第三十五話
ベルクへ戻ったロズはミミの協力を得て慌ただしく出発の準備をした。馬車と御者を用意し、荷台のイースイルに護身用の剣を持たせ、ロズのバイクも一緒に無理矢理積み込むと、中はひどく狭くなったが仕方がない。オーウェンも呼んで、それをキャンドルの幻で隠せば準備は万全というところである。
「王都に着くまでの間に少し休む――後でバイクごと降りることにする」
「そうするのがいいですね。少しでも休息しておかないと」
「だよな」
「体調がすぐれないことを理由に、傷つくことになっては敵いませんからね」
「そりゃそうだ」
荷台に無理矢理バイクを乗せているため気分としてはゆっくり休むというわけにもいかないが、バイクに乗って王都まで行くのは寝不足気味である今は少々根気がいることだ。
ロズは出発の折、一番信用のおける猫のメイドに声をかけた。
「お前には特に色々負担をかけているな、ミミ。留守を頼むぜ」
「構いませんのよ、それがお仕事ですの。ロズ様が無事にお帰りになってくださればそれでいいのです。あなたは上に立つ人でもあるのですから、使えるものは使い倒せばいいだけですの」
「ああ。行ってくるよ」
馬車が出発する。白猫の見送りが少しずつ遠のいて、もう後戻りはできなかった。元よりするつもりもないが。
(前の人生じゃ考えらんねーことしてる気がするぜ)
少なくとも、貴族になって領地を治め、国のため王子のためと言って歴史に関わるような事件に首を突っ込むなどと。それも敵は外国ではなく、国内にいるのだ。頭が痛くなるような話である。
馬車に揺られているイースイルは何を思っているのだろう。彼もまたロズと同じくして、生まれる前に別の人生を歩んでいた記憶が残っている。
それを思い出したのは幼少期からすっかり馴染んでいたロズと比べれば最近のことのようだが。
そんなことを思いながらイースイルを見ていると、彼はふっと笑った。
「混乱を招きたくないといいながら、結局は混乱が起こることになるんでしょうね」
それはどこか自嘲的なものだった。自分が王子であると名乗り出たわけではないはずだが、今は王子を騙るものとして殺されかけている。王都につけば、ミルディアと対峙することになる。大きな事件になることは間違いなかった。
「それでも、私は歩みを止められない。力を貸してくれるという魔界の皆さんに縋りながら」
「まあ、いいんじゃないか。こうまで来ると、あんたがリオ様を王にしたいって言ったの、ミルディア王女を廃さないと無理だろうしな」
「確かに。今のままでは、ネビューリオ殿下が表に出ることは難しいでしょう」
オーウェンもロズに同調する。どのような時代で、どこであったとしても声の大きいものが表に出やすいのだ。その点でネビューリオがミルディアに勝るかといわれると今一つ想像がつきにくい部分である。
イースイルは頷いたが、どこか浮かない顔をしたままだった。
「本当は、きっと、リオでなくても良いんでしょう――王となるのは。ただ、ミルディアだけは受け入れられない」
「それでいいさ。後のことは、目の前の問題を片付けてから考えればいい」
「ミルディアを前にしたら、私は彼女に剣を突きたててしまうかもしれない」
イースイルは言った。独り言のようにぽつりと零したそれは、何とも言えず神妙な面持ちで、本当にそうしてしまうのではないかと思われた。
彼は剣の抜き方を知っている。言ったことを事実にするのは容易い。冷静に考えるなら、ミルディアのことは生かしておいてきちんとした裁判にかけ、適切な処罰を下すという順序を守るほうが周りに悪印象を残さずに済む。しかし、ミルディアと対立を深めるだけのイースイルが穏やかな心でいられないのは、ロズにも想像のつくところだった。
ロズが黙っているのを疲労のためと思ったのか、イースイルは彼女を気遣うように「ロズさん、お疲れですよね」と言った。
「休んでいていいですよ。王都が近づいてきたら起こしますから」
「そうですぞ。休めるときに休んでおくのも戦士の役目にございます」
「おう、そうする……」
疲労しているのは全く間違いというわけでもない。イースイルとオーウェンに促されて、ロズは静かに瞼を閉じた。
ゆるやかに睡魔が忍び寄る。それに逆らう理由もなく、ロズの意識は徐々に深く落ちていく。薄れてゆく意識の中で、ぼんやりと、すぐ傍にいる綺麗な顔をした男のことを想った。
――イースイルの手を汚させたくない。たとえ敵であったとしても、少なくとも、妹の血では。
できることなら、綺麗なままでいてほしかった。どうにも彼は、辛酸をなめたわりにはロズよりずっと上品である。その彼らしい美しさを損なわせたくないのだ。
(そういえば、ミルディアと繋がってるマリウスってのは、一体どんなやつなんだろう……)
ミュウスタットでは西進派として行動し、ミルディアと繋がって、騒ぎを起こしている男――そして恐らくレテノアに潜伏している。ロズが知っているのはそれくらいのことだった。だが、その男について深く考察するには、今は眠気が勝ちすぎていた。
◆◆◆
妖精軍を編制したミルディアは、自らあれこれと指図をして回った。手が足りないときには側近であるラドルフに代理を任せることもあった。そして、外国から招いた技術者を相談役にすると言って、黒いローブの男を傍に置き始めた。――マリウス・ウルズヴィヒトである。
ミルディアの主導でこれまで開発が進められてきた飛空船も、元はマリウスが技術を提供してきたものだ。その飛空船によって、レテノアには三千のライフルが持ち込まれ、マリウスに従う兵士たちが王都に集った。ミルディアの私兵と合わせれば一万五千の軍勢となる。
これまではマリウスはグレネ家の屋敷を利用していたが、今は柊館の一室を公式に彼のために開いている。頑丈な石の壁は、外に話が聞こえなくて済むので秘密裏の話し合いにはもってこいの場所であった。ミルディアが彼の部屋を訪ねていくと、マリウスは左足に包帯を巻きつけているところだったが、それをさっとローブで隠した。
「あら……あなた、怪我をしているの?」
「大したことはありません」
それよりもっと重要な話がございましょうや、とマリウスに促されて、ミルディアは本題に入った。これから後の計画についてだ。充分に兵力を集めた今、どう動けばより確実に目的を果たせるか――ということだ。当然ミルディアとしてはメーフェを攻めたいと考えているが、マリウスは彼女の話をじっくりと聞いてから、ミュウスタットが先だと言った。
「ミュウスタットは東の小国の小競り合いに横やりを入れるのに派兵している。東進派の連中がそれを推し進めていたのでね。だからこそ、すぐさま引き上げることは難しいはず」
「今のミュウスタットには隙がある――そういうことを言いたいのね。あなたの都合のために、メーフェより先にミュウスタットを攻めろと言うのね」
「ですが、そのほうがより堅実でございましょう。メーフェを攻めることなどいつでもできますが、ミュウスタットは今揺らいでいる。私が抜けた
穴を埋めるのは容易ではないでしょう――やつらが体勢を整える前に叩くのが一番かと」
マリウスが言った。
元々、彼には先帝の頃からミュウスタットに尽くしてきたという立場があった。金もあった。兵士は多く雇い入れている。間違いなくミュウスタットの戦力の一部だったそれが急になくなってしまったとあれば、動揺が走るものだ。それに加えて、マリウスは皇帝アクラダやその側近であるルクラスを暗殺すべく、刺客を放っている。その結果がどうであれ、揺さぶりをかけるという点ではそれなりの効果があるはずだった。
「ミュウスタットを先に奪うことができれば、帝国の軍事力を従えることができましょう。こちらの数が少なくとも、帝都に直接攻撃を仕掛け、やつらが兵力の優位性を発揮しないうちに片をつけてしまえばよい。それから圧倒的な力でメーフェの戦意を喪失させるのです。豊かな大地をなるべく傷つけず奪い取れれば、メーフェを得たときの益も大きいでしょうからなあ」
「……そう、そうね。良いでしょう――先にミュウスタットをやる、それで構わないわ。煩わしい連中を処刑したのち、すぐにでも出発しましょう」
「ご協力痛みいる」
「メーフェのためなら何だってするわ」
ミルディアは言った。彼女は、少なくともマリウスがメーフェを攻めることに関して手を引いてしまうとは思っていなかった。彼の目的は帝国を従え、南方の新大陸に進出することなのだ――その点で障害となるメーフェを放置できはしない。ミルディアがメーフェを求めるのに同調してレテノアがメーフェに侵攻するのを後押しする、そのことは容易に想像がついた。
利を考えるならば、マリウスの希望を全く無視してしまえば、彼からの協力を受けられなくなってしまうかもしれない。ミルディアが望みを叶えるためには、彼の持つ――正確には彼の財団が持っている、最新兵器の技術が不可欠だ。そして、害獣を操る力も――。レテノアとしてミュウスタットを積極的に攻める理由には欠けるが、ミルディアはどうしても強大な兵器を持つマリウスを繋ぎとめる必要がある。
少しでも彼の技術を得て、彼自身が必要のないところまでくれば楽な話ではあるのだが。ミルディアは何でもない世間話をするように問う。
「ねえ、一つ聞いても良いかしら。あなた、どうやって害獣を操っているの? レテノアでも害獣の被害は絶えないし、活用する方法があるというのならぜひご教授願いたいわ」
マリウスは「まだ完璧な技術とはいえません」と言った。
「我々は確かにある害獣を操ることに成功しました。だが、我々の研究ではまだ未知の部分も多く、他の害獣にも応用が利くものかどうかははっきりとしていないのですよ。中途半端なことを申し上げるわけにもいきません」
「そう……それなら仕方ありませんね。でも、本当に知りたいことだわ。前にも害獣の死体を渡したけれど、研究ということなら頭のいい学者はレテノアにもいるわ。お互い協力するほうが、より良い結果を得られると思いませんこと?」
マリウスがすうっと目を細めた。何かを吟味するように舌なめずりをして、彼は「素晴らしい提案だ」と微笑んだ。
「研究において必要なものは数多くありますが、我々でも手に入れにくいものもございます」
「あら、あなたの財団で手に入らないものなんてそうないでしょうに」
「いやはや、金があっても貴重なものはそもそも市場に出回らないのでね。可能であるのなら、その点で手を貸していただきたいのだが……」
「ものによるわ。言ってみなさい」
ミルディアが促すと、マリウスはやや大仰な仕草で一呼吸おいてから答えた。
「――妖精の血です。優れた妖精の血が、害獣の野性を抑え込むために有用と思われるのです」
妖精の血。それはこの世の魔法医療において最高の薬である。特に優れた妖精の血であれば、どのような傷や病もたちまちに治す至高の薬となる。
本来なら、それは人の治療に使われるものだ。そもそも妖精が身を削らなければ得られない薬であり、害獣研究のためにそれを提供するということはミルディアも躊躇いを覚えた。あまり気分の良い話ではない――が、危険な害獣を従えられるというのであれば、魅力的なことでもある。
「それは……害獣化してしまった獣を元の生き物に戻そうという試みなのかしら。大人しい獣であれば調教できるということ? それで害獣としての怪物の力を削ぐの?」
「害獣とは魔力炉に異常をきたした生物。その暴走を押さえることができればいいのです。既に変質した力は変わりませんが、枯渇する魔力を補うことで害獣は大人しくなります。これまでは安価なものを使って試していましたが、より良いものを使えれば……害獣の力はそのままに、生物としての本来の在り方を取り戻させたうえで、調教できるのです。調教した害獣が短命でなくなれば、より効率的に兵器として活用できるようになります」
マリウスの言うことが理解できないわけではない。損益はどうだろう――ミルディアの思考はそれに埋められた。害獣を兵器として利用する技術が完全なものとなれば、それほど有用なものはない。まるで自然災害が起きただけだというような素知らぬ顔をして、気に入らぬ相手を攻めることができる。そのために、同胞の血を流せるか。
――今更な話だ。既にミルディアは多くの同胞を闇に屠ってきた。あるときは毒によって殺し、あるときは暗殺者を雇って殺した。意見を違える貴族たちを次々と政界から遠ざけ、父すらも殺したのだ。兄は殺し損ねたが、王子としての立場は奪い取った。失敗したのは妹だけだ。とうの昔にミルディアの手は妖精たちの血で赤く染められている。それならば、どうして足踏みする必要があるだろう。
「あなたの話はわかったわ。優れた妖精の血――いいでしょう。用意をさせます」
「話がわかる方であらせられる」
にいやりと、マリウスが笑った。ミルディアはそれに微笑みを返しながら、この場にいない騎士のことをふと思い出した。
ラドルフはどうやら人間のことを好いていないらしい。ミルディアもそれは同じことだ。利を見出さなければ決して近づけはしない。マリウスと近づき、手を結んだのも、全ては帝国に対し謀反を企てるマリウスがミルディアの望みのために利をもたらしてくれると踏んだからである。だがラドルフにとっては気に食わない相手でしかないようだった。
強く命令すればあの男は従いはするだろうが、何か小言は言ってきそうだ。あれも利で動いているわりに、感情に左右されるところがある。面倒だが、それでも一番従う騎士であるのだから、宥める言葉の一つでも用意しておかなければならない。だが、それだけのことでもある。計画は順調だ。