第三十話
王都ゲリアの絢爛な妖精の城。ミルディアの私室まで押しかけ、抗議の声を上げているのはネビューリオだった。
「パレイゼはそんなことしません!」
ネビューリオの婚約者であったパレイゼ・リード・フェルマは国家への反逆を企てたとして、現在彼は王城の地下牢の捕らえられている。それを指示したのは誰あろうミルディアである。
ネビューリオが暗殺されかかったその日、ミルディアは謁見の間に人を集めて宣言した。国王の死は病によるものではなく、毒を持ちいた殺人である――と。
そして王の死も、此度のネビューリオの命を狙ったことも、王位継承の野心を抱いたパレイゼが企てたものとして彼を拘束したのだ。
「やってもいないことをやったと言うわけにはいかない。私は潔白だ」
パレイゼはそう無実を訴え、その証明をするためにも王都から離れないことを誓ったが、ミルディアはそれを認めなかった。そして半ば強引にパレイゼを逮捕したのだ――逃げる意思を見せない貴族をろくな裁判もないままに劣悪な環境の地下牢に収容することは異例である。
納得しないのはネビューリオである。年上の婚約者のことを案じる気持ちは勿論あるが、そもそも彼が罪を犯すはずがないと信じている――彼ほど信頼の置ける男は他にいないと思っている。それは姿を消した兄の言葉でもあるが、彼女自身がパレイゼとの触れ合いの中で感じてきたものでもある。
ミルディアは妹に言い聞かせるように「あれは悪い男ですよ」と言った。
「あれはあなたに甘い顔をして近づいてきたかもしれませんが、全て策略なのですよ。上手くお父様に取り入り地位を築き上げたけれど、全ては自分が王になるためにやったこと。あのような危険な男を野放しにはしておけないわ」
「嘘です、パレイゼは……だって、彼は頭が良い人でしょう。そのつもりがあるなら、わたくしが生まれるよりずっと先に計画を完遂させていたはずだわ」
「可哀想なネビューリオ。あの男に騙されているのよ」
ミルディアは残念だ、というように溜息をつく。彼女がテーブルにあった呼び鈴を鳴らすと、間もなくして騎士の格好をした者たちが部屋に入ってくる。
彼らはミルディアの指示を受けて、ネビューリオの腕を掴んだ。
「何をするのです……!」
「ネビューリオには頭を冷やす時間が必要だわ。しばらくは自分の部屋でゆっくりと休むことです」
まるで労わるように言いながら、しかしそれはネビューリオの言葉を一つも聞く気がない台詞だった。ネビューリオは無慈悲な騎士たちの手を振り払おうとするが、か弱い少女の力では屈強な騎士には到底敵うはずもなかった。
「やめて! 放しなさい! わたくしはお姉様とお話をしているの!」
「連れていきなさい。外にあるのは危険なものばかりです――そんなものを近づけさせてはだめよ。決して」
「パレイゼは危険なんかじゃない! 何かの間違いです、お姉様!」
妹が叫ぶように訴える声は、やがてドアの向こうへと消えた。暫くはネビューリオの声が響いてきたが、それも少しすると聞こえなくなる――ミルディアは再び呼び鈴を鳴らした。チリン、チリンと間を置いて二回。
今度部屋に入ってきたのはラドルフである。ミルディアにとっては最も扱いやすいところにいる手駒だ。
「ご用でしょうか」
「マリウスを王城へ引き入れる準備をしておきなさい。わたくしはその前に煩い連中を処分する……ネビューリオを殺すのには失敗した以上、少々強引なやり方になってしまうわね」
ミルディアは先程まで自分に抗議をしに来ていたネビューリオのことを思う。人間の政治家マリウスと手を取り合い、彼の協力を得て魔王を暗殺することに成功した――その後は邪魔がない。
元々彼女は父への献身に見せかけて、薬の中に毒を紛れ込ませていた。先日からその量を増やしただけだが、それであっけなく国王は死んだ。これで枷がまた一つ消えた。ミルディアの目的のためには残る障害を取り除かなければならない――王代理である妹ネビューリオと、彼女の補佐についているフェルマ公爵パレイゼ・リードだ。その二人さえいなければ、後はどうとでもなる。
パレイゼには毒殺の罪を被らせることで捕らえることができた。自分のほうに寝返るというのなら生かしておいてもいいが、そうでないならあとは反対意見を言う者たちもろとも始末してしまえばいい。だがネビューリオの暗殺には失敗した。
妹を殺すために、ミルディアはマリウスの手の者に狙撃させた。父の葬儀の際ならば必ず隙ができると踏んでいたが、運よくネビューリオは弾に当たらず生き延びてしまった。この場で死んでもらう予定だったミルディアにとっては誤算である。妹が死に、王位継承権を持つ有力者が逮捕されたとなれば、残る王女のミルディアに王の位が自然と回ってくるはずだったのだ――妹を喪った哀れな王女として人の同情を集め、悲しみの中でも誇り高く生きようとする新たな王としての演出ができるはずだった。
「……いいわ、ネビューリオには錯乱した王女として大人しくしていてもらううことにしましょう」
「それで貴族院が納得するでしょうか」
ラドルフが言った。王城に集い政治の議論を交わす貴族たちは、ミルディアの派閥に属するものもいるが、正妃ロランの娘であり至上の妖精と謳われるネビューリオを聖女のように信奉するものも少なくない。むしろ国王の死にフェルマ公爵の逮捕に加えてネビューリオが表に出てこなくなるとなったら、そこに何の疑いも持たない者のほうが少ないだろう。
ミルディアについているラドルフですら、ネビューリオがどのような人物かわかっているのだ。か弱い少女ではあるが、ただ弱いだけではない。兄の行方がわからなくなり父が病に倒れるという事件が起きても、泣き腫らすだけではなく王代理として責務を果たそうと努めてきた少女だ。自らが害獣に襲われた際もひどく取り乱すということはしなかったような王女が、今更あれこれと心労が重なったからといって正気を失うとは誰も思うまい。
ミルディアはゆっくりと目を細めた。
「あら、納得するかしないかなんて関係のないことよ。真実を暴く者を全て闇に葬り去れば、わたくしが言ったことだけが事実として残るのだから」
ふふ、とミルディアは小さく笑った。少々のトラブルはあれど、おおよそ彼女の思うままにことは動いている。もう後戻りはできないし、止まるつもりも毛頭ない。
「お前を頼りにしているわよ、未来の騎士団長さん」
わたくしのために働いてね――と囁くミルディアに一礼して、ラドルフは部屋を出ていった。いよいよ時代が動きだす時が来ている。
「今のうちに、パレイゼの顔を見ておきましょうか……あの男がわたくしにつくというなら、その扱いを考えてやってもよいのですが」
◆◆◆
王城の地下牢。美しいゲリア城だが、牢ともなればその在り様はまるで違う。その薄暗さ、鼻につくかびの臭い、ひんやりと冷たい石の壁が閉塞感を抱かせる。
元々ゲリアは古代からの遺跡の上にある街だ。この牢も、遠い過去に実際に使われていたものがまだ残っているのだった――古くなった城を建て直した際に、此処を残したままにしたのだ。現在では他に刑務所が作られているため此処が使われることは滅多になかった。そもそも貴族の生まれでこのような劣悪な環境の場所に閉じ込められること自体が少ない。パレイゼはそのレアケースを身を持って体感していた。
厳重に鍵をかけられた檻の中で鎖に繋がれ、一定の距離以上は動けないようになっている。鍵は看守が管理していて、食事は一日に二度与えられるが、腐りかけのパンと水くらいのものだった。
ある意味貴重な体験だ――パレイゼは思った。本来ならば、罪を犯したものだけしか味わうことのないものだ。
静かな牢獄の中で、することもなく、ただ過ごす。元々特別体力があるわけではないから、果たして何日耐えられるか。こうして捕まっている間に、外は一体どうなっているだろう――果たしてネビューリオは無事でいるだろうか。
パレイゼが思考に沈んでいたその時、不意にカツカツと響く音がした。――足音だ。誰かが、此処へ向かって降りてくる。
何か話す女の声がした。看守がそれに答えているが、何を言っているのか詳細までは聞き取れなかった。だが、降りてきた女の足音は徐々に大きくなり、間もなくしてパレイゼの前に現れたのは血のような深い真紅のドレスを纏ったミルディアだった。
「ご機嫌はいかがかしら、パレイゼ・リード」
「……これはこれは、ミルディア殿下。わざわざこのような場所に足を運ぶ暇があるとは」
パレイゼが絞りだすように声を出せば、ミルディアはふっと笑った。場所が場所でなければ美しく見えたかもしれないが、今のパレイゼには毒でしかない。
「お前を此処から出してやってもいいわ」
「ほう……此処へ入れたのはあなただというのに」
見に覚えのない罪を着せられて投獄されたのは、全てミルディアの命令によるものだ。パレイゼは、自分が疑われているからではなく、自分を政治の場から追い出すためにしてやられたのだと悟っていた。全て、目の前にいるこの王女がやったのだと、直感的に理解していた。
ミルディアは何でもない世間話でもするように、実に淡々と言った。
「お前には冷静になって考えてもらわなくてはならないからよ。此処なら頭が冷えるでしょう」
「冷えるのは心です」
「でも、余計な耳のない場所といったらここが一番だとは思いませんこと?」
彼女の言うとおり、此処にはパレイゼがいるだけで、他には囚人は誰もいない。看守はミルディアにとって都合がいい相手なのだろう――それを考えれば、誰かに聞かれたくない話をするにはこういった場所のほうが都合がよい。
パレイゼは、一つゆっくりと息を吸って、確信を持って言った。
「メーフェ半島へ侵攻なさるおつもりか」
「あら、流石賢者と呼ばれるだけのことはあるのね」
ミルディアはそれをあっさりと認めて、「どこからそれを知ったのかしら」と首を傾げた。
「考えればわかることです……あなたはグレネの血を引く女だ。グレネ家が古い時代に暮らしていたメーフェに執着があっても何ら不思議なことではない。大方、よその国から軍事技術を得て、私設軍隊でも作るおつもりでしょう」
「私設軍隊? まさか――国軍よ。この国はわたくしのものになるのですからね」
それがわたくしのために動くものであっても、と彼女は続けた。
「煩わしい人間どもを別の人間から買った兵器で徹底的に破壊する。これほど愉快で、素晴らしいことはないでしょう。人間がいなくなった後の土地はそのままわたくしたち妖精のものになるのです。素晴らしい繁栄の未来がくるわ」
理想を語るミルディアを前にして、パレイゼは頭痛がするような気分がしていた。目の前にいる王女は、自らが王となるつもりでいる――そうして国を動かして恐ろしい望みを叶えようとしている。それを止められるだけの手立てが、今のパレイゼにはない。
「それは、人間への復讐ですか。それとも、レテノアの在り方に、不満を持っておいでか」
「どちらでもいいでしょう。お前もわたくしを支えるために尽力するというのなら、良い待遇を考えてやってもよいのですよ」
ネビューリオからわたくしに乗り換えるのならね――それはすっかり絆されてしまいそうな、ひどく甘美な猫なで声であった。パレイゼはぺっと唾を吐き捨てた。
瞬間、王女の表情が消えた。美しい顔に笑みはもうどこにも見えず、いっそ氷にも似た冷たさだけがそこにある。
「そう――答えはわかったわ。首を刎ねられる日を楽しみに待ちなさい」
ぴしゃりと言い放ち、踵を返して遠ざかる赤いドレスを見送って、パレイゼは項垂れた。
「何が栄光を掴む、だ……」
王女が去った後の、静かな牢獄で独り言つ。かつて予言で栄光を掴むと言われたが、今の彼は反逆の嫌疑をかけられ、鎖で繋がれた囚人でしかない。近いうちに首を刎ねられることになるのを待つだけの、惨めな末路だ。予言というものは、どうやらあてにはならないらしい――。