第三十八話
ロズとクロヴィスがミルディアと会っている頃、馬車に残っていたイースイルとオーウェンは、ランタンの中のキャンドルがまだ火を点していることを確認して、予備のキャンドルを取りだした。
「シャルロッテ様が魔界の兵士たちを率いて表を騒がせてくれます。その間に、我々はキャンドルの幻に隠れて城へ侵入しましょう……尤も、真正面から行くには不安な要素も多いですが」
「それならまずは庭園のほうへ行こう。あそこには代々王家の中でも一握りの妖精だけが伝えられてきた秘密の隠し通路があります」
シャルロッテ率いる兵士たちを鎮圧すべく動きだした城の警備を尻目に、イースイルの導きで庭園へ入る。見張りの兵士は幻に惑わされて、イースイルたちの存在に気づかなかった――彼の中では誰も通らなかったことになる。中へ入ったことを知られずに済む。
イースイルの足は真っ直ぐ南東のほうへ向かっていて、そこには菫の彫刻が施された噴水があった。それ自体は庭園の中央にある一番豪奢な噴水と比べれば目立つものというわけでもない。
庭園の他の噴水と全く変わらないようでいて、イースイルが彫刻に触れて小さな窪みに指を入れると、ずりずりと石が擦れるような音が響いた。しばらくすると地面に亀裂が入り、ぎいと音を立てて扉が開くように穴が広がった。その下には階段があり、薄暗い内部へと続いている。
「キャンドルをここに置いていきましょう。この入り口のことを知られたくない……」
「それではこの辺りにひっかけておきますかな。いやしかし、暗い道だ。見えなくはないですが」
「私は此処の構造を理解している。ついてきてほしい」
城の中へ入ってしまえばこっちのものだ。イースイルの先導で、オーウェンが後ろから薄暗い地下道へと入っていく。猫の目ならば僅かに光でもあれば見えるが、やがて入り口から差し込む光も感じられなくなってしまうと、いよいよ全く何も見えない。
しかしながら構造を理解していると言ったイースイルは迷う気配もなく、確かな足取りで歩を進める。足音と気配を頼りにオーウェンはただついていった。万が一何か現れたときのために、いつでも剣を抜けるようにと構えながら。
「それにしても、このような道があるとは」
「王家の者に伝わる、万が一のときの非常用通路ですよ。城の中のいくつかの場所に通じています。尤も王位を継ぐ者だけが知ることですが」
「では、この道はミルディア王女は知らないので?」
「恐らくは。元々は私が王位を継ぐはずでしたから。ネビューリオには伝わっているかもしれませんが、きっとミルディアは知らない。知っていたならこんな隠し通路なんて壊してしまうはずだ。特に私が生きているとわかっているのならなおのこと」
暫く歩みを進めたところで、イースイルは足を止めた。そして石の壁をまた噴水の彫刻を触っていたときのように触って、暗いせいで全く見えなかいが、がこんと何かがはまるような音がした。それからイースイルが二歩左にずれて壁を蹴ると、大きな音と共に壁が倒れて、そこから光が漏れてきた。急に灯らしきものが目に入って一瞬だけ眩しさを感じるが、よくよく目を凝らせば小さな蝋燭に火が点っているだけで、そこも決して明るい場所というわけではなかった。
「此処は……」
「王城の地下牢です。今となってはほとんど使われることはありませんでしたが、恐らくパレイゼは此処に囚われているはず」
「吾輩が先に参りましょう。人を捕らえておくのなら看守もいるに違いありません」
ひらりとマントを翻して、オーウェンが先に立つ。蝋燭の微かな明るさだけを頼りに進めば、そう経たないうちに檻が見えた。当然ながら、それを見張る看守もそこにいた。彼はイースイルたちの足音に感づいて「誰だ!」と声を荒げて振り返る。
「此処はミルディア様以外は通すなと言われている!」
立ちはだかる看守が剣を抜くより先に、オーウェンが飛びかかって噛みついた。勢いで倒れたところへ、剣を鞘に入れたままの状態で殴った。鈍い音がして、うめき声と共に看守が気を失う。
「そんな命令は吾輩は知りませんなあ。さて……」
伸びている看守の懐を探って、オーウェンは鍵を見つけた。牢の鍵である。
「随分……手際が良いですね」
「ふふん、何、三百年も生きていればそれなりに経験もあるということですよ。血を流させて鍵がどろどろになったらいけないと思って殴り倒しましたが、間違いではなかったようですな」
「殺さないでいい相手まで始末する必要もありません。鍵を貸してください」
オーウェンの手の中で鈴のように音を立てる鍵束を受け取って、イースイルは檻に近づいた。
この地下牢の檻はいくつかの部屋に分かれている。イースイルの記憶では、ずっと長いこと使われていなかったはずの牢だが、今は人の気配が沢山ある。薄暗い檻の中に蝋燭の光をかざすと、そこには囚われた貴族たちの姿があった――誰も彼もが弱り切っていて、イースイルたちの存在に気が付いていなかった。最も奥の、一番厳重な鍵をかけられた牢のほうに進むと、見覚えのある炎のような赤毛の男がたった一人、静かに項垂れていた。
「――パレイゼ!」
妖精たちの中で誰よりも信頼の置ける友の姿を見て、イースイルは声を上げた。その声にようやくイースイルたちの存在に気が付いたようで、パレイゼはゆっくりと顔を上げる。
古いままの牢ではいけないと思ったのか、鍵は新しくつけかえられているようだった。付け替える、どころか二つ鍵が増やされている。先程の鍵束から合うものを探し出して檻を開けると、「殿下……」と確かめるような声色でパレイゼが呟いた。
「しっかりしろ。今離してやる」
パレイゼの腕や足を繋ぐ鎖を外すための鍵を探す。薄暗い中で探すのはなかなか骨が折れる作業で、痺れを切らしたオーウェンが剣を抜いて鎖を叩き斬って破壊した。
「魔界流ではこうやるのです。そのほうが早いでしょう」
「……確かに」
拘束を解かれたパレイゼの腕や足は、鎖に擦れて傷つき、腫れていた。それでも動かす分には大きな問題ではないようで、自由になった体にまだ実感が湧かないのか、ゆっくりと指や足の関節を曲げる動作をしながら、パレイゼは少し掠れた声で「状況がわからないな……」と呟いた。
「一体外で何が起きているんです……何故……いけない、うまく考えがまとまらない……」
「無理をして喋るな。ああ、しくじったな、水か何か持ってくるんだった。私の血ならあるが飲むか?」
「……ご遠慮します。吸血鬼になりたいのではありません。全く食べていないわけでもない……」
パレイゼはそう言って立ちあがった。そのときふらついて、体を支えるのに壁に手をついたが、その表情はいつもどおりの賢者と呼ばれるパレイゼの顔だった。
「殿下がこのような場所に来るとは」
「放っておいたらお前は殺されてしまうだろう。そうはさせない」
「現在、ミルディア王女があれこれと主導権を握っていますが、彼女に国を支配されることは魔界としては不都合が多いのです。我々魔界貴族はイースイル殿につき、反抗すると決めました」
「手始めにお前を逃がし、次はネビューリオを救いだす」
イースイルたちがここへきた理由を告げると、パレイゼはやや低い声で「ネビューリオ様に何か」と言った。
「妹は今ミルディアの手先に見張られて、身動きが取れなくなっている」
これから助け出す、とイースイルが宣言する。ネビューリオを助け出し、彼女を立てることで魔界は大義名分を得てミルディアを排除できる。何よりイースイルの本来の望みである、ネビューリオを王にするという目的とも一致する。
話を聞いたパレイゼは「私も連れていってくれ」と懇願した。
「パレイゼ……」
「私の足はまだ腐ってはいません。リオ様が助けを求めていらっしゃるのなら、私はそこへ駆けつけなければならない。あの方からの信頼に応えなければならない――人を信じることを忘れさせてはならない!」
表情こそ、いつもとそう変わらないように見えても、その様子はいっそ鬼気迫ると言ってしまったほうが正しいような雰囲気があった。パレイゼ自身傷ついて弱った体でありながら、ネビューリオのためとあらば行動しようという覚悟が滲み出ている。両親と死別し、兄も死んだと思っていて、姉に裏切られたネビューリオにとって信じられる他人であるために。
イースイルは、やはり彼こそは信頼の置ける妖精である、と感じた。ロズのように前世のことを打ち明けられる相手ではないけれど、ロズと同じように裏切りを恐れなくてよい相手である――正しく良き友人である。
「若き賢者の知恵があれば心強いのは確かでしょうな。人手はあるほうが良い」
「……此処に置いていけるわけでもない。他の貴族たちは気力もないようだが……」
「では、私をお連れくださいますね、殿下」
「その前に、やはり私の血を飲んでおけ。不味いだろうが、少しでも体力を回復しておいてもらわないと」
弱ったお前を連れ歩けるか、とイースイルは護身用に持っていた剣で自分の左手の親指を切った。溢れだす魔力の結晶の血をパレイゼに無理矢理飲ませると、彼の体からはたちまちに傷が消え、暗がりでわかりにくいがやつれていた頬に血色が戻った。
「他の貴族たちも助けてやりたいところだが、あまり悠長なことも言っていられない。こっちも余裕がないし……ロズさんたちがミルディアの相手をしているうちに、リオを攫ってこないと」
「……ミルディア王女はメーフェを攻めるための国軍を作ると言った。城中に人間の兵器を持った戦士がいるはずです」
「だったら他の連中が知らない道を行くだけだ。通路はまだ先にも続いているんだ」
此処へ来るのに開けた穴を指す。暗闇の向こう側に、まだ、道がある。
「王家の者が使うための通路だ。王族の私室から近い場所にも通じている……最も、リオが昔と部屋を変えていなければ、だが……」
「リオ様は昔とずっと同じ部屋で過ごしています、今も……あなたがいつか帰ってくると信じて、あなたの部屋をそのままにして」
「そうか」
今はミルディアによって囚われているも同然であろうネビューリオを思う。愛しい妹は、行方をくらませた兄のことをずっと想ってくれていた。
「あなたの無事を知れば、きっとお喜びになる……本当に、戻るつもりはないのですか。ミルディアに代わって王になるつもりは」
「それはもう、私のやるべきことではなくなっているよ。本当にやりたいことでもない、というと無責任と言われるかもしれないけど」
既に歴史から排除された敗者が舞い戻らなければならないほど、レテノアの次代を築く妖精たちは愚か者ばかりではない。賢者のパレイゼや聖女のネビューリオがいるのなら、同じく優れた妖精の血を持つイースイルは必要ないのだ――今はよくても、いつかまた次の世代と交代するときに争いの火種になりかねないからだ。それに、イースイルにはロズがいる。
互いの利害の一致から恋人という立場になった相手だが、彼女と過ごすうちに本当に惹かれたのだ。生まれ直す前のことを全く隠す必要もなく、今もイースイルのやりたいことを手助けしてくれる、強く逞しく美しい彼女に、本当に恋をしている。それが男性として生まれたイースイルの意識なのか、前の記憶の女性性がロズの中の男性性に惹かれるのか、はっきりと判別はしないけれど――何であれ、彼女との結婚を真剣に考えるのであれば、王位など本当にいらないものなのだ。魔族であるロズを正妃にできない立場など。そもそも彼女が望まなければ成り立たない結婚の契約のことを本気で考えてしまう時点で、イースイルは後戻りできないのだ。
「さあ、行こう。見張りがいるという話だったけど、こっちにはオースリー伯爵がいてくれる。頼りにしていますよ」
「ええ、お任せください。吾輩が敵など全て蹴散らしてしんぜよう。ロズ姫様やシャルロッテ様のためにもね」
存分に頼られるがよい、とオーウェンが胸を張る。それにイースイルとパレイゼが頷いて、一行は暗闇の中へ踏み出した。外へ音が聞こえにくい地下牢だ、看守を伸してしまったことはまだ他の連中には気づかれないだろう――気づかれないうちに、早く行かなければ。
そのとき、イースイルはどこか遠くで大きな音がしたような感覚を覚えた。決してよく聴こえるわけではなかったが、それに伴って僅かにだが、地震のように足元が揺れた。地上で何かあったのかもしれない――ネビューリオの無事を確かめるためにも、急がなければならない。