第三十二話
レテノア魔界では、パレイゼが逮捕されたという報せの真偽を確かめるべく、オーウェン配下の魔物たちの諜報に熱が入っていたが、翌日にはネビューリオが療養と身辺警護の強化のため政治から一旦退くということが報道された。そして魔界に戻った獣たちは口を揃えてパレイゼの逮捕が事実であることと、ネビューリオの姿が見えないことを報告してきた――彼女の部屋にはラドルフの部下と思われる護衛がついていて、調査が難航しているのだと。
その間ずっと滞在していたロズとイースイルは信じられないという顔をした。魔王の居室で報告を聞いたクロヴィスは難しい顔をした。
「つまり今は、ミルディア王女に全ての権力が集まっているわけか。それを止められる立場にある者が誰も政治の場にいない」
「ミルディアは強引な手段に出たようですね……ネビューリオの部屋には護衛、か。護衛という名目でしょうが、ラドルフの言うことを聞いているなら十中八九ミルディアがネビューリオを監視する目的でつけた見張りでしょうね。ミルディアが思うままに行動するには自分より王位継承権が上の娘など邪魔なだけです」
「俺もそう思う。あくまで護衛としか発表されていないから手は出しづらいが……ともかく、まずフェルマ公爵をどうにか助けることを考えなきゃな」
パレイゼ・リード・フェルマは現魔王クロヴィスの妻シャルロッテの親戚である。ネビューリオの補佐を務めていた男でもある――国を動かす立場の男だ。妖精とはいえ魔界が無視できる存在ではない。パレイゼを諦めれば、リード一族の繋がりで魔界にも何かしらの影響が出る可能性がある。シャルロッテは魔王となったクロヴィスの妻なのだから。
ようやく魔王らしくなってきたクロヴィスだが、彼は妻を心の支えにしているところが大きい。周囲の反対など全て押し切って妖精の妻を認めさせたくらいだ――そうまでして結ばれた妻を切り離せるはずもない。
そもそもそれは悪手に過ぎる。ミルディアの機嫌を窺うためにシャルロッテを切り捨てるような真似をすれば、妖精にただ屈服する魔界が出来上がってしまう。レテノアにおける均衡が崩れることになる――問題が起こったときにロズを切るのとはまた違った状況になるのだ。ロズならばたとえ魔界と縁が切れたとしても、普段から魔王とは疎遠だった、周りに隠れて悪事を働いていたというような捏造がいくらでもできるが、クロヴィスの妻ともなるとそうはいかない。それは弱味にもなる――シャルロッテを経由してパレイゼと共謀して悪事を企んでいたなどと因縁をつけられでもしたら、潔白を証明しにくくなるのは目に見えている。やったことの証拠は容易く提示できても、やっていない証明は簡単ではないのだ。
「でも、パレイゼを助けると言っても方法は限られましてよ。嘆願を素直に聞いてくださるようなミルディア殿下ではないでしょう」
シャルロッテが言った。そのとおりだ。ミルディアが何の理由もなく、自分の敵になるであろうパレイゼを解放するはずがない。たとえ敵とならずとも、誰よりも物識りな賢者を野放しにしておけば、ミルディアの別の敵が現れたときにその叡智を利用されないとも限らない。監禁どころか、積極的に始末しにかかるはずである。パレイゼを筆頭に自分と対立するものを排除しようとするに違いない――ロズもそう思った。その想像がついてしまう。
「リオ様の命令でもありゃ好き勝手動けるんだがな」
要は正当な理由さえあればいいのだ。本来魔界が妖精の政治に強く干渉することはないが、何ごとにも例外はある。たとえばネビューリオが一言「ミルディアが野望を抱き国に混乱を招こうとしている」と言ってその対処を魔族に命令すれば、国の危機への対処という建前ができる。妖精の政治に干渉することを十分に覆い隠せるだけの理由になり、堂々とフェルマ公爵を解放するために動けるというものだ。無論、それに伴って流れる血も多いだろうが、少なくともフェルマ公爵を救いだすために城に乗りこんで牢を破っても、失敗さえしなければ後で責められる要因にはならない。
時間がないのは確かだった。ミルディアはパレイゼを従えようとするか、そうでなければ早々に処刑しようとしてくるに違いなかった。そうなれば完全にミルディアを止められる者がいない――止められたとして、その後始末をできる者がいなくなる。
「だが、現状ではネビューリオ王女からの命令を望むのは難しいことだね。接触もできないし、向こうも容易に動けはしないだろうし」
「命令を待つより誘拐でもしたほうが早いかな……」
素早く動くという点ではいちいち命令が出るまで待機するよりは勝手に動いてしまったほうが話は早い。ただ、それをすると後からミルディアだけでなく他の妖精貴族にも反感を買うことになりかねないリスクがある。
「……私が、覚悟を決めていれば……このようなことにはならなかったのでしょうか」
イースイルがぽつりと呟く。
そもそも彼はレテノアではほぼ死んだものとして扱われていた。今更王位継承権のある王子であると主張すれば混乱は免れないとして、イースイルはロズの庇護のもと密かに活動しているが、彼が生きていることを公開していれば状況は変わったかもしれない。
ロズは、恐らく現状とは違うことが起きただろうと予測する。だがそれが良いことだとも思わず、イースイルを慰めるように言った。
「さあ、どうだかな。あんたがその気になって名乗りをあげても、リオ様は人質に取られただろうし――さっさとごたごたが片付いたとして、その後で今度は本人たちの意思なんか無視してイースとリオ様の派閥ができただけだろ」
もしもの話ではあるが――イースイルが自分の生を公のものとしていたなら、当初彼が案じたとおりに混乱が起き、争うつもりがなくとも無用な血が流れることになったかもしれない。パレイゼは捕まらなかったかもしれないが、暗殺されたかもしれないし、ネビューリオのようなイースイルにとって弱みになりうる存在が放っておかれるはずもない。今よりも悪い事態にならなかった保証はなく、それゆえに後悔に意味はない。イースイルが生きていて王子と名乗るのなら、一つ問題が解決した先には新たな争いが待っているだけに違いないのだから。
議論をしても答えが出ない。重くなる空気を打ち破ったのは、「お手紙が届いております」と部屋に入ってきた使用人たちだった。魔王城の者と、ベルク城の者である。
「は? なんでうちのやつまでこんなところ来てるんだよ」
魔王城に届いたものを魔王に届けにくるのはわかるが、ベルク城のものをわざわざ運んでくる理由は通常ならない。だが、使用人はどこか焦ったような様子で、黒い封筒と白い封筒の二通を取りだした。
「ロズ様、その……一通は王都からのお手紙で。ミルディア殿下の名前が」
「早く言えよ!」
ロズは彼から封筒とペーパーナイフを半ばひったくるようにして受け取り、まずミルディアの名がある黒い封筒を開く。
とても丁寧な美しい字であった。ロズはそれを一通り読んで、ぐしゃりと握りつぶした。
イースイルは、ロズの表情を覗き込むように首を傾けて問う。
「……何が、書いてあったんです?」
「あんたの身柄を差し出せと」
正確には、まるでロズの身を案じるかのように書かれていた。イースイルを騙る悪人がベルク城に入りこんでいる。きっと騙されているのだろうが、その男は偽物であり国を混乱させようとしている大悪党である。適正な裁きを受けさせるため、その身柄を王都へ――と、そのような内容だ。
ロズに気を遣っているような体裁でありながら、その実「イースイルを引き渡す」ということを拒否した場合は反逆者として扱われるのだろうということが目に見えていた。ミルディアに大人しく従うだけではないパレイゼは投獄され、ネビューリオも警護されているとは名ばかりの軟禁状態であることを思えば、従わない邪魔者は排除しようという腹積もりであるのだろう。何とでも因縁をつけて、魔界を従えるか、あるいは解体してしまうつもりなのだ。
ロズは険しい顔をしたまま、もう一通の白い封筒も開いた。差出人の名に、ミュウスタット皇帝の名があることを確認して、緊張しながら目を通す。
こちらには、マリウス・ウルズヴィヒトを国家反逆罪で指名手配する旨が書かれていた。皇帝の側近であるルクラスも被害を受けたようで、マリウスがレテノアに潜伏している可能性があるため、捜査に協力してほしい――という要請だ。どうやらルクラスは、西進派のやることのまずさを上手く伝えることに成功したようだ。尤も、そのために相当体を張ったようだが。
ロズは手紙をイースイルに手渡して、クロヴィスの様子を窺った。こちらも手紙が届いていたのだ――そこに一体何が書かれているのか。
「パレイゼ・リード・フェルマ公爵の処刑の日程が決まった。五日後だ。それに伴って、リード一族の身柄を要求してきている――正式にな」
「予想どおりってわけだ。ちょいと早かったかな」
無論それに従うはずもないが、いよいよ追い詰められているという感覚もある。ただでさえ烈風魔王を失ってしまった魔界にさらなる打撃だ。迂闊なことはできない。
ロズから渡された手紙を読み終わったイースイルは、ゆっくりと息を吐いた。
「ミュウスタットからの手紙で、西進派のことは証明できますが……猶予はないということですね」
全くもってそのとおりだ。パレイゼが処刑される――そこにまともな裁判の手続きはない。だがそれを強行するのは、ミルディアにとってパレイゼが早々に葬り去るべき相手ということだ。それを皮切りにリード一族やイースイルも片付けてしまいたいのだろう。
シャルロッテは、いつもの動かない表情のまま、クロヴィスの手に触れた。クロヴィスは彼女の体を抱きよせて、「一つ頼みたいことがある」と囁いた。
「わたくしはあなたの判断を信じましてよ」
「うん――ロズとイースイル殿下にも協力してほしい」
クロヴィスは言った。強い意思を感じさせる瞳だった。そこに迷いの色はなく、ロズもイースイルも深く頷いだ。
クロヴィスは宣言した。
「シャルロッテとイースイル殿下を王都へ連れていく」
これは良い機会でもある。二人の身柄を要求されていることに素直に応じるわけにはいかないが、王都に乗り込むのにちょうどいい理由になる。
「向こうが来いと言っているんだ。だったら逃げる必要なんかない。堂々と行ってやろうじゃないか――王都へ」
「よく言ったぜクロヴィス」
どの道ここで動かなければ、ミルディアの権勢に媚びを売るだけの魔界になるか、解体されるだけの運命だ。ミルディアは完全に魔界が動くべき敵として定められた。それならば立ち止まっている必要はない。反対するものは誰もいなかった。
「ロズ」
「何かな新しい魔王サマ」
「お前は魔術品を作るのが得意だろう?」
「それなりにはね」
「急ぎの仕事になるが……作ってほしいものがある。頼めるかな」
クロヴィスは必要なものを言った。ロズはそれを聞いて目を細める――愉快そうに、満足げに。
「どうだ。やれるかい」
「オーケー、一晩で仕上げてやる。カガリビキノコと蚕の繭と蛍石、あと蜜蝋がいる」
「問題ない。全て揃っている」
「僥倖」
こりゃオッさんへのプレゼントはまだまだ後回しだな――などと呟いて、ロズは席を立った。今、魔界は歴史の流れに関わろうとしている――そのために必要なものを、作らなければ。
「あの、ロズさん!」
ロズが部屋を出ようとしたところで、イースイルの声で振り向くと、彼はどこか緊張したような顔をしていた。
「その――無理は、しないでくださいね」
たった一言それだけを言うのに、随分神経を使ったようだった。ロズはからりと笑って、イースイルの傍に近づいた。
「あんたこそ気負いすぎるなよ。なるようになるし、あんたのことは俺が守る」
軽く拳を作って、イースイルの肩の辺りを小突く。彼は「はい」とだけ言った。今度こそロズは魔王の居室から外へ出た。
脳内には、必要な魔術式と手順が浮かんでいる。問題ない――完璧に作ることができる。作ったものはこれからのために、きっと手助けになるだろう。今宵は眠れない夜になりそうだ。歴史は既に動き始めている。