第四十二話
ネビューリオは悲鳴を上げなかった。此処でたとえ死ぬとしても、豊穣の女神ゴーメーが豊かな天の国へ招いてくれる――自分は間違ったことはしていない。そう信じ、彼女は襲い来る痛みに備えて目を閉じた。その瞬間、ばたんと荒々しくドアが開く音がした。
「その薄汚い手でリオ様に触れるなあああああああっ!」
鉛玉のような勢いで飛び込んできた燃え盛る炎がマリウスを殴り飛ばす――がしゃんと大きな音を立てて、マリウスの体が壁際のチェストにぶつかった。ゴーメーの像が彼の手から滑り落ちて、床にぶつかって派手な音と共に割れる。ネビューリオはすっかり驚いて、悲鳴どころか何の言葉も出てこなかった。
実際にはマリウスを殴ったのは炎ではなく、燃えるような赤い髪のパレイゼ・リード・フェルマその人だった。ずっとその身を案じていた相手に肩を抱かれて、その優しく温かい手がマリウスとはまるで違って、ネビューリオはようやく目の前にいるのが本当にパレイゼなのだと実感した。
「リオ様! お怪我をなさっているのですか」
「パレイゼ――あなたこそ、無事でいてくれたのね……」
わたくしは大したことはないと言って、ネビューリオは彼の熱を確かめるようにその背に腕を回した。
「おお……素晴らしい右ストレート。フェルマ公爵殿の気迫、なかなかよいではありませんか」
パレイゼに続いて、ふわふわとした茶色い毛並みの、二足歩行をする猫オーウェンが感心したような様子で入ってくる。「確かに――その逞しさ、魔族としても敬意を抱くよ」その後に黒い翼を持った男性――魔王クロヴィスが続く。ドアの外には見張りの男が倒れていた。体勢を立て直して状況を把握したマリウスが吠えた――害獣そのもののように。
人の形をしていた腕に鱗が現れる。背中のほうからバリバリと音を立てて翼が生えようとする。目はぎょろりと動いて獣の鋭さで輝いた。この場で害獣化するつもりなのだ――だがそれはオーウェンたちが許さなかった。
「おおっと、暴れてくれちゃあ困りますぞ。大人しくしてもらおう」
オーウェンが剣を振るい、マリウスの鋭い爪を持った手を斬り落とす。人間らしくない黒い色をした血を流して、マリウスが絶叫した。叫び声が部屋のあらゆるものを震わせ、窓やランプに使われているガラスを割った。
「――黙れよ」
クロヴィスが指を鳴らす。その瞬間、荒れ狂う風がマリウスの喉を引き裂いた。パレイゼは腕の中のネビューリオに見えないよう、彼女の目を手で覆い隠した。
「まだ死なないか。人間の魔力炉でもこの状況で生命維持ができるほどには魔力が作れるのか……害獣化した結果か。興味深いな、古い時代の記録にもあまりない現象だ」
「そうは言いましてもクロヴィス様、この様子ではそう長くないうちに血で窒息しますぞ」
「なら死ぬ前に記憶を吸い上げておこう。ミュウスタットとの交渉の材料になる――どうせこいつのことは死体で持っていっても文句は言われないさ。言質は取ってあるしね」
クロヴィスがマリウスの頭に手をかざし、その記憶を暴いていく。ネビューリオは「大丈夫よ」とパレイゼに囁いて、彼の手をそっとどけてマリウスの姿を見た。
ぼろ雑巾のような姿のマリウスは、最早虫の息だった。それでも息がある今なら、ネビューリオが血を与えるなり涙を流すなりすれば、彼は助けることができる。ネビューリオという至上の妖精の力があれば癒せない傷はない。しかし彼女には、この男を助ける気はなかった。
マリウスの目は、死を目前にしてもなお、ぎらついた獣の色をしていた。生を求めて、ネビューリオの血を望むのか、その目は真っ直ぐに彼女を見ていた。まっとうな人になる――それを望んだ者の目とは思えなかった。
憐れましい姿だったが、情けをかけてやらなければならない理由はない。彼は既に多くの人や動物の命をその望みの犠牲にして生きてきた。そしてこの先生き延びれば、さらに多くの、それこそ恐ろしい数の犠牲が増えるのだろう。彼の研究記録を読み、彼と対話したネビューリオには、それがわかっていた。彼がまっとうな人になることはない。まっとうに歩むには彼はその手を血に染めすぎている。
「リオ様」
「……わたくしはきっと、この人から目を逸らしてはいけないと思うの。妖精として、妖精の王女として」
妖精の力で救うことを諦めた、妖精を傷つけようとした罪人を、ネビューリオは知っておかなければならない。姉との対立が避けられないものである、もう戻れないところまできているのだと――その真実を受け入れるためにも、ネビューリオは目を逸らすことはできなかった。
「女神に……祈りなさい。善良なところが少しでもあるのなら、きっと救いをくださるから――ゴーメーは懐の広い神様だもの」
返事はなかった。マリウスは大量の赤と黒が入り混じった血を流し、やがて、ネビューリオを睨んだまま絶命した。人間の遺体とは思えないような、歪んだ死だった。
マリウスが死ぬと同時に奪えるだけの記憶を奪ったクロヴィスは「うわ」と小さく声を上げた。
「どうかしましたか、クロヴィス様」
「いや……なんか変な記憶見た。ぼんやりとしすぎていて具体的な情報じゃないんだが、まるで一度死んだことがあるみたいな……いや、これは夢か? 人は一度しか死ねない――でもこれは、こんなふうに溺れたら生きては……」
「そのようなことを言われましても、クロヴィス様がわからないことは吾輩にもわかりませんぞ」
オーウェンはクロヴィスが他人の記憶を無理矢理奪ったことで、情報の整理に無理が生じて混乱しているのだろうと当たりをつけた。血の臭いがひどく、ネビューリオ王女のためにも彼は「一度外へ出ましょうか」と提案した。王女の足枷となっていた鎖を叩き斬れば、最早此処に留まる意味もない。
◆◆◆
黒いローブの人間たちが司令塔であったマリウスを失って烏合の衆となったところで、容易く柊館を占拠したクロヴィスは、持ち前の魔術で邪魔者をまとめて風によって束縛し、ホールに押しこんだ。それから、パレイゼが自らの屋敷に連絡をつけて、迎えの馬車とネビューリオの着替えを用意させた。これから再び王城へ戻るのだ――まだ全ては終わっていない。
新しいドレスに身を包んだネビューリオは、馬車の中で「ひとまずお礼を言わせてください」と言った。
「助けに来てくださってありがとう。わたくしのメッセージを、あの人形はきちんと届けてくれたのね」
もう壊れてしまったのかしら、と彼女が問う。それに関しては、クロヴィスのもとへ伝言する際に、彼の馬車のところへ来たので、そのまま中にあると彼は言った。
「城の混乱を治めたのちお返しいたしましょう。あちらのことはロズたちに任せておりますが、我々の加勢も必要かもしれませんから」
「吾輩たちがフェルマ公爵殿をお救いできたことは幸いでしたが、未だ城の地下牢に囚われる貴族も多い。彼らのことも地上へ連れ出し、この混乱を生み出す原因となったミルディア王女に投降していただかなくてはなりませぬ」
「――パレイゼも囚われたままだったの?」
ネビューリオの問いかけに、パレイゼは是と頷いた。イースイルのことを伝えてよいものか、彼が王の座を望んでいないと知った今、パレイゼは彼の存在については濁して話すことに決めた。
「ずっと地下牢で過ごしておりましたが、彼ら魔族の軍勢と、彼らに協力する妖精の有志によって、こうして逃げ出すことができました。此処まではクロヴィス殿に抱えてもらい、飛んできたというわけです。とはいえ、あなたの危機に馳せ参じるのが遅れてしまったことは事実。不甲斐ないところをお見せしてしまいました」
「いいのよ、わたくしのことは。こうして無事に生きているし――あなたもきちんと生きていてくれたから。でも……そう、ずっと捕まっていたというのなら、ラドルフ・ファイトは約束を守ってくれなかったのね……」
彼があなたの安全を約束してくれたから、とネビューリオは言った。どこか疲れた様子なのは、これまでの出来事もあるだろうが、約束が守られなかったことに対しての悲しみもあるのだろう。
「ラドルフ・ファイトは信用のおけない男です。イースイル殿下を尊敬すると言った口で、今はそのことはすっかり忘れてしまったかのような振る舞いをする」
「そう……ね。わたくしは目を逸らしていただけ、本当はわかっていたの。彼はもうお姉様の騎士だから。お姉様はマリウスと繋がりを持ち、豊かな土地を得るための戦争を望んでいらっしゃる。わたくしやパレイゼのことが邪魔なのだわ」
「……ネビューリオ王女殿下にはお辛いことかとは思いますが、我々魔界はミルディア王女の下にはついていられないと考えております。あなたの一言が必要だ。我々を肯定していただきたい――これまでどおり、妖精と魔族の関係を続けるために」
クロヴィスが言った。ネビューリオの救援要請を建前に行動しているとはいえ、ミルディアという王族にたてついているのも事実である。正式な命令が下ればそれが免罪符となり、ミルディアへの抵抗も誰からも正義として認められるようになる――クロヴィスはマリウスを押さえた時点で大局は決したものと判断している。敵の最大の戦力であろう存在だったのだから。あとはネビューリオの言葉一つでいいのだ。
彼女は思うところがあるのか、補佐を務めてきたパレイゼを呼んだ。
「はい」
「お姉様が望む戦争がどんなものか……わたくしにははっきりとはわかりません。それでもわたくしはそれを認められないと思っている。わたくしが本当に正しいのか、お姉様が正しいのか、答えは出ない。でも、お姉様はやりたいことをやろうとして、レテノアの民を傷つけるようなことをしたのよね」
「そうですね。あの害獣男と手を組み、ミルディア王女はレテノアを自分のもののように扱おうとした。都合の悪い相手は悉く地下牢へ送り、あるいは殺しておられる。あなたのことも……政治の場から遠ざけようとした。あのお方にも信念はあるのでしょうが、そのために多大な犠牲を強いることも、レテノアの繁栄のためといって他人を滅ぼそうとすることもいただけない。ただ人の恨みを買い、豊かな大地を傷つけるだけの行為だ――レテノアに必要なのはそのようなものではない。この国が育むべきは恨み事ではなく、人だ」
これまで私財を投げ打ってでも学校を建て教育に力を入れ、海外から新たな知識を取り込もうとしてきた若き賢者の言葉だ。それには相応の重みがある。パレイゼはずっと祖国レテノアを愛してきた。
「人は育てるものだ。無暗に殺したり、芽を摘み取るものではない。妖精や魔族は長く生きる分、知識の宝庫でもある。これから先の未来のために、知識を持つ善良なものを無碍にしてはなりません。そうでしょう?」
「ええ――妖精として、人を傷つけることを喜びたくはない。何よりわたくしは王女として、レテノアを害するものを許すわけにはいかない」
決別しなくては、とネビューリオは自分に言い聞かせるように呟いた。声色が少しだけ震えてしまうのは、最早たった一人の身内となってしまったはずの相手を敵に回さなければならないことを思えば、複雑な感情を抱くのも致し方ない部分といえよう。それでもネビューリオの瞳は、悲しみの色だけではなかった。
パレイゼ、クロヴィス、オーウェンの顔をそれぞれ見て、彼女は意を決して告げた。
「レテノア王代理、ネビューリオ・ロラン・ラペイレットの名のもとに命じます。ゲリア城を、ミルディアの手から取り戻すため……ゲリアに混乱をもたらしたミルディアを捕らえるため。わたくしに、力を貸してください」
クロヴィスやオーウェンはその言葉を待っていたのだと傅いた。パレイゼは決心をしたネビューリオを労わるように、その背を撫でた。
「……わたくし、やっぱり未熟だから、たったこれだけ言うのに凄く疲れているわ」
「それは未熟とはいわず、優しいというのです。リオ様はお優しい。よく言ってくれました」
「全部お膳立てされてようやくです。わたくしには何かを決める勇気もないし、あなたのように先を見通す目もない。誰かそれがわかる人を支えるほうが性に合っているの」
ネビューリオはその頭を少しだけ傾けて、パレイゼに寄りかかるようにしてその耳元に囁いた。
「本当はね――わたくしは、ずっと王になるのなら、わたくしではないと思っているのよ」