第三十一話
同じ頃、レテノア東に位置するミュウスタット帝国では、ルクラスが皇帝アクラダに謁見するため、資料をまとめていた。
元々自分の身代わりをさせていた部下と入れ替わるようにして戻ったため、他の誰にも気づかれることなく、ルクラスはずっとミュウスタットにいたかのように振る舞うことができた。こういうときに仮面というのは役に立つ。
レテノアで調べたこと、ロズとの協定、それから不在の間に部下たちが調べたマリウス・ウルズヴィヒトの動向――これについては決定的なものがあった。調査を命じていた部下の一人がマリウスとミルディアの密会を写真に収め、その会話内容の一部をテープに録音することに成功していたのだ。
どうやらミルディアがミュウスタットへ訪れたのは内密のことのようだったが、重要な証拠である。マリウスはミルディアに対し技術提供や軍隊の派遣を約束し、帝位を簒奪するためにレテノアの協力を得ようとしている――魔王を撃った銃弾以上に皇帝への説得には効果のありそうな内容の話だった。ミュウスタットで皇帝ともなれば、それ以上に盤石な地位などない。
「予想を超えた野心家だな」
ルクラスはぽつりと独り言を零しつつ、話を伝えるのに十分な資料を作り証拠と共に大きな封筒に入れる。それを持ってルクラスは自宅を出発し、車に乗って城へ向かう。当然行く先は皇帝の執務室だ。
皇帝アクラダ三世は、ルクラスの双子の兄である。ルクラスは忌むべき双子として、その存在をなかったことにされた。それを憐れんだ当時の帝国軍元帥ヨルク・ガイストによって救われ、彼の息子として育てられることになり生き延びた。
ルクラスにとって、祖国とは父が愛した国である。ヨルクが愛着を持っていた国だからこそ守り、より良く発展させなければならないと思っている。アクラダに対して何か特別忠誠心があるというわけではない。恨みもない。ただ、国そのもののために動くつもりでいる。
マリウスが皇帝の座につくことは、ルクラスには考えられないことだった。国に混乱を招くだけだ――それゆえに排除せねばならない。アクラダに対する忠誠はないが、マリウスよりはずっと良い――だからこそ皇帝を守る必要があった。
さして長い距離でもなかったが、その間にトラブルは起こった。運転していた車のハンドルが急にいうことを聞かなくなり、派手にスリップする。
「ッ!」
煉瓦道路の上でかなりの距離を滑り、そのまま近くの街灯にぶつかる。ボンネットがひどくへこみ、中にいるルクラスにもその衝撃が伝わってくるほどだった。その際頭を打ち、ふらつきながらも車から脱出する。
その瞬間、ドン、と大きな音がして足元の煉瓦と煉瓦の隙間に何かが突き刺さった――銃弾だ。今の狙いは外れたようだが、これで車のタイヤがパンクさせられたのだ。そしてルクラスはまだ狙われている――!
「随分乱暴な挨拶だな……!」
見えたのはヘルメットで顔を隠しているバイクに乗った男だった。片手に自動拳銃を持っているのが遠目にもわかる。それでこちらを狙っているのだ。
ルクラスは後部座席のドアを素早く開けて中に乗り込む。その間にも開いたままのドアに穴が開く音が聞こえてくる。窓も割れる。車に積んであったライフルを素早く組み立て、割れてしまった窓からバイクのタイヤを狙って撃つ。その弾丸は吸い付くように目標へ向かって一直線に飛び、バイクを横転させた。ルクラスはそれを見届けると、愛用のサーベルを持ちだして男の元へ駆ける。
バイクから投げ飛ばされた男が体勢を立て直すより先に、その体を踏みつけながらサーベルを男の首に添えて、身動きをとれないようにする。
「甘かったな。私はそう簡単には殺されてやらん――お前はマリウスの手の者か? じっくり話を聞かせてもらう、ぞ……ッ!?」
再び大きな音がした。ルクラスは震える手で自らの腹部を抑える。濡れた感触。どろりとした赤い血が、腹から噴き出している。
ルクラスはがくりと膝をついた。体勢を崩したせいで、男の首筋に当てられていた剣が滑り、そのまま首を刎ねた。何も聞きだすことができないまま、男の死体だけがそこにあった。
「仕事の下手くそなやつだ、俺はまだ生きているぞ……」
男の死体を乗り越えて、ルクラスは重たい体を引きずるようにして車の場所まで戻った。中にある資料を取りだして、近くの公衆電話まで移動する。手持ちのコインを払って、よく知った皇帝の私用の電話番号に電話をかける――幸いなことに、電話は繋がった。
『限られた者にしか教えていないが、その中に公衆電話からこの番号にかけてくるやつがいるとは思わなんだぞ。誰だ?』
「陛下……」
『その声はルクラスか?』
絞りだすような声でも判別はついたらしい。それなら余計な説明は省ける――今伝えなければならないことを言わなければ。
「マリウスにお気を付けなさいませ……やつは帝位を簒奪しようと……」
『一体何を言って……? お前、今どこにいる?』
電話の向こうで、焦ったような声が聞こえる。こちらの異常に気が付いたのか――ルクラスは思わずふふ、と声を漏らした。こうして心配されるくらいには、間違いなく、自分は皇帝の信頼を掴んでいる。
マリウスの悪事について資料が手元にあること、それを届けられないこと、この話をしたかったが不意の襲撃でそれが叶わないこと。言わなければと思っても、上手く言葉にならなかった。痛みがひどい。血が流れすぎて、意識が遠のくような感覚がある。
やがて視界が狭まり、暗くなる。公衆電話に縋りながら、ルクラスは崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
地面に赤い水たまりが広がる。受話器からは皇帝の声が暫く洩れていたが、数分も経つと電話は途切れた。
◆◆◆
――ルクラス・ガイストが何か緊急の連絡を寄越してきた。
その事実は、ひどくミュウスタット皇帝アクラダを揺さぶった。手の空いたものにルクラスの捜索をさせると、仮面の騎士は満身創痍の状態で見つかり、帝都で最も優れた病院に搬送された。
失血がひどく、意識もない。彼が助かるかどうかはまだわからなかったが、彼が残したヒントは大きな意味を持っていた。彼の持っていた血塗れになった封筒の検分にはアクラダ自らも参加したが、そこにはマリウスが国を転覆させようとしていることが書かれた資料があり、その証拠となる隣国の王女との密会を写した写真や、隣国の魔王暗殺に関係する話が詳細に書き込まれていた。さらに、レテノアの魔界と連絡を取れる状況にあることまで――。
電話でルクラスが「マリウスに気をつけろ」と言ったのを思えば、彼がマリウスの手の者に襲われたのだろうということは容易に想像がついた。恐らくルクラスは確信を持っていた。
アクラダはマリウス・ウルズヴィヒトの屋敷に騎士たちを向かわせた。相手は父の代から仕えている男だ――本当なら、疑いたくはなかった。けれど、これまでミュウスタットのために各地の戦争へ赴き、功績を上げてきたルクラスの言葉を切り捨てられるわけもない。顔は知らずとも、それを承知でアクラダはルクラスを傍に置いている。ヨルク・ガイストの息子であるというだけで素性は確かなのだから、顔までも暴く必要がなかったともいう――病で引き攣れのある顔を晒したくないというのに、無理にその顔を見ようとして貴重な人材を手放すことはしたくなかった。
この事件について、マリウスが関係していそうだということは確かだった。真偽を確かめるためにも、調査はしなければならない――怪しい要素は山とあるのだ。
マリウス・ウルズヴィヒトの屋敷は帝都の郊外にある。広い庭と、豪奢な館はまさに国を動かす政治家であり、財団に投資する実業家らしくもある。宝物庫を四つ持っていて、この屋敷を財団の拠点としても使っている。
アクラダによって派遣された騎士たちは、マリウスの屋敷に辿り着くと、玄関のドアの呼び鈴を鳴らして気が付いた。――反応がない。
扉は鍵がかかっていたが、それを破壊して強引に押し入る。しかし、それでも誰も出てこない。そのまま中を調べるが、人の姿は全くなかった。
ミュウスタットでも有数の財団の拠点に誰も人がいないというのはおかしな話だ。家主がおらずとも、誰か別の者がいるはずだというのに――静かな屋敷は、だからこそ異様である。
騎士たちは食堂や寝室までも念入りに調べたが、人の気配がないどころか、生活感にも乏しい感覚があった。食材らしい食材も残されておらず、書斎の本棚には本の一冊も置いていないのだ。武器の一つもない。最初からなかったというよりは、全て持ちだされた後という様子であった。
「隊長、地下に隠し部屋が」
騎士の一人が、隠された部屋を発見して、それも調べに入る。
空気が冷たいのは確かだが、血の臭いと腐臭がした。灯りをつけると、鉄の檻がいくつも並べられており、その幾つかの中には痩せ細った鳩や犬、狐などの鳥や獣が倒れていた。
獣たちはほとんど皆ただの死骸だったが、生きているものもいた。だがそれも虫の息といった有様で、かろうじて死んではいないというだけだった。
床には血が染み込んだような跡がちらほらと見受けられた。それから、部屋の隅のほうに、巨大な羽根があった。毟られたのではなく、自然と抜け落ちたような羽根だった。その大きさからして檻にいる鳥のものとは違ったし、ミュウスタットに生息する生物のものとは思えない奇妙な光沢を持つ黒い色をしていた。
一体、この地下室で何をしていたというのか――全く想像がつかないが、此処にいる動物たちは、まともに飼育されていたわけでもなさそうだった。
他に調べていないのは、宝物庫のほうだった。家の中ではこれ以上何も見つかりそうもなく、何かの手がかりを求めて倉庫の扉を破る。
そこにあるはずの財宝は、何もなかった。空虚な宝物庫は、ただ埃の臭いがするだけだ。四つの宝物庫のどれもすっかり空だった。絵画も宝石も――剣もだ。あるのは、それらが飾られていたのであろうショーケースのみで、中身が一切ない。
よく観察すると、ちょうど何かをひっかけておくのに良さそうなフックがいくつも壁に取り付けられているのがわかった。それはちょうど、ライフルやショットガンを置いておくのに合いそうな具合に設置されている。
当然ながら、銃の一丁も残されてはいないが、一度そう見えるとそれ以外には見えなくなるものだ。宝物庫とはいうが、これだけ広いのなら、それなりに武器を置くこともできたはずだ――古い時代のものばかりでなく、新しく作られたものも充分に入れることができただろう。新しく作られた銃を、何丁も、何百丁でも――。
銃が、兵器が持ち出されている。金目のものと一緒にだ。そもそもマリウスは近頃私設軍隊の強化に熱心だったのではなかったか――まるで戦争の準備をするように。
ただ一つわかることは、マリウスが自分に結びつきそうなものをほとんど隠滅して姿を消してしまったということだけだった。それはつまり、マリウスに後ろ暗いところがある何よりの証拠でもあった。
騎士たちが調べたことをアクラダに報告すると、彼は大きく溜息をついてから「ご苦労」と臣下を労った。
その時だった。鼓膜を破りそうなほどの大きな音がした――瞬間、アクラダの傍にいた騎士が体を傾けた。そのまま彼は倒れる――肩から赤いものが流れ出している。血だ。
「誰かいるぞ!」
動ける者たちが柱の影に人の姿を見つけて、素早く取り押さえにかかる。黒いローブを纏った男だった。その顔にアクラダは見覚えがなかったが、騎士の一人が「マリウスのところに出入りしていたやつだ」と言った。
「本当か」
「間違いありません。こいつの顔には覚えがあります……以前、マリウスと話しているのを見たことがあります」
「それなら猶更じっくり話を聞く必要がありそうだ――連れていけ! それと、俺を庇った彼を介抱しろ」
アクラダは険しい表情のまま、命令を下す。気分は最悪だった。吐き気がしそうだったが、それを無理矢理飲み込んで耐える。この国を揺るがそうとする反乱分子を早々に片付けなければならない。騎士たちの血が流されたことを、皇帝として無駄にはできない。
「マリウス・ウルズヴィヒトを指名手配する。やつの逮捕のため、レテノアにその協力を求めよう――」