第四十四話
左側が見えない。情けない悲鳴を上げるつもりはなかったが、ロズは堪えきれず痛みに呻いた。
頬を伝う濡れたものは、彼女自身の左目から流された血だ――止まる気配がない。ぱたり、と音を立てて零れる夥しい血は、床に染みを作った。激痛がロズの集中を途切れさせる。
ふらふらとよろめいて後ずさり、崩れ落ちるように倒れた。右目も涙で潤んで、残された視界すらぼやけている。それでもラドルフから目を逸らせないと彼を睨み、懐の銃を探る。体の真ん中を狙えば、多少外れたとしても体のどこかには当たるのだ――だが引き金を引くより先に、ラドルフに腕を刺された。力が入らず銃を放すと、それはそのままラドルフに蹴り飛ばされる。
「魔術品の技師であるあなたに得意の武器を持たせたままというわけにはいきませんからね」
ラドルフが言う。ロズは舌打ちをした。
ラドルフの気配と自分の感覚だけを頼りに、無理矢理に体を叱咤してラドルフの足をヒールで蹴り、彼の猛攻をかわす。片目の流血は自らの魔力で応急処置として塞いだ。這うように移動して、動く左腕で先程倒した騎士の銃剣を奪う。銃弾は装填されている。足を使って銃を押さえつけながら引き金を引く――狙いは上手く定まらず、ラドルフの頬を霞めていくだけだった。
(やっぱ銃剣なんてもんは扱いづらいか……!)
銃の先端に取り付けられた剣の重みで、銃口が大きく跳ねあがらないのは良いが、重みで狙いを定めにくいうえに大型のライフルということもあって素早く撃つ動作に移るのが難しい。利き腕でもなかったのが良くなかった。次を撃つ準備ができる前に、ラドルフは銃身を斬った。グレネの名剣はよく斬れる。
それからすぐさま、起き上がらせないとばかりにロズの腹の上を踏みつける。ロズは徐々に体重をかけられて、苦しさから息が漏れた。
「ああ、とても惨めですね、ロズ・バルテルミー・ベルク。やはりそよ風はそよ風にすぎないということですか」
よく鍛えられた真っ直ぐな刃がすぐ傍にあるのが、右目でも見えた。ロズはナメた口をきくなと言い返すつもりだったが、上手く言葉にならなかった。痛みに喘ぐような声が漏れるだけで、その様子をラドルフはおかしそうに笑った――ように見えた。
「ミルディア様の勝利に興味がないのかといいましたね。私はね――ミルディア様の名を歴史に残したいのですよ。あの方は美しく聡明であらせられる。だが後世に名を残すには、あの方には妖精としての才能が足りない。私やあなたと違って純血の……妖精の王族だというのに」
「お……お前……」
「あの方の偉大な望みは素晴らしいが、どうにもよくない者ばかり周りに集まってくる。マリウス・ウルズヴィヒトとかいうのもそうだ――ミルディア様に力を与えたが、あのような者が近づいてくるばかりではいけない。煩わしく信用のならない者たちが傍にいるのでは……あの方の望みを叶えて差し上げることはできないのだ。どうせ破綻することは目に見えた未来だ。それならばいっそ、美しく滅びていただくのが一番ではないか。私はその舞台を用意するだけです」
「最初から――ミルディア王女を死なせるつもりで……」
「王になっていただきたいとは思っていましたよ。そのために私ができることはして差し上げようとも。あの方は見返りをくれる方だ。それはつまり、人の働きを正当に評価してくれるということでもある。だからこそ私はあの方に賛同している。イースイル殿下のことをミルディア様にお伝えしたし、ネビューリオ殿下をマリウスに売ったのもあの方のためだ」
「……!」
「しかしながら少し計算を間違えたようです。ミルディア様の計画は上手くいくと思っていたのですが……予想したよりも魔王は強いようだ。人間どもは言うことをきかないし、人間の道具は妖精たちには慣れないから役にも立たない。条件が悪すぎた。ミルディア様の勝利は現実的な夢ではない――そう悟りました」
実現するのが難しい望みはただの夢想だ。実際にはミルディアの策略は充分に魔界に効いていたけれど、それに黙って都合よく動かされるばかりの魔界でもない。クロヴィスが動いている今、ロズたちが不利ということはまずないのだ。籠城に向かない作りの絢爛なこの城で、ミルディアは滅びの道を辿っている。ラドルフはそれをわかっていて、すっかり諦めたようなことを言いながら、冥途の土産にとでもいうつもりか、ロズに語りかけた。
「それでも、私くらいは、最期まであの方の味方でいて差し上げなければ」
言葉だけを聞けば、忠節を尽くしている騎士らしかった。だが、その言葉の異常さを、ロズはもう知っていた。
「ミルディア王女から、全部遠ざけたやつが、言う台詞かよ……」
「あの方に人の心があって何になるというのですか。ミルディア様を損なうだけのものだ」
「それで、自分は、離れないだって……?」
「あの方は若いが、私の存在ごときで揺らぐような方ではありません」
きっぱりと、彼は言い切った。それが真実であると断言したが、決めつけるような言い方でもあった。気に入らない訳知り顔にロズは眉を顰めたが、ラドルフは特に気にした様子もなかった。
「何にせよ、ミルディア様を霞ませるものは全て始末する。それで未来永劫語り継がれるような存在になるのなら、王位を得るのと変わらない救いにもなりましょう」
彼の言っている意味が、ロズにはよく理解できなかった。左目の激痛のせいもあるが、ラドルフの考えがロズには到底共感できる内容ではなかったからだ。
わかったことは、ラドルフはどうやらミルディアの美しさに心底惚れ込んでいるらしいこと――そしてミルディアの派閥に勝ち目があろうとなかろうと、ラドルフはミルディアに影響のありそうなものは全て殺すつもりでいるということだけだった。彼女の周りにあるものを全て殺してしまえば、影響力のある者ばかりだから、間違いなく歴史には残るだろうが――惚れているにしてはその献身の仕方が随分と歪んでいる。一言で言うのなら、気味が悪い――それに尽きる。
「あなたがミルディア様にとって都合のいいだけの駒だったのならよかったのですがね。あなたにはミルディア様の心を揺るがす要素がありすぎる……王族の下につくもの同士、気が合うかと思ったのですが」
「……まさか。ありえねえなア……俺はお前ほど悪趣味じゃねえぜ、イカレ野郎」
少なくとも、惚れた相手が破滅していくのを好んで見たがるような趣味はない。ロズの返事をどう感じたのか、ラドルフは溜息をついた。
「そうですか。残念なことです」
刃がロズに向かって振り下ろされる。ロズは目を閉じなかった。剣の勝負には敗北したが、心までは折れていない――最期まで折れるつもりもない。
だが、新たな苦痛を覚悟したロズが見たのは、胸を貫く剣だった――ロズではなく、ラドルフの胸を、背後から剣が貫いていた。
「な、あ……!?」
ごぷ、とラドルフの口から血が零れる。彼の後ろには、荒々しい目つきでラドルフを睨むイースイルがいた――その手にしっかりと護身用の剣を握って、ラドルフを刺していた。
目を見開いて、ラドルフは後ろの存在を振り返ろうとした。血を零しながら震える唇で、恨み事のように言う。
「卑怯な……! まさか、殿下が、このような……」
信じられない、という顔をしていた。かつて尊敬していた、何でも持っているような王子が、背後から襲ってくるなどと――全く欠片も想像していなかったのだろう。驚愕の色に混ざって、期待を裏切られたかのような失望や憎悪が混じった複雑な表情だった。
「誇りも、何もかも……捨てたと、いうのか……! 醜い、なんと醜いことをする――これが妖精の王子のすることか……!」
「好きなだけ罵るがいいさ」
イースイルがさらに抉るように剣を動かすと、ラドルフは完全に力を失ってその場に崩れ落ちた。彼の体からずるりと剣を引き抜いて血を払い落しながら、イースイルは険しい顔つきのままで言った。
「敵討ちより闇討ちのほうがましだからな……」
それから、イースイルは慌てるようにロズの傍に膝をついた。その様子を、ロズはぼんやりと見ていた。悲しげに眉を寄せたイースイルに手を握られて、その熱を感じて、これが現実なのだと実感する。
ロズも痛みで生理的な涙が出てしまって、目が潤んではっきりと見えたわけではなかったが、イースイルは泣いているようだった。静かな泣き方だったせいで、すぐには泣いているのだということがわからないくらいだった。だが、彼の零す涙がロズの左目に落ちて、痛みが徐々に引いていくのを感じてわかったのだ――妖精の涙には、血と同じように他人を癒す魔力がある。優れた純血の妖精の涙であれば、薬として精製されていなくとも充分に効果があった。
「イース……あんた、やることやってきたのか……? どうやって、ここへ……」
「……城には王族しか知らない隠し通路がいくつかありますから。パレイゼのことは助け出しました。リオのことは……私でなくともいい。パレイゼも魔界の皆さんも信じられる」
「そうか……くそ、こんな無様な姿見せたくなかったんだけどな」
「敵に立ち向かった勇士が無様なはずがありませんよ」
イースイルがロズの手を自らの頬に寄せる。イースイルの涙が、傷ついた手も癒していく。優しい生命の熱だった。イースイルの手つきはロズを労わるように繊細で、ただ、温かい。彼の手は少し骨ばっていて、優しい熱を持っているが、間違いなく男の手だった――そのことをロズはようやく本当の意味でわかったような気分がした。
「身内の醜い争いのために、あなたをこんなふうに傷つけてしまうなんて」
「おい、なんだよ……一方的に巻き込んだみたいな言い方をするな。俺は自分から巻き込まれにいってるってのに……」
「あなたには言いたいことが沢山ある」
まるで詰るような目つきである、ということにロズが気が付いたのは、彼の涙で自分の傷が癒され、苦痛がそれほど気にならなくなった頃だった。相変わらず左の視界は戻らないが、右は涙も落ち着いてよく見えるようになっていた。イースイルは泣き腫らした赤い目で、その瞳にロズを映していた。
「何でも作れる手があるからといって、強いからといって、突き進んで――誰かのためだから、必要なことだからと立ち向かって……予言で命を保証されているからって、平気な顔をして無理をする」
これはもしかすると説教をされているのだろうか――ロズの思考は未だクリアではなかった。痛みは落ち着きはしたが、他人の言葉をかみ砕くのに時間がかかった。否定できないことを言われているのだけはわかって、ロズは黙って聞いていた。
「私は沢山助けてもらった。縋っただけ手を貸してもらった。あなたの親切に甘えて、挙句こんなに傷つくようなことをさせてしまった。……本当に、あなたって人は――」
イースイルの声は震えていた。ロズは回らない頭を使って考えた。たぶん、今、叱られているような気がする。それで、こいつを泣かせている。色々言われているのはわかるが、どうにも全部は耳に入らない。悪いが説教されても改善はできなさそうだ。そもそも俺はそんなに殊勝じゃないんだよ。
「私は一体どうしたら、あなたに貰ったのと同じだけのものを返せるんだろう」
――ああ、でも、あんた泣いてても男前な面してる。
「……責任、とれ」
動く左手をイースイルの頬に寄せて、彼の顔を見上げる。今更な話だったが、目の前にいるのは、本当に異性だった。可愛いところはあるけれど、可愛い女の顔はしていない。妖精の王子として生まれた、溜息の出るような端正な顔立ちの男だ。
本当に、まざまざと見せつけられているようだった。ロズは男に生まれなかったのだということを――だが、ラドルフを相手にしているときとは違った。その事実を、ロズは今、素直に受け入れられるような感覚がしている。
体を起こしてイースイルに体重を預ける。彼の涙のおかげで、もう魔力を使わずとも血は止まっていた。ロズを抱きとめる腕は思いのほか逞しく、ロズは苦笑した。いくら男の心を持っていたところで、自分は悲しいほどに男ではなかった。
「ロズさん……?」
「あんた、俺を女にした責任をとってくれよ」
さっきのあんた、格好良かったぜ。そう耳元に囁くと、イースイルはロズを抱く腕を少しだけ強くして、「あなたを放す気はもう一欠けらすらありませんよ」と言った。
(女の子チャンだと思ってたはずなんだがな)
イースイルに女性性がないわけではないが、今ではすっかり、ロズのほうが女だった。その自覚があった。自分のために泣いてくれたイースイルに、何の疑いもなく、惚れている。
ばたばたと近づいてくる足音が聞こえていた。ロズがその音のほうへ目を向けると、敵の騎士らしき男だった。銃剣を向けてくる――だが、それがロズたちを刺すことも、また発砲されることもなかった。男は何もしないまま、否、何かをする暇もなくその場で倒れた――その背には矢が刺さっている。
「無粋な真似をするものではなくてよ」
矢の主は、太陽のような金の髪の女――魔王の妻、シャルロッテであった。その後ろには、見慣れた魔界の仲間たちが一緒にいた。どうやら、城のおおよそは制圧できたらしい。
「クロヴィスから使い魔で連絡がきています。もうじき彼らも此処へくるわ――パレイゼと一緒に、ネビューリオ殿下をお連れして。尤も、ネビューリオ殿下には全て終わるまで外で待っていただくことになるけれど」
「そっか……あっちは上手くやったか。よかったなイース、可愛いほうの妹君は無事だそうだぜ」
「ええ――本当に」
「会いたいか?」
「――全て、終わった後で」
妹の無事をずっと願っていた。本当なら、ゆっくりと語り合いたいことが山とある。だが今から此処を離れるつもりは彼には毛頭なかった。まだ、最後にやることを残している――ミルディアを捕らえなければ、戦いは終わらないのだ。