割れ。夫がいるということは、結婚しているということである。聞き間違いかと思ったが、マダム・ヴィオレが丁寧につけたして「おう、この前結婚したからな」と言った。
――信じられない。エークは開いた口が塞がらない、というくらいに驚いた。驚いて、一瞬会話を忘れてしまった。マダム・ヴィオレは何でもないような顔をしていて、それがまた信じられない。
「んん? そんなに驚くことか? ああ、そういやまだ言ってなかったか」
「…………は!? マダム・ヴィオレみたいながさつな女と結婚する男存在したの!?」
「……エーク、お前本当に言葉選べよ。子供じゃなかったらぶん殴ってるからな」
そこまで言われても、エークはまだ衝撃から抜け出せないでいた。いくらマダム・ヴィオレが美人だといっても、エークが知る彼女は目つきはきついほうだし、行動も男勝りで口も悪い。まさかそんな女と結婚する男がいるなどと、まったくもって夢にも思わなかったのだ。
「そういや連絡ちゃんと入れてなかった。うちの連中最近色恋沙汰で気が立ってるんだよな……ゼルズの電話借りるか……」などとマダム・ヴィオレがぶつぶつ呟いているのも耳に入らず、当然ながら彼女が電話をかけた先がどこかもエークは知らない。今はまだ、急に突きつけられた一つの事実を受け止めるのに時間がかかっている。
彼が全ての真相を知るのは、これから先、まだ数年は未来の話である。
というわけで第二弾完結です。
ロズの偽名であるマダム・ヴィオレですが、実際にそういう品種の薔薇はあるそうですよ。面白いですね。