第十八話
ゲリアの市中に害獣が現れたことは大事件だった。それも女神祭の真っ最中、人が多く集まる中で怪物が現れたというのは「そんなこともあった」と無視していい話ではなかった。害獣が暴れたことで建物はいくつか倒壊しているし、混乱の中で上手く逃げることができず大怪我をした者もいる。
ロズは害獣がいなくなった後、すぐに戻ってネビューリオを追いかけた。王女は無事にフェルマ邸に辿り着いており、そこで彼に事情を話していた。ちょうどイースイルとは入れ違いになったようで、ネビューリオが兄のことを知ることはなかった。パレイゼもイースイルの意を汲んでそのことをすぐさまネビューリオに打ち明ける気はないようだった。
その後のことは忙しなかった覚えしかない。ロズは事件の事情聴取のために呼び出され、危険な武器を隠し持っていたことやネビューリオを連れ出したことを咎められた。害獣の行方については他にも何人もの証人が現れたが、わからないままだ。そもそもどうして突如現れ突如消えたのか、その原理が不明だった。
結局ロズが解放されたのは、ロズが罪に問われていると知ったネビューリオの言葉があってからだった。
「ロズがわたくしを連れ出したのではないわ。わたくしが無理を言ってロズを連れまわしたのよ。彼女に罪はないでしょう」
「ですが、ベルク公爵はこのような武器を隠し持ち、あまつさえネビューリオ殿下を危険に晒したのですよ」
「戦士が武器を持ってはいけないという法があったかしら? それに、わたくしはロズに害獣を追い払ってと言ったのよ。充分に務めは果たしてくれたはず」
「殿下……しかし」
ネビューリオ王女の言葉に戸惑う臣下たちに対し、ネビューリオに付き従っていたパレイゼが言葉を重ねた。
「まあ、考えてもみたまえ。ベルク公爵は魔族なのだ。それも魔王の姪ではないか。魔族は血なまぐさい戦いを引き受けてくれるレテノアの守りの要。優秀な魔族の戦士を罰することばかり考えず、もっと実りのあることをするべきであろうよ。他にやることは山とあるのだから」
現れた害獣の目撃者は多かったが、肝心の害獣がどこからやってきたのか、どこへ消えたのかは謎のまま。そのうえ先日から怪しい人物たちが目撃されている。時期が時期だけに、もしかしたら関連があるのかもしれない。調べることは山積みだった。
こうしてロズは追及から逃れた。ネビューリオは目を伏せた。
「ごめんなさい。わたくしの我儘のせいで、厄介事に巻き込んでしまいましたね」
「いえ、そのようなことは……むしろ私のことで御手を煩わせてしまい申し訳ないと思います。ありがとうございます、リオ様、それにフェルマ公爵」
「ロズのことは大事にしたいのです。わたくしを助けてくれる手だから――と言ったら、打算的で可愛げがないかしら?」
ネビューリオが言った。彼女もまた間近で害獣を見て、恐ろしかったに違いないが、気丈だった。気弱なようでいて、どうしても言いたいことがあれば躊躇わないところがあるのかもしれない。そうはっきり言ってしまうところは時と場合によっては問題になりそうだが、ロズは結構好いている。裏がなくてさっぱりとしているのは気持ちがいい。
「今回はよくないことが重なりましたが、ネビューリオ様にとって良い勉強になったでしょう」
パレイゼが言った。シャルロッテと同じで表情はほとんど動かないが、少しだけ目が細められたのはロズにもわかった。
(どう見ても心配せんでも仲良さそうだ)
ネビューリオはパレイゼからつまらない女と思われているのではと心配していたが、見た限りでは彼がネビューリオに向ける視線は愛情に満ちている。どちらかというと慈愛に近いところはあるかもしれないが、決して疎ましく思っているようには見えない。この辺りのことはあまり口を挟まないほうがよさそうだ。放っておいても何となく上手くいきそうな予感がするのだった。
ネビューリオとパレイゼはあれこれと指示を飛ばさなければならないことが多いので、軽く挨拶をして別れる。その際、パレイゼはロズに声をかけた。
「本当ならゆっくり話をしたいところだったのだが残念だ。時にベルク公爵、あなたはお電話はお使いになられるか」
「え、あ、ああ。ベルクの城には設置していますが」
「ではちょうどいい。文明の利器は活用しなくては。折角レテノアに技術者を招いてダイヤル式の電話を使えるようにしたのに、使う機会があまりなかったのでね」
そして彼は封筒に入った手紙を出した。恐らく電話番号が書いてあるのだろう。ロズはそれを受け取り、やるべき仕事へ戻っていく二人を見送って、ロズは静かに退室した。
◆◆◆
今回のことで、女神祭どころではなくなってしまった。本来三日目の茶会や音楽会があるはずだったが、この慌ただしい状況で悠長なことはしていられないのだった。
不審者の目撃情報に害獣事件。王城の警備はより厳重となり、城をよく知っているイースイルでも侵入しにくくなってしまった。潜り込む計画を立てていたが台無しだ。ロズも電話番号を手に入れたとはいえ目当ての相手と思う存分話すというわけにはいかなかった。
「名残惜しいですね。私は……結局何ができたのか。王城への侵入経路を考えていたのに、無意味になってしまった」
「わかったこともないわけじゃないさ」
ロズは政治の中心にいる者たちがどのような人物なのかある程度わかったし、イースイルもパレイゼに会っているのだ。最低限やりたいことはやれただろう。欲を言えばもっと他にも探りたいことはあったが、これからでも方法はないわけではない。
柊館を出発する準備が整い、館の外へ出る。まだまだ調べ足りないことばかりだが、こればかりはどうしようもない。
柊館でのあれこれは、ミルディアが取り仕切っていた。事件の報せを聞いてヒステリーを起こした貴族もいただろう。そういった相手の対処は骨が折れたはずだ――笑顔に疲れが滲み出ていた。
イースイルを馬車の中に隠して、ミミに一角獣の御者を任せる。魔物と対話するのは魔物が一番上手いのだ。獣の言葉は獣にしかわからない。
ここでもう一度ミルディアに挨拶をしておかなくてはとロズが思ったところで、向こうがロズを見つけて、召使を引き連れて声をかけてきた。
「もうお別れなんて寂しいわ。もっとお話したかったのだけど、仕方ないわね」
「……ええ、私ももっとゆっくりしていきたかったですよ。でもそうはいかないようだ」
「ことが落ち着くまでは――ね。そうだわ、例の資料、用意ができておりますの。お持ち帰りになって」
ミルディアが言う。召使が何か大きな封筒に入ったものを差し出した。工事の資料だ。
「じっくりと目を通させていただこう」
「ええ、そうしてくださいな。色よい返事を待っています」
ミルディアはそう言って、ロズに笑いかけた。疲労を隠しきれない顔だった。
(――ふむ)
ロズはミルディアに会釈をして、言った。
「ミルディア殿下もお気を付けて。黒いローブの者たちや害獣が襲ってこないとも限らない」
ミルディアはそれを聞いて一瞬目が泳いだようだった。ハ、と一つ呼吸を置いてから、彼女は答えた。
「そう、ね。注意深いことは悪いことではないもの」
ご忠告ありがとう、と言い残し、早々に切り上げて王女は去った。ロズは馬車に乗りこみ、ミミに声をかけて柊館を出発した。
しばらくすれば、幾何学模様の装飾の街並みは途切れて、ゲリアを覆う城壁の門が見えてくる。これを抜けてしまえばもう都市の外だった。ここへ来て、黙っていたイースイルが沈黙を破った。
「……ロズさんは、ミルディアのことを気に入っているみたいですね」
不服そうな声だった。納得いかない、不機嫌そうにも取れる声色だ。馬車そのものは外に音が漏れないように魔術がかけられているから、ミミに話が聞こえるということもないだろう。ロズは顎のあたりを触りながら返事をした。
「良い女だとは思うぜ。グラマーだし、鼻が高くて美人だしな。謎めいた女ってのはそれだけで綺麗だ」
「彼女は危険です」
「わかるよ。話してるだけで呑まれそうだった」
舞踏会の日、ミルディアとの対話はまるで深い沼にでも引きずり込まれそうになる、そんな感覚がしたものだ。あれを人を魅了するというのかもしれない。国のためになることを語り合っているはずなのに、ロズは底知れなさを感じた。
イースイルは何ともいえない顔をしていた。はっきりとは表せない。しかし不満は抱えている。気に食わないのに我慢している、その顔は。
「ロズさんは」
「うん?」
「ああいうのが好みですか」
――寂しそうなのだ。
ロズは瞬きして、見間違いかと思ってもう一度イースイルの顔を見た。だが間違いなく、その顔は不満げで、ロズの様子を窺うように時折目線を寄越す。そして何より寂しさを主張するように、眉を少し寄せていた。
「妬いたのか?」
「やっ……や、ちが――違わないですけど、な、な、な……!」
不満の顔は一瞬にして朱に染まり、イースイルは面白いくらいに体を震わせながら、手で顔を覆った。
ロズは不思議と愉快な気分がして、唇をにやりと歪めてしまうのを抑えきれない。幾ら隠そうとしても無駄だ。いくら顔が見えなくとも態度からして露骨すぎる。
「そうか、俺のことそんなに好いてくれてたか」
「……ロズさんは男性だった記憶があるんでしょう? でも私は背は高いし胸はないし、顔の作りも声の質も骨格も、全部男のものだ。あなたに好かれる見た目じゃないと思う」
それを言われれば確かにそうだった。ロズは元々男性と――というよりは、誰とも恋をするつもりはなかったのだ。イースイルとの関係も、本来は他の男との結婚を避けるために作ったものだ。互いに利益があるからこそ、伴侶としてやっていくのに、今は恋人という立場に収まっているだけで。
イースイルが嫌いなわけではない。むしろ気に入っている。自分を隠さなくてもいい、前世のことすらも話ができる。初心なところは可愛げがあるし、国のために真剣になれるところも良い。歳は同じだが、見守りたくなる――とは思っている。そんな相手だから、結婚という形で傍にいても平気だろうと感じたのだ。
この婚約は――恋人関係は契約だ。良い友人になれると思ったからこそのものだった。けれどイースイルにとってはそれだけではないようだった。
妬いたのかという問いに違わないと言った。嫉妬しているのだと認めた。他の誰かを気にかけることが嫌だと、好かれたいのだと伝わってくる。
――好意を向けられている。
それはロズにとって嫌なものではなかった。どのような形であれ、嫌われるよりは好かれるほうが良い。前世では女性だったというイースイルが女の姿の自分にそこまで惚れこむとは予想していなかったけれど、悪い気分はしない。見た目こそ精悍な青年だが、そんな彼がロズのためにあれこれ思い悩んでいるというのは少しばかり哀れで、愛おしくも思えた。
「あんたそういうとこ結構可愛いと思うぜ」
それが恋愛感情かどうかまでは、ロズ自身判断がつかないところではあったが。
イースイルは顔を隠す指を少しだけ開いて、その隙間からじとりとロズを睨んだ。
「嬉しくありません……女の記憶を思い出したって、私とて男として育てられているのに……」
「可愛いってのが嫌なら、俺にかっこいいと思わせてくれりゃいいのさ。男の記憶があったって、俺だって女として育てられてはいるんだぜ」
ロズがそう言って笑うと、イースイルはようやく手をどけた。まだほんのりと頬は赤かったが、口許は緩んでいた。不機嫌はどこかへ消えたらしい。
「そういやイースは俺の見た目好きなのか」
「……言わせたいんですか?」
「参考までにな」
彼との契約においてそれが何か意味を持つものなら、より良い関係を保ち続けるためにロズとて多少は気を遣うつもりがある。
イースイルは渋々、といった様子で言った。
「好きですよ。いつもの、活き活きとした自然なままのあなたが」
「……あんた、わりと恥ずかしいこと言うな?」
「言わせておいて何を今更。でも、照れているロズさんは可愛いですね」
「仕返しかよやめろ」
その時、御者をしているミミが窓を叩く。
「どうかしたか?」
「あの……クロヴィス様の使い魔ですの。何か急ぎのご用事みたいで……」
蝙蝠のような姿をしたクロヴィスの使い魔は、何か黒っぽい封筒を持っていた。これは魔王の使うものだ。クロヴィスの使い魔が何故――ロズが不思議に思いながら封を切る。中の便箋を開いて、ロズは言葉を失った。
そこに記されていたのは、烈風魔王テオの死の報せだった。