第三話
ネビューリオ王女。レテノア王国で、現在王代理として表に立っている、ロラン妃の娘でありイースイルの妹に当たる人物だ。今年で齢十五となる美しい姫君で、至上の妖精と謳われ、次代の王は彼女が継ぐものと言われている。今は実際に政治の舵取りをしているのは彼女の補佐役についているフェルマ公爵と、彼女の腹違いの姉ミルディア王女ではあるが、いずれ彼女が成長し相応しい時がくれば女王らしくなるだろう。
彼女を王にする――果たしてそのために行動する必要があるだろうか。何の問題もなければ、順当に王となるのはネビューリオなのだ。病気がちの王が跡継ぎを彼女にすると言えば、それを遺言に残せば、それだけで彼女は冠を受け継ぐことになる。それをわざわざ、王にするのだとイースイルは言った。
「……切羽詰まった事情でもあると?」
ロズは言いながら、自らも思考を廻らせる。レテノアの政治は主に妖精のものであり、魔族はそれこそ魔界貴族とも呼ばれるような立場にあれば領地を得るが、中央の政治にまで関わることはそれほど多くない。
それでも情報が全く入ってこないわけではない。国防の要である魔王は当然妖精たちとそれなりに話し合いをするものだし、それに加えて妖精と魔族の関係強化のために婚姻という手段が用いられることがあるからだ――その善悪はともかくとして、親戚を通じて、事情が漏れ出すことは往々にして存在する。ロズもそういった手段によって中央に物騒な気配が漂っているという噂話くらいは聞いたことがあった。有力な貴族たちが次々と不審死を遂げているという、噂を――。
「レテノアの国益のためです」
イースイルは言った。
「私がどこで何をしていたかと言いましたね。私は――二年前、殺されかかったのです」
そして彼は過去を語った。何者かによって陥れられ、命を失いかけたこと。川に突き落とされたが、運よく流された先で救われたこと――その救い主が、隣国ミュウスタットの有力者であったこと。
「ミュウスタットの危機を避けるためでもあると言って、彼は私に世話を焼き、世の事情を教えてくれました。そして私は、レテノアに迫る危機のことを知ったのです。レテノアに不穏な影があるという話も幾つか聞きました――そこで私は彼の援助を受けて、レテノアに戻ってきたのです」
「ふむ……」
イースイルが行方不明となった事件に、ロズとてきな臭いものを感じなかったわけではない。彼についていた騎士たちは皆死んだが、その中には魔族の出身の者もいた。それを理由に魔界でも調査が行われたが、証言者は誰一人いなかったこともあり、謎の解明はできなかった。まるでイースイルが見つかっては不都合だと言わんばかりに、証拠らしい証拠は残っていなかったのだ。妖精側の捜索も一年で打ち切られ、真相は闇の中に隠された――ロズはそんな印象を持っている。
果たして彼の言っていることがどれだけ本当のことなのか、いまひとつ判断がつかない。嘘を言っている目には見えないが、彼の情報筋が確かなものかどうかはまた別の話だ。
(だが、イースイルの身なりはそれなりのものだ)
上質な布を使った服、綺麗に切り揃えられた髪。イースイルは有力者に助けられたと言ったが、まさに彼の格好がそれを証明している。これはそれだけ裕福な者でなければ用意できない。
ロズがじっくりと考えをまとめようとしていたそのとき、結界が風に揺れた。
「――この感じはオッさんが戻ってきたっぽいな。迎えに行くって言ったんだが待たせすぎたかな」
「オッさん?」
「俺の連れだ。俺たちは今日は一晩ここの宿に泊まって、明日帰るが――イース、あんた行くあてはあるのか? おいそれと王宮には帰れないだろ」
生きていることが知られたら、彼を邪魔だと思っている者は今度こそ彼を確実に殺しにかかるのではないだろうか。彼の敵がどこにいるにせよ、そこへ戻れば目立つのだ。よく見える狙いやすい的を狙撃手は逃さないものだ。
「そう……ですね。もうじき女神祭があります。祭りのときには王宮の庭が一般にも解放されますから、その時に中に潜り込んで、信頼できる誰かと接触できればよいのですが――」
「行き当たりばったりかよ」
ロズが指摘すると、ばつが悪そうにイースイルは目を逸らした。
「路銀がないわけではないのです……いざとなったら服も売れると思いますし……野宿という手もありますから……」
(無理そうだ)
一応全く考えなしというわけではないようだが、どうにも頼りないことは確かだった。金はいずれ尽きるものだし、運が悪ければ盗まれないとも限らない。野宿をするといっても害獣への対抗手段に乏しい彼には危険が多すぎる。
物乞いでもできればどこででも生きていけそうなものだが、前世があるとはいえこの世界では王子として育てられた人物がそこまでプライドを捨てられるようにも思えなかった。そもそも前世がどのような人物だったかもわからないが、基本的に丁寧な物腰の彼が乞食をやらなければならないような身分だったとは考えにくい。やはり放ってはおけない。
「まあいいさ。行くところがねえならうちに来い。とりあえず寝床とメシは提供できるぜ」
「よいのですか?」
「袖触れ合うも多生の縁とか言うしな。一応俺にはあんたを、まあ厄介な相手にバレない限りはだが、保護してやれるだけの金と権力がある。あんたがやろうとしてることに関しちゃ魔王の意見を仰がなきゃ何とも言えねえけど――その辺は明日どうせ会う予定あるしな。お前も来ればいいだろ」
「ロズさん……」
「それに、さっきの話、個人的にはもうちょい詳しく聞きてえし――数少ない同胞とは仲良くしておきたいよ」
ロズはそう言って、結界を解いた。イースイルがそのまま戻っていく彼女を追いかけていくと、そこには二足歩行の猫がいた。
「姫様、お姿が見えないので心配しましたぞ」
「悪い悪い。もう解体終わったのか?」
「我が配下の魔物たちが大体食べ尽くしたのです。やつらの悪食はいかがなものか……おかげで想定よりも早く片付きましたので、一角獣に乗って戻ってきた次第です。ああ、勿論心臓はきちんとよけておきましたとも。ベルク城に配達するよう魔物たちに言いつけておきました。首は魔王城に届けさせましたが」
「おう、これで条件は満たしたな。後で牙と目玉が取り分にならないか交渉がいるかな……何はともあれでかしたオッさん。流石頼りになるぜ」
「ふふん、吾輩の人脈は広いのです。まあヒトではないですが。帰りのために一角獣は待たせてあります。帰りは馬車、絶対馬車です」
「俺のバイクそんな不満か」
そこでオーウェンは様子を窺っていたイースイルの存在に気が付いたようで、慌てて傅く。人目のある場所でその行動はひどく目立つので、ロズは二人を連れて泊まる予定だった宿へ向かった。
「一人追加だ。部屋はあるか」
◆◆◆
無事にイースイルの今晩の宿を確保したところで、オーウェンにも事情を話す。イースイルが目的を持ってレテノアに戻ってきたが簡単に身分を明かせないこと、そしてそのイースイルをロズが匿うということ。
「そんなわけで王子様はしばらく旅人のイース君として過ごすことになった。俺が興味本位で招いた客、表向きにはそんな感じの設定だからよろしく」
「かしこまりました。このオーウェン・O・オーウェル、決して口は滑らせませんぞ。しかし、殿下は本当にそれでよろしいので……?」
「私にとっては願ってもない話です。オースリー伯爵、どうかあなたも協力してください」
「もちろんでございますとも殿下、いえイース殿!」
こうしてオーウェンを丸め込むことに成功した頃にはすっかり夜で、明日の出発に備えて休もうということで落ち着いた。ロズは周りがすっかり寝静まったような頃、それでもまだ隣の部屋のイースイルが起きている気配を感じて、その戸を叩いた。
「寝付けねえの?」
声をかけると、イースイルが振り向いた。部屋の中は明かりもつけず薄暗いが、窓から差し込む月の光がその横顔を照らしている。端正な顔立ちに青い影が差し、純血の妖精族らしい美しさが際立つ。
「明日は早いぜ」
「……でも、まだ、眠くならなくて」
そう言うわりには、すっかり疲れたという表情である。害獣に襲われて死にかけたという経験が彼をまだ緊張させているのかもしれなかった。
「そうか。なら眠くなるまで話でもしようか」
ロズは笑って、部屋の中の椅子に腰を下ろす。堂々と足を開き、膝を肘掛代わりにしながら体を前に傾けたその姿勢には女性らしさの欠片もない。一方でベッドに腰掛けたイースイルは上品に足を揃え、背筋をぴんと伸ばしている――彼のほうがむしろ女性的なようにも見えた。何の話をしようか、と考えている中でロズはそういったイースイルの仕草が何故か目についた。
「……あんた、何となくだけどさ、女みてえなとこあるよな」
何故かイースイルからは男性らしさをあまり感じなかった。それを指摘すると、イースイルは苦笑した。
「そうですか。そう見えましたか」
「気を悪くしたらすまん」
「いえ、構いませんよ。その……前は、女性だったので」
前、とは前世のことだ。それはつまりイースイルもロズと同様に生まれてくる性別を間違えたということである。
「思い出したのは二年前に死にかけたときだったのですが、突然のことでしたから、前の私と今の私の折り合いをつけるのが難しくて……あなたが私と同類だから、気が緩んでいるのかもしれないな」
「成る程そういうやつか。理解した。奇遇だな、俺は前男だったんだぜ」
ロズが覚えている限りでは、男やもめの工場作業員というしがない一般市民だった。イースイルとは違い思い出したのは子供の頃だが、徐々に馴染むように思いだした。ロズは貴族として受けた教育を被るべき猫だとして扱うことで割り切り、自分の中の男性性を隠すこともせず開き直った。周囲に文句を言われ続けているが、仕方ないと受け入れられている部分もあるので、ロズとしてはそれでよかったのだと思っている。
「でしょうね」
「ついでに言うと男やもめの工場作業員ってやつだった。機械には強いほうだぜ」
「でしょうね……」
イースイルはしみじみと言った。そう言われるだけの態度を見せているのでロズは言い返す言葉もない。元より気にもしていない。
「……ロズさんは、違う性別になって、困ったことはありました?」
イースイルは話題選びに少し迷ったようだったが、少し逡巡して、そう切り出した。「私は今のところあまり苦労はしていないのですが」と言う彼に対し、ロズの答えはいくつかあった。女性の体は前とは勝手が違うだとか、必要に応じてしなければならないメイクが煩わしいとか、主にそういうことだが、差し当たって困るといえば伯父である魔王が持ちかけてくる婚姻話だった。
「まあ現在進行形でわりと困ってんな……」
「そうなんですか?」
「こういうのは男女のあれやそれとでも言えばいいんだろうか」
魔王がロズを結婚させようとしている事情をかいつまんで説明する。ロズには顔も知らない相手に一生自分を偽って尽くすのは無理だ。そこで害獣狩りに話が転がり、結果としてイースイルを助けることに繋がった。
「そうか……そんなこと考えてもみませんでした。確かに一生のパートナーを勝手に決められたら困りますね」
「あんたも他人事じゃねえんだぜ。うっかりあんたの正体がバレて、王族として連れ戻されるなんて展開になったら、あんたの前世事情なんか一切知らん女が嫁いでくる……なんて可能性がないわけでもないだろ。ほぼねえとは思うけど」
そう言うと「あッ」という小さな声が聞こえた。彼はレテノアでは死んだものとして扱われているが、実際は生きていると知れたら一体どうなるかわからないのだ。彼を邪魔に思うものは彼を殺すだろうが、どこか政治に容易く口出しができないような遠くの貴族に婿に出されるという可能性も否定はできない。たとえ王子に戻らなかったとしても、一般市民として生きていく中でどんな縁ができるかわからず、誰かに人を紹介されるかもしれないのだ。こうしたことが起こり得ると否定できないというだけで現実的な想像ではなく、ロズの言葉は半分冗談のようなものだが、イースイルは深刻そうだった。
「そうですよね、何の拍子に結婚を推し進められるかわかりませんしね……私がそれまで生きてられるかどうかはともかくですけど」
「あんた死ぬ予定立ててんの?」
「何の拍子に殺されるかわからないなあとは思っていますよ。前も若いうちに死んだ気がするし、今生でも既に一度殺されかかった身ですから……色々な人に命を拾われて、どうにか今を生きているだけです。この命もロズさんに拾っていただかなければ、どうなっていたことか」
害獣に襲われてしかも気絶、というと誰かの助けがなければ絶望的な状況だ。意識のないうちに死ねるなら痛い思いをしないですむが、イースイルのように目的のある者にとっては志半ばにして死ぬなど許容できることではないだろう。
ロズはふと、あることを思いついた。それは何だか悪くない考えのように思えたので、そのまま口に出した。
「損はさせねえから、あんた俺と結婚しねえ?」
イースイルはロズの言葉に一瞬動きを止めた。それから、生娘のようにあからさまに狼狽えて、薄暗い中でもわかるほどその白い頬を紅に染めた。
(初心だなあ……)
ロズが取り乱すイースイルを呑気に観察していることを気にする余裕もなく、彼はすっかり熱を持った顔を両手で隠しながら、指と指の隙間からロズの様子を窺う。
夜はだんだん更けていく。