プロローグ2
ゴーメーの神殿は国境に近いテゾー山麓にある。辺りには豊かな森があり、森の中は害獣と呼ばれる怪物たちがうろついている。詳しい生態は未だ謎が多いが、魔物が病にかかって変質し怪物となったものを害獣と呼ぶ。害獣たちは歪んだ存在であり、他の正常な生き物を襲うのだ。
神殿自体は結界に守られているため恐ろしい獣は入ってこないようになっている。具体的にどのような仕組みになっているのかは外部の者には明かされていないが、ともかくその結界のおかげで神殿は安全な場所となっている。
厳粛な雰囲気の中、イースイルは神殿に足を踏み入れた。石造りの神殿には精霊の像がいくつも並び、神殿の一番奥にゴーメーの巨像があった。祭壇には燭台と季節の花々が飾られており、ぼんやりとした灯火の輝きが辺りを照らしている。床は一面豊かな森を表す緑色の絨毯が敷かれていて、何人もの神官たちや、警護の兵士たちが立っていた。
一歩一歩前に進み、祭壇の前で足を止める。レテノアの大地の恵みに感謝し、国家の安寧、未来の繁栄を祈願する。何も難しいことではない。一年の初めの挨拶や季節ごとの祭事と同じで、静かに胸に手を当てて祈りを捧げる。礼拝が終わると、神官たちが成人の祝いとして、色々と言葉を投げかけてきた。
大人しくその言葉を全て聞き、最後に白い衣装の巫女がやってきた。予言の魔術師だ。若く見えるが、そもそも魔族や妖精は体が一定の歳を迎えれば死期が近づくまで老いないものなので、正確な年齢はわからない。
「つつがなく成人の日を迎えられましたことを心よりお祝い申し上げます。つきましては、これより殿下の未来に関する予言をお伝えいたします」
彼女はあまり抑揚のない声で言った。事務的なように感じるのは、これが儀式だからだろうか。イースイルは一言も聞き逃さないようにと彼女の言葉に集中した。
――ざわり、と何か音がしたような気がした。
「イースイル・ロラン・ラペイレット殿下。あなたは生涯王となられることはないでしょう」
「な、に――……?」
「何故なら――」
背中がピリピリするような緊張。巫女がさっと衣装の長い袖からナイフを取りだして突き立てようとする。「イースイル様!」と叫ぶ騎士の声が聞こえたのとほぼ同時、咄嗟に身を翻してそれをかわす。首のすぐ横を銀に煌めく刃が通りすぎ、それが引き戻されるより早く身構える。
「――ここで死ぬから」
巫女の言葉を皮切りに辺りの神官や兵士が剣を取り、槍を持ってイースイルに襲い掛かった。
「死ね、イースイル!」
四方八方から襲い来る武器を体を捻って避け、持っていた護身用の剣で防ぐ。ガチンと音を立ててぶつかる剣と剣、王族としてそれなりに剣術は習っているが実戦で使うことなど滅多にない。敵には筋力を増強する魔術の使い手でも交じっているのか異様なまでの力で押してくる。何度か武器がぶつかり合い、やがて剣が折れたが今度は騎士の剣がイースイルを守った。
「お逃げください、殿下!」
イースイルについてきた騎士たちが庇っている隙に、足がもつれそうになりながらも凶器を振りかざす神官たちのいる神殿を抜け出す。
「こちらへ」
護衛として傍についているのは今一人だけである。金属のぶつかる音が鳴り響く神殿を後に逃げ出そうとすると、外にも武装した者たちが待ち構えており武器を向けてくる。
「逆賊どもめ!」
騎士の剣が敵を薙ぎ払う。神殿の傍に待たせていた一角獣に乗り、イースイルを乗せて鞭を打った。力強い足で走り出すと、後ろから敵が馬を走らせて追ってくるのが確認できた。
足の速さや逞しさで一角獣がそう簡単に馬に負けるはずはないが、二人も乗せていると――騎士の鎧の重さもある――獣にも疲れが見える。追手は多い。振りきるには無理があった。恐らく最初に神殿から自分を逃がしてくれた騎士たちも無事ではない。彼らの最後を想像してしまうが、イースイルにはそれをゆっくり悼むだけの時間がなかった。
城への道は敵に塞がれていたので、仕方なくテゾー山のほうへ向かう。木々が生い茂る森の土は柔らかかったが、次第に山道となり、地面は固くなっていく。
後ろからは矢が飛んでくる。ほとんど当たらなかったが、一本が一角獣の足に刺さり、大きな咆哮と共に獣が倒れ、イースイルも騎士も振り落された。さらに降り注ぐ矢が獣の尾に、体に、首に突き刺さり、夥しい量の血が吹き出して地面を濡らした。イースイルが慌てて体を起こし治療ができないかと様子を見たが、つい先ほどまで乗ってきた獣は既に絶命していた。
「駄目か……」
「殿下! お怪我はございませんか」
「私は大事ない。それより追手がくる、逃げるぞ」
「……いえ、ここは殿下お一人でお逃げください。私が足止めをいたしますので――」
ほとんど相談などすることもなく、騎士は飛び出していった。二人で逃げるべきではないかと思った意見など聞くことすらしなかった。イースイルは仕方なく、その場を騎士に任せて岩に隠れながら山道を進んだ。背後で何か肉が裂けるような音がしたが、振り返りはしなかった。
こうなってしまっては後は自分が生き延びることに集中しなければならなかった。とにかくひたすら走る。走る。走る。自分を庇って時間を作ってくれた騎士たちのためにも、レテノアの王子として生きなければならない。それは責務ともいえる。踏み台にした命の上に立ち、命によって築かれた道を進んでいるのだ。
焦りと緊張、そして慣れない山道を走り抜けることからくる疲労がイースイルを追い詰める。安全で神聖な神殿で自分の成人式が執り行われていたはずが、突如としてそこは危険な場所に様変わりした。状況からしてイースイルを消したいと考える何者かが罠を張っていて、それにまんまと引っかかったということは考えずともわかる。そしてその何者か――神官たちを買収したか、強引に息のかかった者と入れ替えたか、どちらにせよそれができる人物――相応の権力を持つ誰か。その正体に心当たりがないわけではなかった。だが、どうしようもない。
この後どうするか、どうやって逃れるか――今はそれだけが重要なことだ。ろくに働かない脳を必死に回転させながら、イースイルは走った。
◆◆◆
そうして冒頭へ至る。逃げて、逃げて、逃げて、疲れ切った体を叱咤して慣れない山道を走った先で、岩陰に隠れた。何もかもを失った今、あるのは自分の命だけといってもいい。
追手がすぐ傍にいる。鼓動が速くなる。胸を押さえつけるようにしながら隙を窺う。心臓の音までも外へ聞こえてしまいそうな錯覚がする。
兵士たちが目を向けてこないうちにとイースイルが一歩踏み出すとその気配に気づいた兵士が声を上げた。
「いたぞ!」
「追え!」
見つかった――イースイルは再び走り出した。迷路のようになっている岩と岩の隙間を通り抜け、背後の恐怖から逃げる。足音が途中で少なくなり、二手に分かれたらしいことを知る。振り返らない。振り返っている暇はない。
イースイルは自分がどこを走っているのか、もうよくわからなかった。大きな岩は敵から身を隠してくれはしたが、自分の視界も遮った。ただでさえ薄暗い時間帯である。ひどく視界が悪い。この先に何があるのかはっきりとしない。
「――!」
ぱらりと音を立てて、小石が落ちていく。イースイルはその場で足を止めた。崖だった。下は先程見かけた渓谷と続いているのだ。当然遥か下には水の流れがあるが、思わず息を呑むような、足がすくむような高さだ。冷たい風がイースイルの頬を撫でる。
それから間もなくして追手の兵士たちがやってきてイースイルを取り囲んだ。
「温室育ちの王子様でも、意外に体力はあるもんだな」
「よく此処まで逃げてこられたものだ。尤もここでもう終わりですが……」
じりじりと距離を詰められ、いよいよ死の恐怖が目前まで迫ってくる。死にたくはない――が、それでもイースイルは彼らに首を垂れて命乞いしようなどとは思わなかった。跪いてもそのまま首を落とされるだけだと直感していた。
「寄るな、下郎!」
イースイルがぴしゃりと言い放つと兵士たちは一瞬怯んだように足を止めた。剣を向けておきながら今更戸惑いがある様子を見せる。武器の一つも持たず、守る騎士もいないイースイルを斬ることを躊躇っている。誰かの差し金とはいえ、これから仕えるべき王となるであろう相手を斬る覚悟をしてきたはずの彼らが。
――やはり彼らの剣では死にたくない。ここで迷うような剣に斬られるくらいなら、ここから自ら身を投げたほうがましだとすら思った。そして――運が良ければ、あるいは。
「私を殺したいのなら、もっと上手くやるべきだったとお前たちの主に伝えるがいい」
静かに懐に入りこむように、警戒心を抱かれぬように近づいて、料理に毒でも混ぜればよかったのだ。そのほうが確実で、間違いなく死体を確認できただろうに。
イースイルが動き兵士たちが慌てて剣を持ちなおすが、彼らの間を通っていこうなどとは考えてはいなかった。崖に向き直り、一度だけ振り返って言う。
「私の命運は私のものだ。私だけがその行く末を決める」
勢いを付けて地面を蹴る。
そして、イースイルは崖を――飛び降りた。
その時、何か閃いたような感覚があった。地面から離れて空中にいるからなのか、背筋がぞわりとするような――脳髄の奥が揺さぶられるような、不思議な感覚だった。
(――何だ……?)
空中を落下し、勢いよく流れる水の中に落ちる。高所から水に叩きつけられた衝撃と、指先から内蔵まで凍り付かせるのではないかと思わせる冷たさが痛みとして体に突き刺さり、自分がばらばらになってしまうのではないかという幻想を抱く。しかしながら川は深く、幸いにも落下時に岩や水底にぶつかるということもなくどうにか腕も足も繋がっている。
どうにか酸素を得ようとしてもがくが、水の流れはあまりにも速く思うように泳げない。そもそも普段からあまり泳ぐような機会はなく、それこそへとへとになるまで走り疲労しきった体で、服を着たまま水の中を進むのはあまりにも難しかった。
(私は何か、大切なことを――忘れている)
体はそのまま流されていく。腕も足も言うことを聞かない。目に映るのは水の青、泡沫の白、夜へ至る黒だった。薄れゆく意識の中で、イースイルは理解した。
自分の中に突如として生まれた感覚は、感じたのではない。思い出したのだ。
(そうだ――私は一度、死んでいたんだった――)
やがて、彼の視界は闇に落ち、意識は埋没していった。
「おい……王子が落ちたぜ……」
「この高さじゃ、助からないだろう。仕事は達成だな」
「ああ……」
崖下へ落ちた王子の姿はもう兵士たちからは見えなかった。降りて確認することもできないが、生きてはいまい――そう判断した彼らは、剣を収めて来た道を戻っていった。
数日後、いつまで経っても戻らない王子を捜索するために特別部隊が結成され、テゾー山に派遣された。部隊が発見したのは血の惨劇があったことがよくわかる、黒ずんだもので汚れた神殿と神官や騎士たちの遺体だった。念入りな調査で王子の服の切れ端らしきものが近くの川辺で発見されたが、ついぞ彼本人は見つからなかった。翌年にはその捜索は打ち切られ、一体何故神殿が血で穢され、王子が姿を消したのか、その真実も闇に消えた。
王子の行方不明によって心労が祟ったのか、国王は病床に臥せった。病がちな王に代わってまだ子供であるネビューリオが表に立つようになると、パレイゼ・フェルマ公爵とミルディア姫がその補佐についた。しかしながら、王城に出入りする有力貴族たちが次々と不審死を遂げた――検死の結果毒殺の疑いが出ていた――ことにより、レテノアには不穏な空気が漂い始めていた。
そうして、二年が経過した。