第十五話
バルテルミー家の使用人という仮面、もといかつらを被っているイースイルは、ロズの言うとおりに、彼女の直筆の手紙を持ってパレイゼの屋敷を訪ねた。手紙の内容はイースイルを助けてほしいという口添えであり、直接パレイゼと接触できなくても話は伝わるというわけだ。
イースイルにとって、パレイゼはかつて最も信頼のおける相手だった。今もそう思っている。若き賢者、リード家の当主、レテノアの時代を動かす男――イースイルの、友だ。
彼は王城に出仕しており、普段はゲリアの町屋敷で生活している。彼自身は王都の西側に位置するフェルマ領の領主でもあり、大抵のことは家族や親族に仕事を任せているようだが、定期的に行き来してはあれこれと領地経営について指図して暮らしている。イースイルが生まれる前から王城に出入りして、いわゆるところの貴族院議員としてレテノアに影響を与えてきた。彼に知らぬことはないと謳われるほどで、国王も彼を補佐として重用し、今もネビューリオを傍で支える実質的な宰相とも言える状態にある。彼がレテノアの教育や技術発展に尽力した功績は教科書に乗る歴史となるに違いなく、改めてそれだけの人物なのだと認識すると、イースイルは少しばかり緊張した。
幼い頃から、何度も訪れたことがあるリード邸だ。パレイゼがあらゆる学問に通じているというだけあって広い書庫を持っていて、古い時代の遺品をそのまま利用した家具や建物そのものを管理するために何人もの使用人を雇っている。玄関の扉を叩くと、暫くして中から人が出てきた――火のような赤毛の、すらりとした背の高い男。決して派手ではないが安物でもない絹の衣服に身を包み、宝石のような瞳で見つめてくる。イースイルは思わず固まってしまった。
用意していた言葉など全て吹き飛んでしまった。咄嗟に何も言えなくなってしまったイースイルに対し、男は――パレイゼはほんの僅かに目を見開くようにして、それから「早く中に入りなさい」とイースイルを招き入れた。
静かな屋敷に、二人分の足音だけが響く。やがて通されたのは客間ではなく、パレイゼの私室であった。書庫を別に持っているにも関わらず、本棚にはびっしりと本が片付けられており、机の上にも何冊か積みあげられている。魔術品と思しき道具も幾つか見えるが、その中に明らかに輸入したと思われる電話機や電気湯沸かし器が置いてあるのはどこか奇妙であり、彼らしい部屋という感じもした。
「さて、此処ならば誰かに話を聞かれるということもありますまい――イースイル殿下、よくぞご無事で」
そう言って、パレイゼは臣下の礼をとった。間違いなく、二年前と変わらぬ友であり、臣であった。傅かれるような立場ではないと言ってもきかないであろうパレイゼに、イースイルはただ「堅苦しいのはよしてくれ」とだけ言った。
「二年ぶり、になるか。そう経っていないが、随分と久しく感じるよ。会えて嬉しい。そういえば、使用人の姿が見えないようだが……どうした?」
「ああ、ちょうど今遣いに出しているのですよ。この時期は国中から貴族たちが集まってきますから、あれこれと相談事も多くなるのです。全く、電話が使える環境になっても使い方を覚えない貴族の多いことといったら――殿下は電話はご存知で?」
「知っているし使い方もわかるから説明はいらないぞ。それより、無用心じゃないのか? 護衛の一人もいないんじゃ……」
「ゴーレムがありますから、全く無防備というわけでもありませんよ」
その辺に飾ってある鎧が勝手に動いてくれます、とパレイゼは言った。よく見ればこの部屋の隅のほうにも鎧が飾られている。飾られているというよりは邪魔にならない場所に置かれているというほうが正しい気がしなくもないが、これもゴーレムとして万が一のときには動くようになっているのだろう。王都にも魔術品の技師はいるのだ、それなりにきちんとしたものを使っているはずである。
「さて――少し雰囲気は変わったようですが……すぐにあなたとわかりました。髪の色は違えど、殿下はやはり殿下です」
「……やはり私はわかりやすいのか?」
かつらを取りながらイースイルは首を傾げた。ロズやミミからは堂々と振る舞えば問題ないと言われているが、これで正体がすぐにばれたのは二人目だ。かつらや化粧での誤魔化しでは通用しないということだろうか。
パレイゼは外国の文明の利器で紅茶を入れながら答えた。
「大抵のものは騙せましょうが、殿下の瞳の輝きをよく知るものには悟られてしまいますよ。やはりと仰いましたが、他の誰かにも見破られたのですか」
「実はラドルフ・ファイトに会った」
「――あの男ですか。あれは殿下に憧れていましたからね」
「そうなのか?」
「殿下は覚えておられないかもしれないが、あの男には殿下に恩があるのですよ」
それはイースイルが子供の頃の話だった。父王と語らっているときに、実力は正しく評価されるほうがよいとイースイルは言った。思い返せば心当りはあった。騎士たちの鍛錬の様子を見学して、秀でていると感じた者が思いのほか良い待遇ではなかったので驚いたのだ。
「あれがきっかけであいつは騎士の腕比べでも注目され、害獣殺しで活躍し、英雄の顔を得たのです」
「……お前は、何だか気に入らないみたいだな?」
「あれは気も合わなければ話も合わない相手です」
パレイゼはぴしゃりと言い放った。彼がそのように言うのは珍しい。確かに賢者と呼ばれるほど学問に熱中している本の虫と、剣ばかり握っている騎士では話など合うはずもないが、それにしても厳しい態度である。世の中にはどうしても合わない相手というものが存在するものだが、パレイゼにとってのラドルフもそういうものなのかもしれない。
「殿下の御召し物は……バルテルミー家のものですね。今はそちらに身を寄せておられるのか」
「ああ。その前はミュウスタットにいたんだが……最近になって、レテノアへ戻ってきた。今はロズさん――バルテルミー・ベルク公爵に助けられて、その庇護を受けている」
「それはまあ、随分と冒険されてきたようですね。ベルク公爵のことはいつもシャルロッテやクロヴィス殿から話を聞かされています。彼女を味方につけたというなら、それは幸運なことと言えるでしょう。信用のおける戦士だといいますから」
「本当に……ありがたいよ。今のレテノアには不安なことが多すぎる。その……色々話をしたいと思って、此処に来た」
「ええ、私も聞く準備はできていますよ」
ようやく念願かなってパレイゼに事情を打ち明ける。自分を襲ったのはミルディアの手のものであると見当をつけていること。隣国ミュウスタットにて、有力者のルクラス・ガイストに匿われていたこと。隣国では東進派と西進派の派閥闘争が激しく、西進派が力を強くすればレテノアが戦場にされるかもしれないということ。レテノアの不利益を避けるために、復帰が難しい父に代わる新たな国王を立てなければならないということ――。
話を聞いたパレイゼの表情は特に大きく変わることはなかった。いつもどおりの、イースイルが知っている何を考えているかわかりにくいパレイゼだ。彼は静かに唇を開く。
「……私は、国王陛下は毒を盛られているのではないかと疑っています」
「毒?」
「あるいは呪いの類かもしれませんが。思えばおかしなことばかりです。陛下の治療には一流の妖精の医師たちがとりかかり、あのネビューリオ様の献身もあるというのに一向に治る気配がない」
魔法医療に卓越した者たちが、二年もかけて何の進展もないというのは違和感のある話だった。本人に気力がないといわれれば仕方のないことと感じるところではあるが、全く回復の兆しが見えない。数百年の生の中で、老いの兆しが見え始めた年頃とはいえ、まだそれほど老けこんだわけでもないのだ。体力が落ちるには少しばかり早すぎる。
「妖精の魔法医療はどんな傷も病も癒すもの。だというのに何の効果もない。あれだけの献身を受けて回復しないものがあるはずがない。それなら答えは一つだけです。陛下は傷つき続けている」
癒しても癒しても、次々に苦痛の原因が増えていけば悪くならずとも良くなることもない。国王が何者かに害され続けているというのなら、治らない理由の説明がつくのだ。
「ここ数年のうちに何人もの貴族が死にました。毒殺の疑いがある事件も多かった。使われた毒はさまざまで、まだどの事件の犯人も見つかっておりません。ですが、陛下に毒を注げるような者となれば、相応の立場がある者のみ。自然と容疑者は絞られましょう」
「――ミルディアか」
「証拠はございません」
パレイゼは言った。彼も彼で、この二年のうちにさまざまなものを見てきたのだ。イースイルが国の外から世界を見ていたのと同じように、パレイゼは国の中心で脅威を身に染みて感じていたに違いなかった。何せ有力な貴族が次々と倒れていくのを見てきたのだから、次はいつ自分にその矛先が向くかと恐れないはずがないのだ。
「ミルディア様の構想にある交通路の整備は、実際にレテノアに必要なものには違いありません。外国からさまざまな技術者を呼び寄せておられるが、あのお方が悪に手を染めているという証拠はない。私には直接対立する理由がまだないのです」
「そう……か」
「ですが、東進派と西進派でしたか。その話は興味深い。風の噂に聞いた程度のことでしたが、色々と調べなければならないことがあるようです」
「ぜひそうしてくれ」
今のイースイルには力がない。できることといったら、こうして力のある相手に頼ることだけだ。その点で、パレイゼ以上に頼りになる男はいない。どうやら彼にも思うところはあるようなので、采配は任せてしまうのが吉か。
パレイゼは目を伏せながら言った。
「できることならすぐにでも殿下を王城へお連れしたい。父君にも今のうちにお会いできるようにしたいのです。だが、今お戻りになられれば今度こそ御身が危険に晒されます」
「元からそのつもりはないよ。私は既に死んだも同然の身だ。無理をして父上にお会いしようすれば、私だけでなく父上も一層危なくなるかもしれない。少しでも長らえていただくためにも、私は隠れていることにするよ」
「そのことを知ることができれば、陛下もお喜びになるでしょう」
そういった話ができるほど父の容体が落ち着いているわけではないということは、イースイルにもわかった。倒れたその時から悪くならずとも良くなっていないのだから当然だ。余計な刺激を与えることもできない以上、父がイースイルの生存を知ることはないのかもしれなかった。
血の繋がった親子でありながら、それは何とも寂しい話だ。今はイースイル自身王都にいて、距離も遠いわけではないのに接触はできない。それがもどかしいと思わないわけではないが、全て思いどおりに行動できるほどイースイルには余裕がない。生き残り、少しでも良い方にと考えれば、物事に優先順位をつけなければならないのは必然だった。
「お前には苦労をかけるが、頼みたい。リオのことを」
リオ――ネビューリオ。イースイルと同じ母から生まれた愛おしい妹だ。妖精王となるに相応しい癒しの才を持つ、優しい娘。彼女ならば、少なくとも民のことを愛し、責務を果たすために努めてくれると、兄だからこそ知っている。
「リオを新しい王にしてほしい。お前が支えてくれれば、きっと間違ったことはしないと思う。あの子は優しい妖精だ」
「よく存じております」
そう言ったパレイゼの声は、いつもよりもほんの少し柔らかいように感じられた。イースイルがミュウスタットにいる間に、より親密にでもなったのだろうか。今のネビューリオのことならば、イースイルよりもずっとよくわかっていることだろう。
話したいことは大体は話せた。最後にロズが挨拶したがっていたということを伝えると、パレイゼは明日の茶会ででもゆっくり話そうと答えた。
もう用件は終わりだ。イースイルが帰ろうとすると、パレイゼが独り言のように言った。
「それにしても、殿下にも春ですか」
思わずイースイルは足を止めて振り返った。
「は、春!?」
「おや、違いましたか? 随分と親しくしているのかと、勝手に推測しておりましたが」
そうは言いながらも、パレイゼは自分の考えに自信があるようでその声色はどこか楽しんでいるようでもある。
イースイルは真正面から指摘されて、顔が熱くなるように感じた。手で隠すようにしながら「確かに……その、恋人、ではある……」とかろうじて答える。
実際に恋人らしいことをしているかといわれれば全くそんなことはなく、知り合ってそう長い時を過ごしたわけでもないのだが、何も隠さないでいい相手なのは間違いない。取引のようなものだが、他に良い相手がいないなら結婚をするという約束もしている。親しくないといえばそれは嘘だ。それが恋らしい恋であるかはともかく、イースイルは偽りなくロズの気質を好いていて、互いに恋人という立場として認識している。
耳まで赤くして震えているのに苦笑を一つこぼして、パレイゼは宥めるようにイースイルの両肩に手を置いた。
「彼女のことを大切になさい。あなたには、気を許せる人が必要です。私やネビューリオ様だけではなく、ね」
「……わかった、覚えておく」
「さあ、もうお行きなさい。あまり他のものに見られる前に」
かつらを被り直してパレイゼの邸宅を出て、ロズのほうはどうしているだろうかと彼女を案じつつ、イースイルは柊館への道を戻る。陽は傾き始めていた。
もうすぐ夜がやってくる。