第四十五話
――まだ何も知らない少女だった頃、彼女は母に呪いを植え付けられた。
「可愛いミルディア、私の娘。あなたこそが全てを手にするのよ」
レテノア王に側室として嫁いだグレネ妃――ミルディアの母は、毎晩のようにミルディアにそう言い聞かせた。それこそ朝を迎えても耳から離れないほどに染みついたその呪いは、ミルディアに野心を抱かせた。
結局、グレネ妃はミルディアの成長を見届けることなく、若くしてあっさりと流行り病にかかって死んだ。幼いミルディアに残されたのは、グレネ家の持っていた葡萄酒という金と、妖精としての才能の乏しさから疎まれる日々だった。
華奢で可憐な正妃ロランとは違い、グレネ妃は豊満な体つきをした華やかな美貌の女だった。そして野心家でもあった。国王とロラン妃の間になかなか子が生まれなかったことから、そこに付け入る形で彼女は王にすり寄ったのだ。自分が王の子を産めば、グレネ家の権力は絶対的なものとなる。遠い昔、グレネが失ったメーフェの地を取り戻すためにも、その権力は絶対に必要なものだった。
だが、グレネ妃の予想に反して、ロラン妃のほうが先に子を身籠った。生まれた子は才能豊かなレテノアの第一王子――対して、一年遅れてグレネ妃が授かった子は国王の血を引きながら、妖精としての才能に乏しい娘であった。それに追い打ちをかけるように、ロラン妃はもう一人の子も産んだ――二人の子を授かったロラン妃を、国王はこれまで以上に深く愛したようだった。あからさまではなかったが、グレネ妃は徐々に遠ざけられていった。
「子を身籠るために魔術に手を染めた卑しいロラン。まっとうに生まれてきたわけでもない子供が第一王子だなんて。娘のほうだってまともなはずがない」
幼かったミルディアは、母の恨み事を、全てその身に受け止めた。漠然と、ロラン妃は悪いことをして、イースイルもネビューリオもおかしいものなのだと、そう考えるようになった。グレネ妃は娘に対して「あなたこそが本当の王女なのよ」と慈愛に満ちた声で囁いた。ミルディアは何の疑いもなく、母の言葉を真実だと信じた。
グレネ妃は娘にさまざまな教育を施した。グレネ家には金があった。それを存分に使って、あらゆる学問をミルディアに学ばせた。全ては欠けたところのない完璧な王にするためで、良い成績であれば砂糖よりも甘いくらいにミルディアを褒めた。母の愛を受け取るために、ミルディアは学びに没頭した。母の期待に応えなければ、母の愛は得られないのだ。いずれ権力を勝ち取って、メーフェの地を取り戻す――それを成し遂げてこそ、母から本当に愛されるのだと、幼いミルディアは信じていた。
だが、ロラン妃もグレネ妃も病によって逝ってしまった。才覚溢れるイースイルが次の王として期待される中で、ミルディアは自らの正統性を信じるしか――母の遺した言葉しか、縋るものがなかった。
やがて成長して、ミルディアは世間的に見て、自分の血のほうが劣っていることを悟った。イースイルやネビューリオがどのように生まれたかなど誰も知らないことなのだ。ただ、旧く優れたロラン家の血を引く妖精として優れた彼らこそが、世間的には正しいものだった。望ましい形さえあれば、どこからも不満は出ないのだ。
それでも、権力を諦めるわけにはいかなかった。それを諦めてしまったら、あの美しい母を裏切ることになってしまう。
そうして、ミルディアは動くことに決めた。幸い、母の教育の賜物で、知識だけは豊富だった。若き賢者には劣るだろうが知恵は回る。母が望んだグレネ家の未来を手にするために、邪魔なものは始末しなければならない。
次々と、意見の合わない者や、これから敵対しそうな貴族を政治の場から追放し、あるいは殺した。都合のいい駒になってくれる者がいれば金や地位を餌にして誘惑したし、それも必要なくなれば始末すればいいだけのことだった。イースイルのことも追いやった。
そうして成人の日がやってきた。レテノアの慣習である予言で「大抵のことは思いどおりになる」と言われたら、もう止まることはできなかった。たとえそれに「真に欲するものは、手に入ることはない」と続いたとしても、ミルディアは自分の野望を上手くいく大抵のことのうちに含めてしまいたかった。
実際に上手くいっていたのだ。自分を顧みない父のことも、毒によって病の淵に突き落とした。自分の進む道を遮るものは、こうして片付けていけばいいのだ。ラドルフというよく言うことを聞く犬のような騎士も手に入れて、最早障害となるものは王代理となったネビューリオだけだ。
ネビューリオだけの、はずだった。
「お姉様がいてくれると、安心できます。わたくしのたった一人のお姉様」
半分だけ血の繋がった妹は、そう言ってミルディアに笑いかけた。心から信じているとでもいうかのような、聖女のような陰りのなさで。
壊さなければならない。グレネの悲願のために、ネビューリオは邪魔だ。邪魔なものは遠ざけなければ。それなのに、妹はロラン妃に似た可憐さで、当たり前のことのように、ミルディアに笑みを向ける。敵視すべき腹違いの妹であるはずなのに、彼女の笑顔ときたら、ミルディアの母の慈愛とよく似ていた。
――ああ、やめてくれないか。わたくしはお前を愛するわけにはいかないのに!
その後、ミルディアはネビューリオの暗殺を計画したが、失敗した。いずれ時を見て始末すればいいのだと思いながら、ミルディアは終ぞ妹を殺すことは、できないまま今に至る。
◆◆◆
「妖精軍はもうもちません」
戦況は芳しくないというのを、ミルディアは黙って聞いていた。既に防衛線は破られ、魔族の兵士たちが押し寄せてきている。
これからどうすれば、と指示を仰がれて、ミルディアは嘆息した。金で集めた戦士たちに騎士の格好をさせたところで、所詮はまがい物にすぎない。自分で戦い方を考えることすらできない連中なのだ――何一つ期待できない。
そこへ慌てて走ってきたのか、息を切らした侍女が、ミルディアの部屋のドアを叩いた。彼女を招き入れると、大変です、と焦った様子で報告した。
「ファイト卿が戦死なさいました」
「……ラドルフが」
「物陰から隠れて見ていたのですが……」
ロズ・バルテルミー・ベルクとの戦いで、死んだはずのイースイルに似た男が乱入し、ラドルフを刺したのだと彼女は言った。ミルディアはそれが本当のイースイルであるとわかっていた。どうにもあの腹違いの兄はしぶとく、そして目障りであった。
真実を知らない侍女がまだ何か言っていたが、ミルディアはあまりよく聞き取れなかった――元より聞く気がなかった。侍女が戦士たちの戦いを間近で見て恐ろしかったとかいう体験のことなど、どうでもいいことだった。それを聞いて何の役に立つわけでもないのだ。
だが、最後のほうになって、ようやく彼女の言葉もミルディアに入りこんできた。
「何でもウルズヴィヒト卿も死んだとか。このままではミルディア様も危険ですわ。早くお逃げにならないと」
「逃げる……?」
ミルディアは侍女の言葉を反復した。逃げる。この城から。全てを投げだして、逃げてしまう――。
先程からいた騎士も侍女の言葉に賛同して、どこからどう逃げるなどと話し始めた。敵に背を向けて逃げ出そうという話を、彼らはどうして平気な顔をしてできるのだろう。ミルディアは「そんなことできるわけがない」と呟いた。
ドレッシングチェストの引き出しから、かんざしを取りだす。灯りを反射して煌めく金のかんざしだ。薔薇のモチーフの装飾は職人の拘りを感じさせるが、かんざしの鋭さはいっそ薔薇の棘のようですらあった。
「ミルディア様……!?」
「わたくしは此処を動かない。逃げるならお前たちだけで行けばいい」
ナイフのようにして先端を向けると、侍女たちは「ひっ」と悲鳴を上げて逃げだした。その後ろ姿を、ミルディアは無感情に見ていた。あんな連中はどうでもいい。どうせ金で雇われているだけの連中で、大義があってミルディアに尽くしていたわけではないのだから。誇りも何もないから、敵に背を向けることに恥じることもないような連中だ。
「今更、今更ここを離れるなんて――そんなこと、できるものか」
そんなことができるくらいなら、最初からミルディアは野心など捨てていた。大抵のことはなんでも上手くいくと言われていたのだから、もっと他に関心を向けることだってできただろう――だが、身に染みついた母の存在を、消し去ることなど考えもできなかった。
部屋の外は、何か騒がしいようだった。妖精軍はもう瓦解したという。途中までは全て上手くいっていたはずなのに、此処にきて全て駄目になってしまった。マリウスはいなくなった。ラドルフも戻ってこない。もう、ミルディアの傍には誰もいない。
間もなくして、扉は開かれた。ぞろぞろと血に汚れた魔族の戦士たちが入ってきて、ミルディアを取り囲んだ。魔王クロヴィスや、ロズもいる――イースイルもだ。
「死にぞこないのイースイル・ロラン……」
「ようやく此処に戻ってきたよ、ミルディア」
「そんなに王位に執着が? 愚かね、死んだも同然だったあなたが、今更手にすることのできるものでもないでしょうに」
「それでも、お前にやらないようにするくらいはできる」
仲間が大勢いるからな、とイースイルが言った。ミルディアは眉を顰める。此処にいるのは、彼が連れてきた、彼が動かした連中がほとんどなのだ。金だけで動いていた自分の騎士たちとは、恐らくその質がまるで違っている。
ネビューリオの姿はなかった。彼らが此処まで押し入ってきたのだから、妹は既に解放されていてもおかしくない――が、あえて此処に来ていないのは、ミルディア側に何か戦力が残っていては危険と判断されたのかもしれない。代わりにいたのはパレイゼであり、イースイルの傍で控えていた。
ミルディアはふふ、と笑うように息を漏らした。かんざしを振りかざす。目の前にいるこの兄イースイルこそが宿敵。この場で彼を傷つけなければ、今後一生打ち勝つ機会はないだろう。
しかし――かんざしの先端が刺さったのは、彼を庇ったパレイゼの腕だった。細い手首を掴まれると、優男に見えてパレイゼの力は強く、振りほどくことはできなかった。ずっと地下牢に閉じ込めていたはずだったが、いつの間にか脱出して、誰か妖精の血でも飲んだのか――それなりに回復しているらしかった。
「道具は正しく使わなければ。これは血で染めるものとは違いますよ」
「パレイゼ・リード……お前たちは、お前は、本当に、最後までわたくしの邪魔をする……! わたくしの未来が、そんなにも気に入らないというの。奪われたものは取り返さなくては嘘よ。グレネから全てを奪った人間なんて、滅ぼしてしまえばいい――!」
パレイゼは、眉の一つも動かさなかった。いつもどおりだ。リード家の妖精は表情が凍り付いて動かないのだから。ミルディアの知っているとおりのパレイゼは、何でもないことのように答えを寄越した。
「私が望むことは、今のレテノアが強く豊かになることだ。メーフェ半島のことは同情はするが、そのために今そこで生きている者を殺していい理由にはならない」
「妖精たちは皆過去には人間どもに苦しめられてきたというのに、その恨みすら忘れて生きることの、どこが生きているというの。痛みには同じだけの痛みで返さなければならない――そうでなければ、救いが足りなすぎる!」
「……過去に妖精を苦しめた人間は遠い昔に既に全て死んでいる。それから何度も世代が変わって、最早過去を覚えている人間などいない。今更、何も知らない彼らを滅ぼしたところで何になる。人の血と硝煙でメーフェを取り返したとして、それはあなたが望んだような過去の栄光のメーフェとは別のものだ」
メーフェ半島の豊かな大地を得るために、ミルディアがやろうとしていたのは飛空船や銃を用いた近代兵器による蹂躙である。それをいざ実行したとして、後に残るのは焼けて荒れ果てた大地だけだろう――パレイゼはそう言いたいようだった。そんなことは、ミルディアとて、言われずともわかっていた。
それでも、ミルディアは、メーフェが欲しかった。
傷ついて荒れた大地となってしまっても良かったのだ。メーフェを取り戻すことこそが、先祖たちの――母の望みだったのだ。メーフェ半島というその場所が自分たちのものだと示せたなら、それだけで満足できただろう。グレネには金がある。最初から、今以上の豊かな大地を増やしたいわけでは、なかったのだから。
「人の上に立ちたいのなら、相応の覚悟が必要だ。民を思うのなら、人を豊かにすることを考えなければ嘘だ。その中で誰かの犠牲を当たり前のものにするのは、望ましくない――理想論ではあるが」
「パレイゼ……」
誰かが彼の名を呼んだ。パレイゼの透き通る翡翠の瞳は、偽りなくそう考えているのだとわかるほど、曇るものがなかった。ミルディアは、相容れないと思った。
ぐるり、と部屋を見回すと、周りには敵しかいなかった。陥れたはずのイースイルはしぶとく生き延びて、ミルディアに立ちはだかった。魔界の軍勢をも動かして、彼はこの城へ戻ってきた。目をかけていたロズ・バルテルミー・ベルクも、結局はイースイルから奪うことはできなかった。イースイルからは何もかも奪ったはずだったのに、結局、彼から全てを奪い尽くすことはできなかった。彼から全て奪い尽くしてこそ、きっとミルディアは王になれただろうに――周りに何を言われようとも。
結局は、全て泡沫の夢であった。
「ミルディア・グレネ・ラペイレット王女。国家転覆を企てた罪で、あなたを拘束する」
冷え込んだ秋の晴天の午後。ミルディア・グレネ・ラペイレットは、ゲリア城の私室にて逮捕された。多くの妖精や魔族の血を流すこととなった一連の事件はこうして幕を下ろし、後の世で『ゲリア事変』と語り継がれるようになる。




