第十二話
味のわからない晩餐が終わると、広間で舞踏会が行われる。貴族たちはそれぞれ思うように会話やダンスを楽しんでいる。こういった場所は気を張る――ヒールで歩くのはいつものブーツとそう変わらないから平気だが、気取った空気は苦手だと、ロズはこっそり息をついた。
遅れてやってきたのはネビューリオ王女とフェルマ公爵だった。ミルディア同様政治の中心に立つ存在とくれば、自然と注目は集まったが、やがて二人とも舞踏会の賑わいの中に溶け込んだ。
(あれがネビューリオ王女か)
ロズがさりげなく視線をやると、菫の花のように可憐な娘が微笑んでいるのが見える。艶やかな黒髪と灰色がかった青い瞳は、成る程イースイルとよく似ている。やがて王になるであろう至上の妖精――幼いが、確かに美人だ。少女として、一番美しい年頃なのだった。尤も姉とは似ても似つかない――美しいということのベクトルがまるで逆だ。
そんな彼女の隣には、燃えるような赤毛のフェルマ公爵――パレイゼ・リード・フェルマが付き添っていた。彼はクロヴィスの妻シャルロッテの親戚だ。ロズが幼い頃会ったときと全く変わらぬ顔をしていた。こちらも若い青年のように見えるが、中身は四十路であるはずだった。妖精の外見は基本的に詐欺だ。王女たちやロズ自身が若いので勘違いしそうになることもあるが、百年や二百年若い姿のまま生きている妖精や魔族は珍しくない。
体は薄っぺらいが、背は高い。小柄なネビューリオと並んでいるとより大きく見える。シャルロッテと同じようにあまり感情が表に出ないのか、表情の変化に乏しいが、それでもネビューリオをよく気遣っているのは傍目にもわかることだった。歩くときは歩幅を合わせ、話すときは目線を合わせるように少しだけ屈むのだ。どうにも二人は親密な間柄であるらしい、というのはロズにも理解できることだった。
「彼らが気になりまして?」
「――ミルディア王女殿下」
呼びかけられて、意識が引き戻される。すぐ目の前には、真紅の薔薇のようなミルディアがいた。こうしてすぐ傍で見ると、殊更ネビューリオとの違いは顕著だった。
「フェルマ公爵殿はシャルロッテ殿の従兄だから、ご挨拶をと思ったのですが。今は他の方のお相手で忙しいようだ」
ロズがそう言うと、ミルディアは手招きして言った。
「あちらに休憩室を用意しているの」
そこで話そう、というのだ。ネビューリオやパレイゼに挨拶を、と思うロズだったが、まだ他の貴族連中と会話しているのが横目に見えた。そこを邪魔しにいくのも無粋な気がした。元々ミルディアとも話をしてみたいとは思っていたのだ――。
「少し疲れていたところだったのです」と取り繕って、ロズはミルディアの案内に従った。会場を出て廊下を進むと、そう遠くないところに小部屋があった。柔らかそうな大きなソファと、丁寧に細工が施されたテーブルがある。そこには茶菓子が用意されていて、疲れた時に休むにはちょうどいいようになっていた。今は使用人が控えているだけで、他の誰もいない。
ミルディアに促されて座ると、見た目の印象どおり柔らかなソファで、気を抜くと沈んでしまいそうだった。立場上こういうものに慣れないわけではないが、普段使うならもっと固い椅子のほうがロズの好みだ。
「殿下が会場にいなくてよいのですか」
ロズが問う。ミルディアはゆっくりと首を横に振った。
「今はネビューリオ王女がおりますもの。皆そちらに気をとられてわたくしのことなど視界にも入らないわ」
「……まさか」
「ふふ――わたくし、今はあなたとお話したいわ」
ミルディアはゆったりと微笑んだ。その笑みはやはりどこか冷たいが、綺麗であるのも間違いなかった。妖精の王女であるのだから綺麗で当然だが、それにしても彫像のように美しく、この官能的な美貌に一体どれほどの男が惹かれたのか想像もつかない。男なら一度は危険な女に憧れを抱くもの――恐ろしいようで、しかし踏み込みたくなる魅力がある。
(今の俺は女だけど……)
魅力のある者は、性別を問わず人を魅了するものだ。彼女の紅い唇から紡がれる言葉が毒のように甘美なのは、いっそ才能と呼ぶべきであろう。彼女を素直に受け入れられるほどロズは素直ではないが、耳を傾けたいと思う程度には惹かれる気持ちがある。
「ベルク公爵は外国との通商にも熱心であるとか……わたくしも外の国のことには興味がありますわ。魔術品だけではこの国の技術発展には限界がある――ああ、魔界を侮っているわけではありませんのよ。よりよい今後のために、そういう考えも必要だと思っているだけですわ」
「私も同じようなことを考えているところですよ。魔術品の技術者は少ない。魔術では補いきれないことは、人間の科学に頼ることもまた必要だ。便利であるものを利用しない理由はありません。噂では飛空船の開発を進めていらっしゃるとか……?」
「あなたもご興味がおありかしら」
随分機嫌が良さそうだ。ミルディアが使用人を呼び、何か紙束を持ってこさせると、テーブルの上の茶菓子をどけてそれを広げた――飛空船の設計図と、それに関連する資料のようだ。というよりは、交通機関の整備に関するものというべきか。
「蒸気機関を使った空を飛ぶ船ですわ。海外から呼び寄せた技術者たちに作らせているところなの――きっと素晴らしい船になりますわよ」
他にも交通機関への投資に力を入れているところよ、とミルディアは語った。レテノアの地図にいくつか赤の印がつけられている。どうやら色々と工事の計画を立てていたり、もう着工していたりするようだ。
(そういや、前にそんな話が新聞に載ってたか……)
「交通網の整備が進めば、我らがレテノアはよりいっそう発展すると思うのです。外の国では人間たちが技術革命を起こして、それこそ魔術と科学の境など最早ないに等しいと聞きますわ。ものによっては、科学のほうが魔術よりも便利かもしれない――わたくしはより効率よく、国を豊かにすることを考えたい。モノケロスに馬車を引かせるのが悪いとは言わないけれど」
熱っぽく語るミルディアは、恐らくそれが完全な嘘というわけではないのだろう。どこまで本心かもわからないが、王女として責務を果たそうとする姿勢が全くの偽りというわけでもないようだ。そうした判断はロズの直感だが、見せられた資料の数々がそう思わせるのだった。
「土地の調査が終わっているところは優先的に工事を進めることにしておりますわ。まずはできるところから。妖精たちの都市を繋ぐだけでもと思っていましたが、もしよろしければ、魔界の方々にも協力していただきたいわ。改めて書状を送るつもりではあったのですけれど」
ここで話しておけて嬉しい、とミルディアは言った。優美な唇が微笑んでいる。本当に魅力的な女だった。
「……魔王にも伝えておこう。できればこの資料を持ち帰りたいのだが――?」
ロズが言うと、ミルディアは頷いて、「では、お時間を取らせますが、帰られるまでにはきちんとしたものを用意させますわ」と言った。
「有意義な時間を過ごせて嬉しいわ。わたくしは一度会場へ戻りますが、ベルク公爵、女神祭を楽しんでくださいましね」
ロズは「お気遣いどうも」としか返せなかった。ミルディアはやはりどこか冷たさを感じさせる笑みを崩さず、部屋を出ていく。いらないものが片付けられると、残るものは茶菓子だけだった。どうにも喉が渇いている。傍に控えていた給仕に頼むと、間もなくして薫り高い紅茶が注がれた。
(あれがミルディア)
イースイルの腹違いの妹。どこか冷めた印象のある美女。しかし少なくとも表向きには王女らしく、国のために動いているらしい女。どうしてだか、イースイルに警戒されている。
(好きかと言われると微妙だが、俺は嫌いじゃないかもしれん……怖いには違いないが)
秘密のある女は美しいというが、どこか謎めいて見えるミルディアは確かに魅力的だった。本質を見極めるにはまだ少し時間がかかる。そうこうしている間にくらりといってしまうのではないかと思うと、イースイルが警戒心を抱く理由もわからないでもない気がした。裏のある者は恐ろしい生き物なのだ。そんなものに惹かれる辺りに、ロズは自らの愚かさを感じる。
「我ながら趣味が悪い……かねえ」
思わず呟いた言葉に給仕が「は……?」と首を傾げた。ロズは苦笑して訂正した。
「いや、独り言だ。忘れろ」
(戻るのは……少し、休んでからだ)
今頃舞踏会に戻ったミルディアが持ち前の華やかさで人を魅了している頃だろう。ネビューリオやパレイゼに挨拶をしたいが、今すぐ戻るとどうにもミルディアの空気に呑まれてしまいそうな予感がする。動くのは喉を潤し、気持ちを落ち着かせてからだ。
◆◆◆
イースイルは柊館を出て王都ゲリアの街を歩いていた。懐かしい街並みだ。人の賑わいも空の色も建物の色も、ほとんど記憶のまま変わっていない。二年も経ったが、僅か二年ともいう。
ミミから頼まれた買い物も済ませなければならないが、まだ時間はある。今のうちにイースイルは見ておきたいものがあった。
古の遺跡の上に築かれた街。古いものと新しいものが混ざり合う歪な街。今は女神祭のためにいっそう賑わうレテノアの王都。立ち並ぶ屋台では何か食べ物でも売っているのか、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。騒がしい人混みを擦り抜けていけば、優美な王城が佇んでいる。その庭園は普段は閉じられているが、女神祭の今は一般に開かれていた。
城に近づけばイースイルの正体が知られてしまうかもしれない――そんな憂いはあったが、それでも確かめなければと思ったのだ。化粧とウィッグで誤魔化しているが、本当に誤魔化しきれるのか――緊張で手から汗が噴き出るような感覚がした。
心臓が煩く鳴るのを自覚しながら、門番の見ている道を通り抜ける。堂々と振る舞うことだけは得意だった。イースイルはそういう風に育てられている。
幸いにも一切の疑いを受けることもなく庭園に入ることができた。今着せられている服はバルテルミーの紋章付きで、使用人に様子を見させているのだとでも思われたのだろう。広い庭園だ、どれだけ見張りがいようとも全てを監視することなどできはしない。イースイルは庭の薔薇を見るような顔をして、しかし迷わず庭園の南東側にある噴水を目指した。
広い庭園に全部で五つある噴水のうちの一つ。南東の菫が彫られた噴水は涼やかに水の芸術を見せている。尤も、観光客の目は庭の中心にある一番大きく一番優美な白百合の噴水に向いているので、此処にはイースイルの他は人の目がなかった。
イースイルは休憩するような顔で、噴水の傍に座り込んだ。そして、そっと菫の彫刻に触れる。記憶を頼りに彫刻をなぞっていくと、花びらを刻んだところに密かに他とは違う窪みがあった。目を凝らしてみれば、小さな穴があるように見える。手をかざすと、ひやりとした空気が流れてくるような感触があった。
――此処から、秘密の地下通路に通じている。
そのことを知るのは、王族の中でも王位を継ぐ者だけと決められていた。幼い頃のイースイルは、順当にいけば王を継ぐはずだったから、この存在を教えられたのだ。果たして病に倒れた王が妹たちにこのことを伝えているのかいないのかはわからないが、空気の動きがあるのだから、恐らく塞がってはいないはずだ。
元々は王族が何かあったときのための逃げ道として作られた通路だが、イースイルはこれを使って王宮に侵入するつもりでいた。夜には庭園も閉じられてしまうので、此処へ辿り着くのにもう一つルートを考えておかなければならないが、この地下通路が使えると使えないでは全く状況が変わる。かつて子供の頃に教えられたまま何も変わっていない菫に、安堵の息をつく。何一つ変わっていないかといわれるとすぐには詳細まで確かめられないが、いざ此処を使うときに何か変わっているのなら、それはイースイルが既に敗北しているということなのだろう――目的を違える者との争いに。
イースイルは立ちあがり、庭園を見学する民に紛れて様子を窺ってから、ミミに頼まれた買い物のために王宮を後にする。持たされたメモを確認しながら早歩き気味に歩を進める。あまり長居しては幾ら変装していても気づかれてしまうかもしれない。
「……それとも、もう遅いかな?」
華々しい表通りから逸れて裏路地に入りこんで立ち止まり、振り返る。そこには、王家の紋章である翼が刺繍された騎士の衣装を纏う男が一人。
彼は、イースイルを凝視していた。その態度からして、イースイルの正体を確信しているのは間違いのないことだった。その表情は険しく、信じられないものを見ているかのようでもある。
最早、この場で取り繕う理由は、ない。
「私に何か用か、ラドルフ」
イースイルが声をかけると、騎士は――ラドルフはごくりと唾を飲み込んで喉を震わせた。
「生きて、いらしたのですね」
イースイル殿下、と呼んだ声は逞しい騎士には似合わず、どこか弱々しいものだった。