第二十九話
紅葉の美しさより風の冷たさが目立つようになった頃、レテノア国王は歴史の舞台から降り、その人生の幕を下ろした。
国王の葬儀は盛大に行われた。魔界貴族は国境警備の任務のため弔電や花で済ませているが、妖精の貴族たちは国中から集まって王の死を悼んだ。
ネビューリオは王女として、一番王に近かった存在として、喪に服す黒い衣装を纏って静かに涙を流していた。だが、もう彼女の涙は届かない――妖精の涙は生きたものの傷は癒しても、死んだものを呼び戻すことはできない。
姉であるミルディアもまた、黒いドレスに身を包んでいた。ネビューリオの悲しみを和らげようとするかのように、優しげな手つきで妹の肩を撫でる。
「さあ、お父様とお別れをして」
姉に促されて、ネビューリオは一歩前に出た。目の前には棺がある。そこで父であるレテノア王が眠っていた。永久に覚めることのない眠りだ。
彼女にとって父とは優しい存在だった。イースイルやミルディアに対しては厳しく接していたこともあったようだが、末の娘であるネビューリオに対しては最早溺愛しているというほうが正しいほどに甘かった。
愛されている自覚はあった。ネビューリオは母とよく似た顔立ちで、妖精として人を癒す才能に人より長けていたというのも、父に気に入られたのだろう――と彼女は思っている。特にイースイルがいなくなってからは、ネビューリオに対してより甘くなり、国王の代理さえ任せるほどだった。
それはネビューリオにとってはプレッシャーでもあった。危険だからと外へ出されることもなく、姉やパレイゼの助けを借りてようやく形になるような頼りない王代理だけれども、それもまた父の愛の結果なのだろう。それを疎ましく思うようなネビューリオではなかった。今はただ、悲哀だけが胸に満ちている。
「その魂がよき道に進むように」
棺に白い百合の花を添えて、祈りを捧げる。ずっと献身を続けてきたが、それは実を結ばなかった。至上の妖精などと謳われても、救いたい者一人救うことができない――それがひどく悲しかった。父は彼女の目の前で横たわり、二度とその目を見開くことはないのだ。
ひととおりの祈りを終えて、彼女が父の棺から離れようとしたその時だった。視界の端に、黒いローブの人物が見えた。
その姿が気にかかって、視線をそちらへ向けた。だが急に動こうとしたせいで足元がふらついてしまった。ちょうどそれと同じようなタイミングで、何か大きな音が聞こえた。乾いた破裂音のような――。
「ネビューリオ殿下!」
パレイゼが叫ぶ声が聞こえる。ネビューリオは恐る恐る、父の棺を見た。金の装飾が施された豪奢な棺に、穴が開いていた――そこに埋まっていたのは、鉛である。それが何か、ネビューリオは知らなかったが、推測はできていた――以前ロズが使っていたような、銃の弾丸である。
「どうして、こんな……」
「殿下、ここは危険です。こちらへ」
いつの間にか、すぐ傍まで来ていたパレイゼに半ば引きずられる形で、ネビューリオは棺から離れる。恐怖のせいか心臓が壊れそうなほど痛い。王女を撃とうとした者を探そうと、葬儀の場からは静けさが消えてしまった。国王を天国へ送りだすどころの騒ぎではない。
ネビューリオはふと後ろを振り返ったが、先程見かけたローブの誰かの姿は、黒い喪服の集団に紛れたのか見当たらなかった。彼女の視界に映ったのは、喧騒の中を飛び立つ烏の一羽だけだった。
◆◆◆
魔王城の城壁の建設がおおよそ完成に近づいてきた頃である。
ロズはイースイルと共に、クロヴィスとその妻シャルロッテを訪ねて魔王城を訪れていた。ある程度やることが片付いてくると、クロヴィスは新たな魔王として落ち着きを見せ始めていた。まだまだ新参の魔王であり、烈風魔王の子という印象が強い状況だが――ようやく父を喪った悲しみから立ち直り始めているらしいクロヴィスは、目的あって訪れた従妹たちを快く出迎えた。
ロズたちの目的は無論国境警備の強化に関する相談だが、もう一つ――此処でオーウェンの話を聞くためでもある。情報共有は効率よくしたほうがよい。聞かせておきたい相手がいるなら同席するのが一番だ。
果たしてオーウェンはその夜、いつものマントを翻し、魔王城に参上した。オーウェルの森の主にしてレテノアの魔物を総べる魔界伯爵に相応しく、その態度は堂々としたものである。その傍には黒い烏が二羽控えている。
「ご報告いたします。悪い話と薄暗い話がございますが、どちらのほうが先にお聞きになりたいか」
ロズは「どっちでもいい」と言った。同席していたイースイルやシャルロッテも特に何を言うわけではなかったが、クロヴィスは「悪い話を先に聞こう」と言った。
「それではお話いたしますが――まずは悪い話です。本日午前のレテノア国王陛下の葬儀の折、何者かがネビューリオ王女殿下を暗殺しようとしました」
「なんだって!?」
それに一番反応したのはイースイルだった。思わずといった様子で椅子から立ちあがり、その際手をついた机が揺れた。当然だ――彼にとって最愛の妹が狙われたとあっては冷静でいられるはずもない。ただでさえ、国王の訃報を聞いてもその場に駆けつけることができず悲しみを飲み込んだばかりだというのに、その情報は彼には応える。
「イース」
「あ……す、みません……」
ロズが声をかけてもまだ声は震えている。オーウェンが「ご安心ください、王女殿下は無事でございます」と宥めるように言った。
「犯行は未遂に終わりました。怪我もなく、すぐにフェルマ公爵が誘導して避難なされたようです。この烏が大急ぎで飛んで戻り、知らせてくれました」
オーウェンが右側にいた烏を指す。それを聞いて、イースイルはようやく冷静さを取り戻して息をついた。
「そう――か……よかった」
「使われたのは銃です。また何者かがどこかから狙撃しようとしたようで――現在、我が配下の魔物が犯人の捜索に当たっております。とはいえ、騒ぎが大きすぎます。簡単には見つからぬやもしれません。この事件のこと自体は、明日、明後日のうちには全国紙のトップニュースになっているかと思いますが……」
それがニュースにならないはずはない。何らかの形で国中にその話題が伝わるはずである。レテノアではテレビがまだあまり普及していないため、ラジオか新聞辺りで話が出るに違いなかった――何の情報規制もされなければ、だが。
「悪い話はわかった。それじゃ薄暗い話ってのはなんだ?」
ロズが続きを促すと、オーウェンが頷いて続きを話す。
「グレネ家が管理している王都の屋敷に黒いローブの連中が入っていくのを確認しました。ミルディア王女の飛空船を使ってミュウスタットからやってきている人間たちです」
「そこまで調べてくれたか。証明はできるか?」
「真実のみを映し出す魔術品の鏡が、彼らが見たものを証拠として見せてくれますとも」
オーウェンと烏たちが自慢げに胸を張るような仕草をした。だが、それは誇っていい仕事だ。わざわざ魔術品に頼らずともカメラの使い方を覚えればいいだけのような気もするが、人間の道具に慣れているロズとそうではないオーウェンたち魔物とでは少々感覚が違っている。
「人間たちは何かを王都に運び込んでいるようです。ミルディア王女が上手くそれを隠しているため、我々魔物の他は誰が気づいているか……フェルマ公爵はもしかすればご存知かもしれませんが」
「パレイゼは賢者ですものね。でも……少し、心配でしてよ。彼は周りのことはよく見ているけど、自分のことはあまり気にしないところがあるから」
シャルロッテが言った。それは実感の籠った響きである。
(そういや王都で一波乱ある、って言ってたんだったか……)
電話でロズが伝え聞いた一波乱とは、果たして何を指しての言葉だったのだろうか。ネビューリオの暗殺未遂は充分波乱と言えるが、この後のことを含めて言っていたとしたら、今後もっとずっと大きな事件に発展していく可能性も否めない。
オーウェンの報告はまだ続いた。ミルディアにはまだ謎めいたところがあるという話だった。
「ミルディア王女殿下は時折王都から姿を消しておられる。普段からソリルリザートへよく出向かれているようですから彼女がいなくなっても王都で騒ぎにはなりませんが、ときどきその行方がわからなくなります。隠れてどこへ行っているのか――想像はつきますが」
「彼女もミュウスタットへ出向いている――か」
「飛空船があればどこへでも行けます。外国の転送の魔術なども応用すれば時間をかけずに遠方へ移動できましょう……ロズ姫様、例の魔術品の件は遅くなっても構いませんからきちんとご用意願います」
「水の上を歩ける靴と燃えないグローブだろ。待ってろ、色々落ち着いた頃にはしっかり納品してやるぜ」
労働には正当な報酬があってこそだ。その点では最近はあまり魔術品制作に時間をかけていられないロズだが、オーウェンの希望を可能な限り反映する意思はある。
一通り話を聞いたクロヴィスは、口元を指で触って何か考えるような仕草をした。これまでロズたちが調べてきたことや推理したことは伝えてあるのだ――思考をまとめる時がきている。
「ミュウスタットのことはミュウスタットで解決してもらいたいところだが、色々あるね。とりあえずオーウェン、まだ魔物たちを王都とミュウスタットから引き上げないでくれたまえ。いざというときすぐ動けるようにしておいたほうが良いだろう」
「かしこまりました」
「今まで聞いた話が全部本当なら放っておいたら大変なことになるぞ。レテノア数千年の歴史の中でも特にひどい争いが起きる……何とか阻止できればいいんだが、悪いことを考えていそうなのが王女様とあっては僕たちは手を出しづらいな」
妖精と魔族はあくまでも対等な協力者という立ち位置でなければならない。それが崩れてしまっては、最早レテノアの在り方は成り立たなくなる。協力によって繁栄したのだから、それを取り払うわけにはいかないのだ――血が混ざりあったために衰退の元にもなっているけれど。
「ルクラス卿が上手くやってるといいけどな……」
ロズの脳裏に浮かぶのはあの飄々とした隣国の騎士だ。騎士という身分のわりには上に話を通せるらしいが、彼がどれだけ西進派の動きを妨げてくれるかは今後の方針に影響を与えることになりそうだった。
「姫様たちはガイストの息子にお会いになられたのでしたか」
「まあな。イースの友達っつーから話聞いたけど、変わり者だったぜ」
「成る程。ガイストもミュウスタットの人間にしてはタフで種族の違いに寛容でしたから、ある意味では変わり者でございました。きっと似たのでしょう」
オーウェンがしみじみと呟いた。過去を懐かしんでいるのだろう。魔族や魔物は長く生きるものだが、それを思うと人間の生とは短すぎるかもしれなかった。尤もロズやイースイルは前世でそれを経験しており、せいぜい長くて百年の寿命を短いとは感じていないのだが。むしろ妖精や魔族が長く生きすぎているくらいかもしれない。
――長く生きているからこそ、怨恨もいつまでも残り続ける。
記憶の風化が緩やかであるということは、火種が消えないということだ。ミルディアを警戒しなければならない理由もそこにある。彼女がグレネ一族のために戦争を考えているのなら、どうにかしてその被害を抑える手段を講じなければならない。出来る限り、戦争になるより前に対策を取ってしまいたい――。
「考えても仕方ない、か。僕たちはどうせ先手は取れないんだ――やれることにだけ集中するしかない。各地の魔族たちに声をかけて、有事に備えてもらおう」
「俺たちの話聞いてくれて、恩に着るぜクロヴィス」
「本当に……ありがたいことです。王が死んだ今、ミルディアはより大胆に行動してくるかもしれません。彼女の枷になるものが一つ減ったわけですから……ご協力痛みいる」
「数少ない僕の血族とレテノア王子の頼みとあらば、ね。尤も、烈風魔王の子としか思われていないような僕じゃ頼りにはならないかもしれないけど」
クロヴィスはそう言ってゆるく笑みの形に唇を歪めた。新たな魔王として、今度は父と比べられることに気が付き始めたのだろう――それも魔王となった自覚だろうか。
それがあるなら、充分に頼れる魔王だ。元々魔王の補佐はやっていたのだ。経験などすぐに補われるものだ。暫くは父親の影が付き纏うだろうが、気にするほどのことではない。
その日ロズとイースイルは魔王城に泊まった。翌日の新聞に書かれている記事のことなど夢にも思わず――。
――衝撃! フェルマ公爵・国家反逆罪の容疑で逮捕!