第三十九話
謁見の間から護衛に騎士たちを数名連れて、ミルディアはマリウスを滞在させている柊館へ向かおうと、城の出口へ向かっていた。だが、ふらりと現れた男がそれを阻む――ミルディアが普段最も傍に置いている騎士、ラドルフである。
「どこへ行くのですか、ミルディア様」
「ラドルフ……当然マリウスに会うのよ。またあの男は許可もなく害獣を暴れさせているというのだから――ところで、お前、囚人の血を抜く準備は終わったのかしら?」
「マリウスへ優秀な妖精の血をやるのでしょう――それならもっと良いものがあるではありませんか」
「良いもの……? お前、一体何を言って……」
「やつへはよりよい血を渡しましたよ」
「お前……お前まさか、ネビューリオを!?」
細い腕でミルディアがラドルフに掴みかかると、彼はふふ、と息を漏らして笑った。「何をそんなにもお怒りなのですか」とあまりにも普段と変わらぬ態度で言われて、ミルディアは戸惑った。
「あなたの覇道のためには、邪魔なものではありませんか。これから殺すからとパレイゼ・リードから血を抜いたところで、定期的に供給されるものでもない。どうせ後でもっと血をと求められるに決まっています。それならば、ネビューリオ王女を差し出して、少しずつ、殺さない程度に血を奪いながら弱らせていくほうが良いでしょう。やがて弱って亡くなられても、気狂いの王女が病にかかって衰弱死したと言えばいいだけのことだ」
あなたとて、いずれは妹君を殺すつもりだったのでしょうが――とラドルフは言った。それが当たり前のことだと信じて疑わないような顔で言うのを、ミルディアは信じられないものを見る目で見ていた。彼は一番都合のいい男だと思っていたが、果たしてそのようなことを平気な顔をしてできるような男だっただろうか。ミルディアの命令もないままに、王族の娘を他国の人間に売り渡すような真似をするなどと――ミルディアの思いどおりにならない要素を孕んでいるだなどと、そんなことは、信じられない。
「……お前は昔イースイルに心酔していたようだったから、正直に言って意外だわ。あいつの妹を蹴落とすこともできるようになったのね」
「ええ、イースイル殿下の妹であり、あなたの妹でもある。あなたが王となるうえで最大の障害だ。障害は取り除かなければ――そうでしょう? あのお優しいだけの王女様がいれば、魔界の連中は必ずそれを理由に挙げてミルディア様に反抗するのです。それならばそんなものさっさとなくしてしまえばいい」
あくまでも冷静に、とミルディアはいつもと変わらないような声色を作ってそう言った。だが、ラドルフの返事はどこか噛み合わない。
彼の言うことが間違っているというわけではない。実際に、魔界の連中はネビューリオにつくと言って兵士たちを連れて反乱を起こしている。それが今外で暴れている害獣に対抗するために必死になっているからまだ城の中までは来ていないだけだ。ネビューリオの存在がミルディアの敵を呼び寄せる。無論、あの恐ろしい黒翼の害獣が暴れまわっていればその突破は容易くはないだろうが、その点に関してはマリウスに勝手に行動されてしまっている部分でもある。まだ血を渡していないこともあって反骨心を見せているのかとマリウスへ詰め寄るつもりだったが、マリウスは既にネビューリオの血を受け取っている。それならば、今あの害獣が暴れているのは――。
ミルディアの考えを読んだように、ラドルフは「マリウスも信用ならぬ男です」と囁いた。
「今は魔界の連中と勝手にやりあっているようだが、研究結果を試すつもりなのかもしれませんね。だからといってミルディア様に許可も取らずでは……これからもそのような態度が続くに違いありません。技術提供はありがたいことですが、適当なところで見切りをつけなければあれも邪魔なだけのものに成り下がる」
本当に信じられるものだけを傍の置くのです、とラドルフはひどく優しい声色で言った。家族や恋人に話しかけるように優しく、それでいて鋭かった。要はほとんどすべてのものを捨ててしまえと言っているのと変わらないのだ――そしてそれを本当にミルディアのためだと思って言っている。
そこへ、ばたばたと足音がして、ミルディアは後ろを振り返った。見慣れた王城仕えの使用人の姿だった――彼は「謁見の間で、騎士たちが倒れております……!」と報告してきた。
「騎士たちが――他のものは誰もいなかったの?」
「はい、姿は見ておりません……掃除の時間だからと扉をあけたら、血を流す騎士たちが倒れるだけで……」
使用人は随分と狼狽えた様子であった。ミルディアは「救護班を呼びなさい」と言いながら思考に沈む。騎士たちが倒れていた。最新のミュウスタットの武器を持たせた彼らが血を流して倒れていたという。強力なライフルを持たせた騎士たちが。接近戦にも対応できるよう銃剣を装備させていたが、そこに他のものの姿がなかったということは――ロズとクロヴィスはそこから去っている。騎士たちを屈服させて去った。銃が効かなかった! 烈風魔王をも殺した武器が!
「部屋に……戻るわ」とミルディアは言った。
「ミルディア様、マリウス殿のもとへ行くのでは……」
「うるさいわね、今害獣を操っているのなら柊館から出ているかもしれないでしょう。魔族の連中もいることだし、その辺りを問い詰めるのは後からでもいいわ……ラドルフ」
「はい」
「お前に妖精軍の指揮は全て任せるわ。害獣のことは、この際上手く利用しなさい。やつが暴れていれば魔界の軍隊もまともに対応はできないはず……その間に、魔王クロヴィス並びにベルク公爵を討つのよ。烈風魔王の血縁である彼らが束ねる軍隊ならば、二人に何かあれば勝手に瓦解するわ」
「かしこまりました。ミルディア様は部屋から出ないほうがよろしいでしょう。護衛たちと共にいてください。あとはこの私が全て上手く収めましょう」
ラドルフがゆっくりと微笑んだ。彼が騎士の一人に伝令役を命じて、どこへどの部隊をだとか、命令を吹き込んでいるのが聞こえた――ミルディアは険しい顔をしたまま、彼のもとを離れて自室へ向かった。
護衛としてついてきた騎士たちを部屋の外に置いて、自分は鍵をかけて中へと籠った。苛立ちを抑えきれず、部屋のアンティークテーブルに拳を叩きつける。
「どうして……!」
絞りだすような声で呟いて、ミルディアはくずおれるようにテーブルに寄りかかった。
妹は殺せなかったのだから、殺さずにまだ生かしておくつもりだった。狂気の王女として閉じ込め、ミルディアの支配が盤石となってから始末すればよいものと考えていたが、ラドルフは既にミルディアの命令を無視してネビューリオのことをマリウスに引き渡してしまったという。
それ自体はさして問題ではない。どうせ始末しなければならないのだから、それを機に自然に死んだように見せかけて殺すことも容易くなる。全てラドルフが言ったとおりだ。邪魔なのだから排除しなければ。だが、それは既にミルディアの計画から外れてしまっている。マリウスもあくまでもミルディアと取引する対等な関係であるはずだというのに、ミルディアのことを無視して行動している。魔界の連中は反逆の狼煙を上げ、輸入した最新鋭の武器で魔王を攻撃したがそれは通用せず、彼らは暴れる害獣との潰し合いをしている――今このゲリア城は渾沌に満ちている。
「全て、全て上手くいくわ……上手くいく、はずなのよ……予言なんてものは、信じる価値もないわ……どうせ魔界を解体したら潰してしまう文化なんて……そんなもの……」
彼女の脳裏には、成人の折自らに告げられた予言があった。世間には、大抵のことは上手くいくと言われたのだと公表している。だが本当は、その予言には隠された続きがある。
――大抵のことは思いどおりになる。されど真に欲するものは、手に入ることはない。
つい最近までは全てがミルディアの思惑のうちであったというのに、急にその運命の糸が、彼女の手から離れていっているような感覚があった。予言はいよいよ真実味を帯びた未来になりつつあるのではないかと、ミルディアは未来を思って目を伏せた。
◆◆◆
「リオ様とミルディア王女の部屋は離れている。元々ロラン妃とグレネ妃の居室が離れていたことと関係していて、位置関係がそのままになっているからだ。だからそこですぐにミルディア王女と鉢合わせることはないはずだ」
「ふむ、ならば吾輩の仕事も楽ですな。斬るのは容易いが生け捕りは骨が折れます。相手は仮にも王女殿下、きちんと裁判にかけねば嘘でしょう」
「……そう、ですね」
そんな会話をしながら、隠された秘密の通路を通って上の階へ上がり、ネビューリオの部屋の前へ出たイースイルたちは違和感を覚えた。人の気配がない。
「見張りがいるんじゃなかったのか……?」
だが全くそんな様子はない。オーウェンの嗅覚にもひっかかるものはなく、ひとまずドアに近づく。声をかけても返事はなく、何もないことを確認してドアを開けようとするが、鍵がかかっていた。
「鍵ならここにあります」
パレイゼが服の中にペンダントのようにして紐に通して隠していたものを取りだし、鍵を開ける。
「合鍵か……」
「殿下、私はこれでもリオ様の婚約者ですよ。それにあなたがいなくなってから、彼女に帝王学を教え込んだのは私です」
「いや、わかってはいるんだが……」
「複雑な兄心ですね」
「オースリー伯爵は黙っててください」
そんなことより、とドアを開ける。しかしながら、そこには上質な調度品があるだけで、ネビューリオ自身の姿はどこにも見えなかった。
「此処にいないということは、拘束を逃れて抜け出したのかな……」
「荒らされたような形跡も見えませんな。ということは、やはりご自分の意思で出ていかれたのか、寝ている間に誰かに連れ去られでもしたか……」
何か手がかりは残っていないものかと部屋を検分しようとしたとき、今度はそう遠くない場所でドオンという大きな音が響いた。先程地下で聞いたのと同じような音だ――ただ段違いにはっきりと感じ取れる。足元はひどくぐらついて揺れ、まともに立っていられないほどだった。オーウェンが顔をしかめる。
「害獣が暴れている……! 恐らくはすぐ外です」
「害獣――まさか、前に王都に現れた……そして魔界を襲ったあの――?」
「此処にいては危険だ。照明のランプや鏡が倒れてくる――外へ!」
美しい装飾の施されたランプが倒れ、本棚の本がばらばらと落下してくるのを避けて外へ出る。その間も何かが暴れているらしい大きな音が続いていて、廊下を駆け抜けて近くの窓から外を覗く。
――そこに見えたのは、一対の黒き翼。
恐ろしいほどに巨大すぎる翼を持った何かが、強い風を巻き起こし、また自らの翼を地面や建物に打ち付けて暴れまわっていた。あまりの異質さに吐き気がするほど奇妙で、それに対抗しようと武器を向けたり、魔術の炎を生み出す魔族の兵士たちが薙ぎ払われていく様は悲哀に満ちていた。その中にはクロヴィスが作った使い魔もいたが、所詮作り物である彼らは、仲間たちを庇ってすぐに消滅していった。
目を凝らして見ると、その中には一際目立つ太陽のような黄金の髪の戦士も見えた。彼らを率いて城の前で騒ぎを起こすことを担当していたシャルロッテだ――彼女が弓を引き、害獣に矢を放っている。
「シャルロッテ!」
パレイゼの声は遠すぎて届くはずもない。シャルロッテは害獣が地面に近づくタイミングを見計らって、何度か矢を射ることに挑戦した。それは害獣の翼に刺さり、そこから血を流させはしたが、凶悪な暴走には変化がなく大きなダメージにはなっていないようだった。ありふれた害獣であればそれは充分に致命傷にもなるようなものだったが、黒き翼のそれは痛みの感覚が鈍いのか、あまり苦痛と感じていない様子であった。
パレイゼは一つ舌打ちをして駆けだした。
「おい、パレイゼ!」
「やつが害獣なら、強い魔力に反応するはずです――私も仮にもリードの血を引く男だ。外へ出れば、魔族の兵士だけに注目することもあるまい――!」
「それならお前ひとりにはしない、私も行くぞ! 私も魔界には世話になっている、注意を惹きつけるくらいはできるはずさ……!」
「お二人とも、無茶苦茶な! なんでこう、妖精ってのは人のため――ってのがお好きですかねえ……」
呆れたようなオーウェンの声も気に留めず、パレイゼとイースイルは廊下を駆けて、一番近くの階段から下へ飛び降りるように降りていった。それをオーウェンは猫らしく軽やかな身のこなしで追いかける。
それから一番近くのドアを破って外へ出ると、必死に抵抗する魔族の戦士たちがよく見えた。彼らから注意を逸らすため駆けだそうとしたそのとき、城の窓の一つが派手な音を立てて割れた。
「なんだ!?」
「あれは――クロヴィス様!」
オーウェンが言った。窓から、害獣よりもずっと小さいが、しかし美しい漆黒の翼が飛び立つ――それは間違いなく、旋風のような新たなレテノアの魔王である。
「やあ――貴様の相手は僕だよ、不細工ちゃん」
言葉こそいつもとそう変わらないようでありながら、彼の表情は目の前の敵に、父を死に追いやった一因であり妻や兵士たちを蹂躙しようとする悪魔に対する怒りと憎悪に満ちていた。