第十七話
人々が怯えて逃げ惑う中、ロズはその中に暗い色のローブを纏った者たちがいるのに気がついた。
(ミミが言ってた不審者か――?)
その姿は目についた。彼らは周りが慌てている中で彼らだけが妙に冷静なように見えた。彼らが人々に紛れて去るのを止めようにも、この状況ではそれはできなかった。妨げが多すぎる。
ともかくネビューリオだけは守らなくてはならない。
ロズが拳銃を隠し持っていたことか、それとも間近で生き物を殺すための道具を見たせいか、ネビューリオは怯えたような目をしてロズの手にあるものを見つめた。だが、それでもこの状況を冷静に判断しようとしているのか、ネビューリオはひとつ深呼吸をして、務めて落ち着いた声で言った。
「ロズ。あの害獣を追い払ってください」
彼女自身も普段見ることのないであろう恐ろしいものを目の前にしているが、目を逸らすつもりはないらしい。僅かに肩が震えているように見えたが、それでもこれを見届ける気のようだ。
あの害獣を放置すれば被害は拡大する一方だ。だからといってあのような不審者がいる場所でネビューリオを置いていくことはできない。ロズはネビューリオを守る義務がある。
(それに、この子はイースの妹だ)
イースイルは彼女を王にしたい、と言っていた。だが、それ以上に兄妹として、彼女を想っているはずだ。ネビューリオが傷つくことがあれば、イースイルが悲しむだろう。ロズは彼のそんな顔を見たくはない。だからこそ先に彼女を逃がさなくてはならない。
「リオ様、あなたを安全な場所までお連れしてからです」
「その間にどれだけの被害が出るかわからないでしょう。わたくしは逃げるために民の屍を踏み台にしたくないわ」
お願い、と真剣な目で見つめられると、もう敵わなかった。この少女を曲げるのは無理だし、彼女のそういう考え方はロズは嫌いではない。
「すぐ対処に当たります。ですがリオ様は安全な場所に隠れているように。怪しい人物には近づかないようにして、速やかに避難してください。此処からだとフェルマ公爵のお屋敷が近いか……」
「そうね、彼なら信頼できる。……この場はあなたに任せるわ。早く、終わらせてね」
「――リオ様にゴーメーのご加護がありますように」
ロズはネビューリオを王城へ向かう表通りまで送りだして、踵を返してリボルバーを構えた。彼女を抱えて逃げるよりは、ネビューリオ自身の望みもあるのだから害獣を遠ざけるほうがまだ良いという判断だった。この状況で安全に逃げきれる保証はどこにもないが、害獣を迅速に始末しなければいけないのも事実だった。
(今使えるものは多くねえし――とりあえず、あいつの気を引かねえとな)
手元にある武器はリボルバーだけだ。装填されている弾こそロズが魔術品として作り上げた風の弾丸だが、その数も限られている。シリンダーに6発、他に予備の弾をいくつか持っているがリロードする暇を相手がくれるかどうか。王城や柊館に出入りするためのドレスを着ているからこそ武器を隠し持てたのだが、このドレスも動きにくい要因の一つになっているため、一つのミスが命取りになりかねない。
そしてこの街の中心部であのような巨体を撃ち落とすことはできない。あんなものが墜落してきたら、それこそ建物や周りのものが破壊されてしまうかもしれない。そうなった時の被害はどれほどか――とにかく広い場所へ誘導し、そこで仕留めなくては。
(害獣なら魔力に釣られてくれる……はずだ)
生星テルエにおいて、あらゆるものが存在することに対し、魔力というエネルギーが作用している。自然物は魔力炉を持ち、命を維持するための魔力を生み出し、消費する。害獣はその魔力炉に異常を起こし、存在を保てなくなって怪物化したものだ。元は魔物であることが多いが、正確なことはわかっていない面もある。害獣は自分を正常化させるために他のものの魔力を求めて、周りのものを襲うのだ。
ロズは魔術の腕前は人並みだが、魔力だけは余るほどある。疲れはするが、少しの間魔力を吐きだし続けても支障はない。やるべきことは決まっていた。
「こっちへ来なカラス野郎!」
体の中の魔力を循環させ、足に集中する。足の裏から魔力を放出させることで蹴る力を増幅する一種の魔術だ。思いきり地面を蹴ると通常ではありえない、建物よりも高い位置にまで跳躍する。ロズの魔術では空を飛ぶことはできなくとも跳ねることは容易い。屋根の上に上り、屋根から屋根へと跳び移りながら、そよ風を操って害獣の気を引こうと試みる。
魔力の籠った空気の流れに、害獣は反応した。街の外へ導くように風を送り続けると、ついに進行方向を変える。
(かかった……!)
興味さえこちらに向けば、少々荷は重いがどうにでもやりようはある。
(オッさんみたいな戦えるやつが一緒だと楽なんだが)
この場にいない者のことは嘆いても何も変わらない。ロズはまず真っ黒な翼のそれが何なのか確認しようとして、街の中心部から離れるように誘導しながら注意深く観察する。それは滑空しているより羽ばたいている時間のほうが長いようで、本体が翼に隠れてしまっているほど翼ばかりが目立つ異様な姿をしている。だがそれでも心臓は本体にあるのだ――ちらりと見えた本体は人と同じような大きさをしていた。
(いや……まさか)
人と同じような大きさ。それが人そのものに見えたことを、ロズは誤認だと思った。全て黒い色をしているから見間違えただけだ。人が害獣となる例は全くないわけではないけれど、それがこのような巨大な翼を持った例は今までにないし、そもそも大抵は害獣として堕ちる前に体が耐えきれず崩壊して死んでしまうのだから。
害獣の羽ばたき一つでさまざまなものが吹き飛ばされ、看板や街灯がなぎ倒されていく。ロズが懸命に魔術に集中しながら駆け抜けていけば、害獣の巨体は少しずつ街の中心から離れていく。ゲリアという大都市は広いから街の外までは連れて行くのは難しいが、広場はいくつかある。そこで決着をつけるしかなかった。
風に体を乗せるように、渡ってきた屋根を強く蹴る。すぐそばに公園が見えた。あの場所に叩き落とす。下からは害獣の羽ばたきに遮られて上手く狙えないので、それよりも上まで行かなければならなかった。跳躍だけでは少しばかり距離が足りず、ロズは地面に向けて銃を撃った。
風の弾丸の魔力と反動で、ロズの体がさらに上へと飛ぶ。そしてようやく害獣の姿をしっかりと確認できる場所まで来た。
人に似ていると思った姿は、よく見ると爬虫類にも似ていた。翼が生えている付け根の部分には、ふわりとした羽毛はなく、つやりとした鱗があるだけだった。鳥とトカゲの中間のような、不思議な外観だ。それでも大きさが大きさなだけに、何となく人に似ているという感想は拭えないままだった。
「ま、害獣は害獣だ――とっとと死んでもらうぜっ!」
リボルバーをつきつけて、引き金を引く――その瞬間、害獣が大きく暴れて照準がずれた。そのまま弾丸は害獣の左足の肉を引き裂いたが、ロズは振り落されて体が空中に投げ出される。その体を掴もうとしたのか、害獣の足の爪がドレスの裾にひっかかり、ビリビリと嫌な音を立ててスカートが引き裂かれ、そのまま落下する。
慌てて風を起こして落ちる衝撃を和らげる。一瞬体がばらばらになりそうなほどの痛みを感じるが、それはあくまで感覚だけだ。痺れ気味の体を無理矢理起こして、下からさらに二発、真上にいる害獣に向かって撃つ。銃の反動で肩が痛むが、そんなことは気にしていられない。
害獣はひとつ耳を劈くような咆哮をした。体に対して巨大すぎる翼をばたつかせると、その勢いで砂が舞い上がり、ロズは目を開けていられなかった。それでもいつまでも目を閉じていれば自分が食われてしまう。
仮にも「そよ風の魔女」として名を上げ、害獣狩りを続けてきたロズが害獣に殺されることになっては笑い話にもならない。どうにか目を開けて害獣に立ち向かおうとしたロズは、唖然とした。
「きっ……消えた……!?」
何度瞬きしても、見えるものは同じだった。つい先程までそこにいた巨大な害獣は、煙のように姿を消していた。
この場に残るのは、害獣が暴れて起こした強風が、木や街灯をなぎ倒した痕跡だけだった。
◆◆◆
ネビューリオが街へ出た先で害獣が現れ、その害獣が姿を消したことが王城にまで伝わった頃である。
ミルディア・グレネ・ラペイレットは焦っていた。予定にないことが起きたからだ。既にいなくなったとはいっても、害獣がネビューリオを害そうとしたということは、ミルディアの想定外の出来事だった。
ミルディアは従者としてラドルフを連れて、王城を出た。
ゲリアの王城からそう遠くない場所に、グレネ家の邸宅がある。グレネ家は王都より南西部に領土を持つ家だが、別宅として王都にも屋敷を持っている。柊館とよく似た作りになっており、どれだけ騒いでも外に音はほとんど洩れない。既にグレネ妃は病没していることもあり、この屋敷はほとんどミルディアが勝手にしている状態だ。尤も病没といえばロラン妃もそうなのだが、だからといってミルディアに権勢が回ってくるかといえば単純な話ではなく、今ある権力を守り続けるために彼女は奔走している。
今、ネビューリオに死なれるわけにはいかなかった。彼女はミルディアにとって決して歓迎できる存在ではないが、まだ死なれては困るのだ。彼女に死んでもらうのは、ミルディアが望みを叶える準備を整えてからだ――自らがレテノアを支配するという望みを。彼女を失っては、ミルディアが今持つ権勢にも影響が出かねないのだ――今はまだ、力を蓄えている最中なのだから。
「マリウス!」
苛立ちを隠しもせず、荒々しくドアを開ける。客室には黒いローブの男がいた。彼はミルディアの姿を見ると、恭しくフードを取って頭を下げた。その顔は皺がちらほらと目立ち始めた壮年の男、耳は尖っていない――人間の男だ。
「これは一体どういうことなのかしら。わたくしに断りもなく、害獣を暴れさせるなんて」
「おや、いけませんでしたか」
男――マリウス・ウルズヴィヒトはわざとらしく言った。
彼は人間だ。レテノアの民ではないどころか、隣国ミュウスタットの政治家だった。それがどうして此処にいるのかといえば、ミュウスタットの西進派として目的を果たすため、ミルディアと通じているからであった。
「ネビューリオ王女はあなたにとっても邪魔者のはず。今回は何やら魔族の戦士に阻まれましたが、上手くいけば煩い連中はみな排除できたはずです」
「余計なお世話よ。今死なれては都合の悪いこともあるの。誰を殺すにせよ、そのタイミングはわたくしが決めることよ。あなたの協力はありがたいけれど、好きにしていいと言った覚えはなくってよ」
ミルディアはあからさまに不機嫌という顔で腕を組む。彼女にとってマリウスはミュウスタットの持つ技術を手にするための窓口であり、豊かな資源を持つメーフェ半島を奪取するために共同戦線を張るという契約を交わした相手である。蔑ろにはできないのだが、だからといって何をされても許せるわけではなかった。彼らが滞在する間グレネ家の屋敷を貸し出しはしているが、ミルディアとマリウスはあくまでも協力関係であり、互いに従えているわけではないのだ。
「あなたの関係者が不審人物として通報を受けていることもわかっているのかしら。行動には気を付けてもらわなくては困ります。ここで計画が露呈してはメーフェを奪いに行くことが難しくなるのだから」
「わかっておりますよ、ミルディア殿。我々の力で邪魔な者は排除する。あなたは道を開く。それによって、私はミュウスタットの帝位と南方の大陸を――あなたはレテノアの王位とメーフェの地を得る。より国同士強い結びつきを持って、得難い豊かさを獲得するのです」
「そうよ。絶対に上手くやってみせる」
ラドルフは、彼女らのやり取りを黙って聞いていた。マリウスのことはどうにも信用できないと感じたが、それでも口を閉じていた。ただ何があっても対応できるようにと警戒だけを強めたまま。
「新しい飛空船の停留所は徐々に建設を進めているわ。わたくしのほうはちゃんとやっているのだから、あなたもきちんと必要な戦力は整えておいてくださる?」
「ええ、勿論ですとも。血筋を誇るだけの魔族のような野蛮人に頼る必要などないことを証明してみせましょう。すぐにでも証明いたしますよ――準備は早い方が良い」
今後はより慎重に、と言い含めて話は終わりだった。ミルディアが王城に戻るのに、ラドルフはついていく。
「……ミルディア殿下。何故あの男を傍に置くのです」
信用ならない、とラドルフが言うと、ミルディアは振り返らずに言った。
「ああいう、わたくしを愚かだと思っているような男は、自分のほうが利用されているって気づかないからよ」
ラドルフは危うい、と思った。彼女には彼女の考えがあるのだろうが、それでもマリウスという男は腹の底が見えないように思えた。だが――だとしても。
「私の力、いかようにもお使いください」
「当然よ。お前もわたくしのカードだもの」
――ミルディアの危機には、ラドルフは彼女の騎士として力になるだけだ。この美しい姫君をこれほど近くで支えられるのは、ラドルフ以外にいないのだから。