プロローグ1
その日、イースイル・ロラン・ラペイレットは全てを失った。
陽は落ちたが、月はまだ昇っていない。藍色と朱色が混ざり合う空、中途半端な薄暗さの中、彼は疲労した体を引きずって岩陰に身を潜めた。
一緒に来た騎士は皆死んだ。上等の白い絹で仕立てられた服は血と砂と泥にまみれてひどく汚れてしまったし、丁寧に磨かれていた靴もぼろぼろだ。護身用に持っていた剣も道中で折れてしまった。行くべき場所すらわからないが、もう戻る場所もない。
厄日である。イースイルはそう思いながら、息を殺して神経を研ぎ澄ませる。
整備されていない山道である。足場は悪いし、すぐ傍は崖だ。下は渓谷、落ちればただではすまないだろう。あるいは、岩にさえぶつからなければそれもまた道となるだろうか。
このままここにいるわけにもいかないが、逃げ道は限られており、迂闊に動けば自分の居場所が知られてしまう。そうなれば追手からは逃げきれない。
――逃げなければならない。
イースイルはまだ死ねない。生き延びなければならない理由がある。それは単に自分が死にたくないからというだけではない。だから諦めてはならない。
宵闇の中でははっきりとした人数まではわからないが、いくつか足音が聞こえてくる。岩と岩の隙間からそっと覗き込むと、ざり、と砂を踏む銀の甲冑――剣を持った兵士たちの影がある。彼らが連れる馬の姿もある。が、それはどれも味方ではない。イースイルを追ってきた者たちだ。
「王子はどこへ行った?」
「さあな。だが、まだ近くにいるだろう」
「そうだな。そう遠くへは行けないはずだ」
話し声からして、これから味方になってくれそうな者などいるわけがないとすぐにわかる。元より期待などしていない。今から彼らを出しぬかなければいけない。彼らの剣がぎらりと狂気に輝くように見えた。
――おぞましい。人の運命を振り回そうとするその剣、そしてそれを操る者が憎い。そんな相手にくれてやれるほど、自分の未来は安くないのだ。
イースイルは、慎重に様子を窺った。
◆◆◆
緑豊かな大地に根付いた妖精たちの国――それがここ、レテノア王国である。広大な土地で昔ながらの農業を受け継いできたレテノアは、現代の生星テルエにおいては世界一の農業大国であり、世界一の魔法医療の先進国でもある。というのも、魔法医療が妖精のものだからだ。
この世界には数多くの人間と、それよりは少ない魔族と、もっとずっと少ない妖精が暮らしている。その他にもさまざまな動物や魔物がいるし、中には魔力のバランスが崩れて怪物となってしまった害獣もいるが――とにかく、妖精という人種は数が少ない。妖精の持つ魔法医療を狙われて、他の種族に蹂躙されてきた歴史があるからだ。
魔法医療ならば、通常の医学では治せないような怪我や病も治せる。誰も欲しがらないわけがなかった。それに加えて、妖精には美しい顔立ちをしたものが多い。奴隷商人の恰好の餌食というものだった。
レテノアは妖精が妖精の仲間を守るために寄り集まってできた国だった。弱いものでも集まれば力になり、やがてそれは大きくなっていった。もう奴隷商人も他の種族も恐れる必要はなくなった。数千年に渡る歴史の中で魔法医療が切り売りできるものだと覚えていたから、守りを盤石とするために軍事力となる魔族たちすら取り込んで、今のレテノア王国がある。つまりは、妖精を中心とした、妖精と魔族の国だ。
イースイルはそんなレテノアの王子だった。妖精王の正室ロラン妃の第一子――母譲りの黒髪と父によく似た灰色がかった青の瞳。この上ない正統性をもって、彼はこの世に誕生した。
ラペイレット王家では代々王位を継承するのは王族の血筋で、最も優れた妖精を選ぶ決まりがある。優れた妖精というのは、人の傷を癒し、人の病を治す才能が豊かであるということだ。王族は国の顔だ。他のどの妖精よりも妖精らしくあらねばならないということもあるし、次々と王が交代して国が混乱するのを避けるために長生きしやすい豊かな魔力持ちが選ばれるのだ。
イースイルには他の誰にも文句をつけられないだけの才能があったし、その血筋からいっても王位を継ぐのは順当だった。自分が王になりたいという強い想いがあったわけではないが、期待をされているのなら応えようと思うくらいには、王位に執着があった。
何せ、妖精らしさにおいてイースイルの他に王に相応しいものは、あとたった一人しかいない。その一人というのは、やはりロラン妃の生んだ娘で、要するに彼の大切な妹だ。名をネビューリオといって、イースイルはリオと呼んで可愛がっている。成長するにつれて妖精としての才能を発揮するようになり、兄妹のどちらが王位についてもおかしくないといわれるほどだった。もしかしたら彼女のほうが才能豊かかもしれないくらいだ。ただ、彼女には全く野心というものがなく、王となるには優しすぎる性格をしている。民に愛される聖女にはなれるけれど、優しいばかりでは王は務まらない――。
イースイルは自分が王になることを当然と考えて――事実当然そうなるべきであったのだが――過ごしてきたが、自分に何かあったときのことを考えなかったわけではなかった。
「私の代わりが務まるとすれば、パレイゼ、お前だな」
「おや、随分買ってくださっているのですね、殿下」
低く響く落ち着いたテノールの声が返事をする。パレイゼはラペイレット王家の縁続きであるフェルマ公爵家の子息で、歳はイースイルより二十年ほど上だ。尤も、長ければ数百年と生きるような長寿である妖精にとって、たかが二十年など特筆するほどのこともない時間だが。要はほんの少し年の違う友人のような関係である。
パレイゼは広く学問に通じていることから若くして賢者とも呼ばれていた。その呼び名のとおり理性的な色をした瞳がイースイルを見つめている。
「私が殿下の代わりを務めることなどないと思いますが――」
「世の中何があるかわからないものだ。そういう、何らかの非常時には……お前を頼りにしている。何ならリオを嫁に出してもいいと思うくらいには信頼している」
「私が謀反を企てるとはお思いにならないので?」
「お前にしては上手くない冗談だ。それならとうの昔に私は死んでいるだろう。お前とは何度も食事をしたし、無防備な姿を晒している。お前は賢いから、何をするにもその気になれば上手くやれる」
今まで殺せる機会は幾らでもあったはずだ。王族の血も引いていないわけではないのだから順位は低いとはいえ王位の継承権もある。王の座も狙えるはずだが、それらしい行動はしていないのだから別に特別強い野心はないのだろう。せいぜい自分の思う政治をやれる立場があればそれで満足のようだった。そしてそれは、現国王からの信頼が厚い今、既に叶えられている。
パレイゼは「お褒めにあずかり光栄ですよ」とだけ言った。
イースイルには頭のいい男の思うことはよくわからないが、パレイゼが国を大事に思っているのは本当のようで、色々と尽力してきたのは周知の事実である。魔族との関係を深くするために従妹を魔王の息子に嫁がせるところから始まり、国力増強のために国外の技術や文化を取り入れる政策を推し進めてきた。最近では教育制度の改革にも熱心である。
大都市には一般市民にも開かれた学校があるが、決して学費は安くない。全国民にある程度の教養があるべきだという考えから、新しい学校を創設したり、私財を費やして奨学金事業を始めたりしていた。どうも優秀な学生を見つけたら、自分の手駒として引き抜くつもりらしい。強かなパレイゼに、イースイルは好感を持っている。国のために動けるのなら、たとえ剣を向けられても許せると思うほどだ――恐らくそれはイースイルが道を外したときだけであろうから。流石にそう考えていることは胸のうちに秘めた。言う必要がないからだ。
そこで、話題を変えることにした。
「なあ、予言について教えてくれ」
「予言ですか?」
レテノアでは成人の折、魔術師から将来について予言を受ける風習がある。元は魔族たちの文化だったものが一般化したのだが、予言の魔術の精度は魔術師の腕によるという。そもそも予言の魔術は旧い時代のもので、現代ではそれほど的中率の高い予言者はいないと言われており、成人の儀式として形を残しているに過ぎない。それでも中にはやはり優秀な予言者がいて、全ての予言が全くの出鱈目と思っていると痛い目を見ることがある。占いによって予測する未来とはまた違い、正しい予言はどうやっても覆らないのだ。
イースイルは今度レテノアにおける成人――十八歳の誕生日を迎える。王族の成人式はレテノアで信仰の厚い豊穣の女神ゴーメーの神殿に参拝し、神殿の巫女に予言をしてもらうのが仕来りである。巫女の役目を務めるものに、中途半端な魔術師はいない。その場で与えられる予言はイースイルにとって重要なものとなる可能性が高い。
「普段から馴染みのあるものじゃないからな。予言を受けるというのは、どんな感じかと思ってな。少し緊張している」
「お気持ちはわからないでもありません」
「お前は成人のときどんな予言を貰ったんだ?」
「そう面白みのあるものでもありませんでしたよ。いずれ栄光を掴み、フェルマ家はいっそう繁栄するとだけ。公爵家の名誉以上に何があるのかはわかりませんが――廃れると言われるよりはましというところです」
「ふむ。それほど具体的でもないんだな」
「外れては信憑性が失われますからね」
「成る程」
そう言われてみると納得できるような感じもする。予言とは当たるからこそ予言なのだ。後から責められたり、相手の機嫌を損ねたりしないように、予言者を名乗る者はあまりはっきりと未来を言わないのかもしれない。
「気負う必要はありません。ただあるがままに受け入れればいいのです。何を言われようが、事実が訪れるまでは当たるも当たらぬもわかりませんから」
「そういうものか……?」
「堂々としていなさい。殿下はいずれ国を背負って立つお方なのですから――きっと、ゴーメーが祝福してくださいます」
イースイルは自分が王になったらどうなるか考えた。現国王である父は老いの兆しが見え始め、そう遠くない未来に退位することになる。そして自分が後継として選ばれたなら、その時はパレイゼが補佐についてくれるだろう。他にも優れた政治家や、軍人の顔が思い浮かぶ。良い臣下が沢山いれば王の仕事はあまりないかもしれないが、ともかく、未来への期待に胸が膨らむようだった。
イースイルには妹が二人いる。一人は同腹の妹ネビューリオ。もう一人は側室グレネ妃の娘ミルディアだ。彼女は王の庶子だが妖精としての才能にはあまり恵まれていなかったため、王の後継として名前が挙がることはまずなかった。
政治家として見るならば、悪くはない。計算高く、それでいて大胆だ。しかし彼女と手を取り合って協力できるかと問われれば、イースイルは何となくその想像ができなかった。歳は近いが反りは合わない――というより、どうしてか得体が知れないものと接しているかのような気分がするのだ。何の根拠があるわけではない。単純に人としての相性がよくないのかもしれないが、腹違いとはいえ妹であるはずのミルディアを危険だと感じていた。
成人式のために神殿に出発するとき、二人の妹たちは見送りのために門のところまでやってきた。並んでみれば一応父親が同じだから顔立ちが似ていないわけではないが、どうにも兄妹という感じがしなかった。
まず下の妹のネビューリオが言った。
「御成人おめでとうございます、お兄様。道中は害獣が出ると聞いております。どうかお気をつけて、行ってらっしゃいませ」
それからミルディアが言った。
「成人の日を祝し、心よりお祝い申し上げますわ。よい予言を受けられることをお祈りしておりますわね」
妹たちは微笑んで祝福したが、その笑い方は全く違っているように感じられた。
二人の妹に見送られて、イースイルは従者の騎士たちと共に城を発った。馬代わりに使われる魔物の一角獣が引く馬車は王家のものというだけあって立派な作りで揺れが少ないから、暫く籠っていてもそう疲れることはないだろうと思われた。
とにかく成人式さえ終われば、晴れて成人と認められ、今まで以上に積極的に国政に関わっていくことができる。よき王となるために、いっそう励んでいかなければならないのだ――まずはそのために予言を受けなければならない。イースイルは気を引き締めた。