第八話
翌日になって、すっかりイースイルは回復した。ロズと戻るべき場所が違うオーウェンとは魔王城で別れることとなる――オーウェルの森へは遠いので、一足早く馬車で魔王城を出発した。
イースイルの存在についてはロズの身内と呼べるような人物のみが知る極秘事項として扱われているため――表向きには旅人が立ち寄ったというように伝わっている――見送りもさして派手なものではなかったが、シャルロッテが別れ際に餞別としてイースイルのための衣服や剃刀等の日用品を用意していた。
「服は殿下の体格に合ったものを、と思いましたが……正確に測ったわけではありませんから、少し動きにくいかもしれません」
「充分だ。お気遣い痛みいる、シャルロッテ姫」
(シャルロッテ殿の前では随分と……王子様らしい)
彼らの会話に口を挟む気はないが、ロズは二人の様子を窺ってそんな印象を抱く。元々交友関係があった者同士ということもあるだろうが、イースイルは王子であった者としての態度を崩す気はないようだった。命からがら此処までやってきて、僅かながらも魔界の協力を得られることに安心したのか、堂々として落ち着いている。一方のシャルロッテはいつもと同じく何を思っているかわかりにくい無表情だったが、その声色は少しばかり柔らかいようにも聞こえる。妖精同士思うところもあるのだろう。
「殿下が生きておられたこと、きっと……ネビューリオ様やパレイゼも喜びましてよ」
「そうだと良いのですが」
「……困難は多いでしょうが、本当に求めることに対しては躊躇ってはなりませんよ」
シャルロッテが言った。イースイルが頷くとそれに満足したようで、「此処からベルクへも近くはありません。途中お腹が空いたら二人でどうぞ」とパンを詰めた袋をロズに手渡した。
「牛乳瓶は割らないように。クロヴィスに頼んで冷却する魔術をかけてもらいました」
「何から何まで助かる」
「殿下を頼みます、ロズ」
ロズの答えは「任せろ」の一言に決まっていた。
イースイルの希望で、彼はロズのバイクに相乗りしていくことになった。荷物はバックパックとして背負うだけで済んだので、とりあえずは問題ない。バランスを崩さないように気を付ければいいだけだ。シャルロッテに見送られてロズは黒いバイクを走らせた。
魔王城からベルク領までは半日ほどかかる。道中は幾つかの村を通り抜けていくことになるが、人の集まる場所以外はずっと草原か森が続いている。秋らしく緑に交じって美しい朱色に染まる木々を通り抜けて、太陽が天高く上った頃、休憩のため適当なところでバイクを停め、木陰に入ってシャルロッテからの贈り物を広げる。バゲットと牛乳瓶が二本ずつ――魔術がかかっているだけあって牛乳瓶はひんやりと冷たく、蓋を開けても特にまずい状態になっているという様子はなかった。それらをイースイルと分け合う。ロズが豪快にパンを頬張り、牛乳で流し込むように飲み込むのを横目に見ながら、イースイルも食事に手をつけた。
「これ食ったら出発な。害獣が寄ってこないうちにささっと。ベルク城までもう少しだ」
「はい。あの……不思議だったのですが、聞いてもいいですか?」
「内容による」
「どうしてバイクに乗っているんです? レテノアではあまり一般的な乗り物ではない……というか、この国でバイクを見るなんて思っていませんでした」
燃料だって手に入りにくいでしょう、とイースイルは首を傾げた。
確かにレテノアではマイナーな乗り物に違いなかった。日常の大抵のことは魔術品の便利さで片付くうえ、速く走れる魔物たちも多いレテノアでわざわざ人間が開発した、特別な燃料――いわゆるガソリンだがレテノアでは一般的ではない――が必要になるバイクを使わなければならない理由はない。究極の嗜好品だ。だがそもそもこのバイクはガソリンで動いていない。
「魔術品として改造してあるから燃料の不安はそれほどでもないぜ」
「そうなんですか?」
「乗るヤツ、もといハンドル握るやつの魔力を吸って動く。一応理論上は誰でも使える……はずだが、基本俺しかこんなもん使わねえから、誰かに使わせること想定してねえとこあんだよな。実質俺専用だな」
「へえ……魔術品のバイクですか。それって疲れないものなんですか?」
「自転車漕いでるようなもん。いや、無茶苦茶なスピード出さなきゃ自転車より楽だ。燃費が良くなるように魔術式を組み込んだし」
「はあ、そういうもの……なんですね」
今一つ理解していないような顔のイースイルに、ロズは苦笑した。彼の気持ちはわからないでもない。魔術のことを本能的に理解できるのは魔族の血を引くものだけなのだ。
生星テルエ、と呼ばれるこの星では、魔力というものが存在する。自然物は魔力炉と呼ばれる炉を持ち、そこから生み出される不思議な力を秘めたエネルギーを魔力という。あらゆる生き物は多かれ少なかれ魔力を持ち、それによって生命を維持している。星の魔力炉からは時折魔力が溢れだしており、世界には特に魔力の濃い場というものがいくつかある。そういった場では濃すぎる魔力が自然と魔法現象を引き起こし、それは恵みにも災害にもなり得る。たとえば魔法によって常に豊かな実りを得られる土地があるのは素晴らしい恵みである。ときどき現れる害獣は魔力炉に異常をきたした生物であり、溢れる魔力を制御しきれずに怪物となって人を襲う――こちらはまさに災害だ。
さて、それでは人はどうだろう。魔族と妖精は人間と比べて魔力炉が強靭で、より豊かな魔力を持つ。それは長寿をもたらし、神秘の力を授けるものでもある。魔族は身に余るほどの魔力によって異形に近づき、魔術によって魔力を吐き出し魔法現象として現実の形に表す。妖精は体の中で魔力を凝縮させ、他者を癒す力を溜めこむ――同じ魔力持ちでも全く違った性質だ。体の構造として魔力の循環機能や排出などに違いがあるようだが、何故そういう違いが生まれるのか――ロズはそういうものだとして理解を放棄しているところがある。この世で当たり前のように思われていることを追及するのは最早哲学に等しい。
ただ一つ言えることは、魔力が魔法現象となるプロセスには一定の規則があるということだけだ。それは自然発生することもあるが、魔族が魔術という形でプロセスを作り上げることもある。
「魔術式が正しければ魔力を注いだとき魔術が発動する。数学の公式を当てはめるみたいに、正しい魔術式を知っていれば魔術が使える。その魔術を補えるだけの魔力はいるが。魔術品ってのは既に魔力が注がれてる状態だったり、魔力の籠った別の道具を燃料にしたりして動かしてる。こいつに関しちゃ俺自身が燃料ってわけだ」
くい、と手首を捻って親指でバイクを指す。黒くつやりとカウルが輝いている。
「普通のバイクに見えるのに……」
「改造はしまくってるけど、元はマジで普通のバイクだからな、コレ。四年前に輸入したんだが、最近のフェルマ公爵殿の政策はありがたいね。こういうモン乗っててもそこまで奇異な目で見られねえし」
(オッさんには嫌がられるけど)
人間の技術から生まれた最新の科学はようやくレテノアでも認知され始めてきたところだ。大抵のことは魔術品で事足りていたのだが、質のよい魔術品は市場に出回る数に限りがあり、生活水準に格差ができてしまう事態を回避するため海外の技術を受け入れるようになったのだ。
ロズ自身は魔術品の技術を極めることで魔族としての立場を守っているが、彼女の中にある前世の記憶は人間の科学のほうが馴染み深いと主張している。炊飯器や洗濯乾燥機といったボタンひとつで解決できる家電の便利さといったらない。魔力を使わないため疲労することもない。道具にもよるがコストパフォーマンスのよいものは積極的に取り入れていきたいというのがロズの理想である。魔界貴族は自分の魔術でほとんどの問題を解決できるためわざわざそんな道具を使う理由がなく、受け入れがたく感じる者も少なくないため、ロズの嗜好は貴族の間では少数派になるのだが。
「改造すれば人間の機械を魔力で動かせる、か……ああ、でも妖精には難しい話ばかりです」
「そもそもこの世界には謎ばっかりだぜ。何か知らんがアルファベットに似た字もあるし。そうだ、妖精が何で自分の怪我を治せなくて、他人の傷だけを治せるのかってのもわりと難解な話だと思うんだが。遺伝子に魔術式みたいなもんが自然発生してるのかねェ」
ロズ自身も妖精の血を引いているが、あくまでも魔族側の存在として育てられ、魔術を専門としてきたため理解しきれていない。この辺りは考えても答えが見つかりそうにないので、ロズは早々に諦めて、パンの残り一口を口の中に押し込んだ。
「さて、ベルクまであと一息だぜ」
「はい。よろしくお願いします。……今更ですが、私のような者がロズさんのような細身の女性にしがみついているって何だかアンバランスですね」
大型のいかついバイクを乗りこなすロズと、その後ろに乗っているイースイル。男性でありロズよりも背が高く、体重もそれなりにあるので確かに少しばかり釣り合いがとれていないかもしれなかった。ロズの体に対してバイクは少しだけ大きい。だが、そんな問題はロズには些細な話だ。好きな道具を使えるから使っている、そこに多少の難があっても気にならない。それだけの話だ。
「こういうものの後ろに乗るのは可愛い女性だけだと思っていたのに……」
「あんた前の記憶あるんだから半分女みてえなもんだろ。俺だって前は男だったんだしちょうどいいじゃねえか。いっぺん女の子後ろに乗せてみたかったんだよな」
「私を女の子にカウントしていいんですか」
「何なら嫁に来るか」
ロズが冗談っぽく笑いかけると、イースイルは顔を赤らめて俯いた。
(その反応は女の子チャンそのものじゃねえかなア……)
体こそ男性ではあるが、そういった可愛げのある恥じらいは女性として育てられたロズよりずっと女性らしいように感じられた。どうしようもなく、ただ生まれてくる時点で互いに性別を間違えていた。
◆◆◆
ベルク地方は海に面した土地だ。魔界が妖精の暮らす場所を取り囲んで守るように広がっているため、魔族は国境に近い場所に集まって都市を作る。人々の生活区域は害獣に襲われないように高い城壁で囲まれており、岬と人工的に積み上げた石の壁で守られた港湾は主に商港として使われている。
街はなだらかな坂が多く、建物は塩害対策のために何か塗料が塗られていてカラフルなものが多い。潮の香りがする大通りは人と魔物で賑わい、華やかな雰囲気で満ちている。
ロズが暮らす屋敷はベルクの街の中心にある。石畳の道路を抜けていくと、丘の上に太陽に照らされる白い壁の建物がそびえているのが見えてくる。魔王城に比べて重苦しさがないのは、軍事的な機能は都市を囲む壁にすっかり任せて居住のためだけの屋敷として建てられているからだ。
「お帰りなさいませ、ロズ様。お客様もご一緒でございますね」
「ああ、ただいまミミ。客室は大丈夫だよな?」
ロズたちを出迎えたのはエプロンドレスを纏った白猫だった。彼女――ミミはベルク城でロズの侍女を務める猫の魔物だ。尤もロズは魔族の戦士であり、戦闘において必要性がない場合は供を連れていかないことが多い。加えてベルク城では使用人の人数こそきちんといるが、完全に分業しているわけではないので侍女といってもロズの身の周りに関することばかりではない状態である。
「魔王城のクロヴィス様から事情は伺っております。さあ、どうぞ」
ミミの案内で、イースイルに部屋が宛がわれる。爽やかな日差しが差し込む南側の明るい部屋だ。ミミはこの後ロズの荷物を引き取って下がっていった。
「魔王城ほどとはいかねえけど、まあまあだろ? ゆっくり寛いでくれ。女神祭まで此処を動くことはないだろうしな」
「お世話になります」
「……見られて困るようなもんは基本的にねえから好きに過ごしていいぜ。ああ、でも二階の俺の部屋は魔術品の研究室みたいになってるから、入るのは構わねえけどあんまり触らないようにしてくれ。危ないから」
丁寧に礼を取るイースイルの態度はロズには少しばかりくすぐったい。説明が早口気味になってしまったが、それは仕方のない話である。そのままロズはここ数日間ベルクを空けていた間のことを確認するために政務室へ移動する。
その裏で、使用人たちがイースイルのことをあれこれ推察していることには気づかなかった。
「あのそよ風様が男を連れ込んでくるとは……」
「もしや魔王様から勧められていた結婚相手から逃れようとしていたのは、彼のためなのでは……」
使用人たちに対してはイースイルについて大切な客である、ということしか告げられていない。少ない情報の中から話が勝手に膨れ上がり、やがてイースイルはロズの恋人であるという噂になり、それが二人の耳に入るのはそう遠くない話であった。