1 2人の旅は、少しずつ
女神ナジェリ信仰の聖地であるゴウニケに行く、と鎧獣人のおっさん――ヴァレオさんに宣言されてから、三日後の朝。
「巫女姫様」
私はランプを持った世話係のイズータさんに起こされた。部屋はまだ暗く、それでも小さな窓が切り取る空の夜は薄くなり始めている。
イズータさんに手伝ってもらい、甲冑を身につけた。まだユグドマとツーリ両国の停戦条約が結ばれていないから、念のため、だ。
目をこすりながら冷たいハムとパンを食べ、ようやく燃え始めた暖炉の炎に照らされながらボーッと待っていると、ノックの音。
扉を開けると、おっさんが立っていた。私と同じく甲冑姿だ。
おっさんはおはようも言わずに、
「行くぞ」
と先に歩きだした。私はイズータさんに「行ってきます」とだけ声をかけ、黙ってついていく。背後で扉が閉まり、静かな塔の中に施錠の音が響いた。
石段を降りて、鋲の打たれたごつい扉の隙間から外に出た。ユグドマ軍の駐留している東原砦は、まだ静まり返っている。朝靄の這う内中庭を横切って中門に向かいながら、ふと尋ねてみた。
「おっさ……ヴァレオさんは、いつもどこで寝起きしてるの?」
「外郭の北辺」
おっさんはぶっきらぼうに言う。
私は頭の中で思い浮かべた。ええと、上空から見たとするとこの砦は、ぶっといゴシック体で書いた漢字の「回」の形をしている。八つの角にはそれぞれ、大小さまざまな塔が立っている。
私が寝起きしているのは内側の「口」、つまり内廓の、左下の角。三階立ての塔の一番上だ。そしておっさんがいるのは外側の「口」、つまり外郭の北辺だそうだ。
内郭の門の手前で、サイにそっくりの鎧獣が待っていた。パールホワイトの身体に、元々固い皮膚をさらに補強するような甲冑をつけ、背中にはすでに鞍も載せられている。
「おはよう、ソルティーバター」
私がつけた名前で呼びかけると、彼女は「シュオ」と声を上げた。返事してくれてるみたいで嬉しくて、頬が緩む。なんだか、この子に会うのが唯一の癒しになっているような気がする。
ありがとう、という気持ちで、私は彼女の首のあたりを軽く叩いた。
急に、ぐんっ、と身体が持ち上げられた。
「わぁ!?」
驚いて身体をひねると、おっさんが片手で軽々と私の腰を抱いている。そのまま持ち上げられ、ソルティーバターの鞍の上に乗せられた。
な、何、何でいつもみたいに自分が先に乗って引っ張り上げないんだろ。下から持ち上げられる方が痛くないから助かるけど、なんか恥ずかしい。
あ、私とソルティがだいぶ仲良くなったから、先に乗せても大丈夫だってなったのかな。そっか、なんだ。
しかし、さすがは力持ちだなぁ。だって私、ここに来てちょっと痩せたかもしれないけど、それでもそれなりの体重はあるでしょ。そこに甲冑を着てるわけじゃない。でも軽々と抱っこして。
だ、抱っこ。うええ、やっぱり恥ずかしい。
思考がストップしているような気がするのにぐるぐるして、まるで脳内が滑車を回しているハムスター状態になっている私の後から、おっさんが乗った。私の両側からおっさんの手が回って来て、手綱を握る。大きな手だ。
かけ声がかかり、ソルティーバターは歩き出した。
門を抜けるとき、私たちとは逆に外中庭から入ってくる人影があった。護衛らしき兵士を伴っている。
ローブのフードを深くかぶったその人は、ちらり、と顔を上げてこちらを見た。性別のよくわからない皺だらけの顔、やや白濁した瞳。私と視線が合うと、にっこりと微笑みを作る。
――精霊使い――
その笑みの無邪気さに、かえって背筋がぞっとする。私は目が離せないまま、もやの中に消えていく姿を黙って見送った。
あの人は、私がこの世界に来た時、その場にいた人だと思う。私の家族についての記憶がなぜ精霊に奪われたのか、知ってるんだろうか。
「精霊のことは、俺は詳しくないが」
おっさんが低く言った。
「あんな雰囲気の、別の精霊使いを見たことがある。そいつはいつの間にか、姿を消しちまった。文字通り」
「……?」
「精霊の世界に飲み込まれて、消えちまったんだ。今の奴も、人間の世界から精霊の世界に半分踏み込んじまってる奴の表情だ。おまえをこっちへ呼び寄せたことについてどうこう言ったって、話の通じる相手じゃない……今はただ、前を向け」
私は唇をかんで震えを押さえながら、前方に視線を移した。
家族の記憶は、私自身とちゃんとつながっている。それをおっさんに教えてもらったばかりだ。
今はただ、前を向こう。
外郭の門を出てしばらくは、砲撃か何かを避けるためだろうか、両側に石壁のある通路が続いている。そこを抜けると、道の両脇に荒れ地が開ける。
おっさんはすぐに道から荒れ地に降り、足でリズムを取るようにソルティーバターのお腹を蹴って、ややスピードを上げて北へ進み始めた。陽が昇り始め、前方に山脈が見えているけれど、麓のあたりは霞んであまりよく見えない。道は、緩やかな登り勾配になっているようだ。
「何しろ、もめ事の焦点になってる場所だからな。聖地ゴウニケに直接入んのはまずい」
おっさんが前触れもなく、説明を始めた。
聖地ゴウニケに参拝に行く場合、今までは自由国境地帯に出て北に向かい、山間の道を行くのが普通だったらしい。聖地は山に囲まれた盆地にあるのだ。
でも、今はその道は、ユグドマとツーリ両国の軍隊によって封鎖されているとのこと。
「だから、国境は出ねぇ。ユグドマ国内の、ゴウニケを見下ろせる山の上まで行く。聖地を目にすりゃ、色々つかめるものもあんだろ。あの場所ならな……」
私はうなずいたけれど、正直ちょっと疑問だった。
見るだけで、何かわかるんだろうか。見ただけで感銘を受けるような、何か特別な外観をしてるの?
今暮らしている砦は無骨な石造りだし、大きさも一番高い主塔でさえ四階程度。鎧獣人の集落はちょっと変わった石のドームだったけど、そこまで珍しいという訳でも……
いきなり神殿だけすごい外観だとは、なかなか想像できないんだけど。
休憩を挟みながら進んだけれど、お昼前には私はへとへとだった。慣れない移動手段は本当に疲れる。乗り物酔いには強いので、まだマシかもしれないけど。
緑がちらほら増えてきた? と思ったら、小さな町にたどり着いた。こちらの世界で初めての町だし、ちょっと観察してみたいところだけれど、私はもう足ががくがく。ソルティの鞍からおっさんに引きずられるようにして降りる始末だった。
往来を、ちらほらと人が行き交っている。シャツにズボンや、ワンピースにエプロンの労働者が多いけど、ボタンのないコート――ガウン? のような裾の長い服を着ている男女もいる。中流かそれ以上の家庭の人、といった感じだ。
おっさんはさくさくと私を引っ張って歩き、一軒の店に入った。
板張りの床に机と椅子、そして正面にカウンター。西部劇に出てくる、酒場みたいなところだ。食事がメインだけど、二階で宿泊もできるらしい。
煤けたカウンターに座ると、私には何も聞かずおっさんが適当に注文した。ちらちらと店内を見ながら待っていると、無口なおばさんが木製の深皿を私の目の前に置いた。
お芋と腸詰め(ソーセージ、というより腸詰め、って感じだった)の入ったスープが、湯気を立てていた。
「いただきます。……はぁ、おいし……」
「そうかぁ?」
「あつあつの食べ物、あんまり食べられないから……」
「ああ……厨房から世話係が運んでんのか? そりゃ冷めるだろうな」
「厨房って、どこ?」
「お前や偉いさんの食事を作ってる厨房は、内廓の北辺。俺らはまた別だけどな」
偉い人たちは内郭の西辺で暮らしていて、厨房とは建物の中を通ってすぐなのだそうだ。でも、南西にある私のいる塔は独立しているので、運ぶのに時間がかかる、と。
……私の部屋は、小さいとはいえ暖炉があるんだし、火の上にぶら下げるようなお鍋を借りれば、何か調理できるんじゃないかなぁ。そうしたら、温かいものが食べられるかも。まあ、私が作れるのは卵料理とカレーくらいだけど、こっちではカレールーは売ってないだろうな。
料理したいなんて言ったら、イズータさんがいい顔しないかも……と思っていたとき、ちょうどおっさんがその彼女の話題を出した。
「お前んとこの世話係、お前に似てるよな」
「え?」
「いつもビクビクしてるところがよ。一人で食事運ぶ時とか」
おっさんは豪快に音を立ててスープをかきこみ、もっしゃもっしゃと咀嚼してから続けた。
「砦にいる女は、お前とあの世話係だけだからな。で、お前は巫女姫サマだからよ。兵士の奴ら、世話係の方にからむんだろうな」
「そ、そうなの!?」
外出はほとんどせず、いつも私と部屋にいるイズータさん。
私が外出すると、すぐに鍵をかけて閉じこもるイズータさん。
あれは、外が怖かったからだったんだ。毎日、そんな思いをしてたんだ。自分のことで精一杯で気づかなかった。
「どうしてイズータさんは、私の世話係として砦に来ることになったのかな……」
半分独り言で言ったんだけど、おっさんが答えてくれた。
「巫女姫の世話をする女が必要だって話になってた時に、料理長の娘が砦に何か届けに来て、ちょうどいいからお前やれ、って話になったらしい。それが、あの世話係」
うわ、そうなんだ……。それは本人も、それに料理長も断れなかっただろうな。
……帰ったら、イズータさんと少し、話をしてみようか。例えば、一人で食事を取りに行く時に誰かにからまれるなら、私も一緒に厨房まで取りに行ってもいいし。あ、そこで食べさせてもらっちゃってもいい。
何か、イズータさんが楽になる方法があるかもしれない。
ふと、私はおっさんを見上げた。
そういえばこのおっさんは、私に関すること以外、普段何をやってるんだろう。
「あの……お仕事は、いいんですか。あ、えっと、私のことじゃなくて……私に関する仕事をやらされる前は、別の仕事をしてたんじゃ?」
おそるおそる尋ねてみると、おっさんは斜めに見下ろすようにして私を見ながら、口を開いた。
「……俺は軍人だが、基本的には甲冑師だからな。戦闘にも参加するが、戦いで傷ついたりへこんだりした甲冑をその場で直すのも仕事だ。停戦交渉中の今は、大した仕事はない。訓練でゆがんだ甲冑を直すくらいだ」
そうなんだ。ん? そういえば、たまに私の部屋の窓から、金属音が聞こえることがあるけど……
「甲冑を直す仕事って、どこでやってるの?」
「外郭の、南西のあたりだな。おら、しゃべってばかりいねぇで、食う方でも口を動かせよ」
少々イラッとした口調で言われて、私はあわてて残りをかき込みながら、頭の中で見取り図を思い描いた。
なんだ、私がいる塔のすぐ外側で、おっさんは普段仕事してるんだ。帰ったら、窓は小さいけど、ちょっとのぞいてみよう……
その町から、山の登山口はそう遠くはなかった。山道もしばらくは鎧獣で登れるような道で、順調に進んだけれど、それも別の地方と分岐する峠まで。人の通らない方の、道とも呼べないような道に入ると、私とおっさんは降りてソルティーバターを牽き、木の根と岩を避けながら進んだ。
ちなみに、「お花摘み」に行きたくなると、ソルティがついてきてくれた。というか、山中は怖いから、私が手綱を牽いてついてきてもらった。いいんだもん、女子はトイレに行くにもつるむんだもん。
夕方になると、岩の天井のあるちょっと開けた場所で、野宿をすることになった。
「もうすぐゴウニケが見える地点だが、すぐ暗くなるのに行ってもしょうがないだろ」
ということらしい。テントとかバンガローのない場所でキャンプするのは、初めての経験だ。
おっさんが火打ち石のようなものを使って、ランプに火を灯す。夕食は例によってパンとかハムとか、簡単なものだった。
疲れているときは、食べるための体力さえ惜しい。へとへとの私はどうにか食事を終えると、おっさんが渡してくれた畳んだままの毛布を広げることもせず、それを枕に岩に寄りかかって、甲冑姿のまま目を閉じた。
「なあ。ちょっと話しておくが……って、何だよ、もう寝たのか」
何か話そうとしたらしいおっさんの野太い声さえ、天使の子守歌……
早朝の山中。
岩に張り付いた苔のようなものを食べているソルティを残し、私とおっさんは半分崖登りみたいな感じで、岩につかまりながら上を目指していた。ううっ……昨日の筋肉痛がすでに……辛い。
ぜえぜえ言いながら上りきり、あっ、空が広い……と思ったら。
後からひょい、と登ってきたおっさんが岩棚の上に立ち、太陽の光の射す方を指さした。
「あれが、聖地ゴウニケだ」
私はおっさんの隣に立つと、山の合間に眠るその地を見下ろした。