5 塩味のきいた呼び名
建物の裏手に回ってみると、おっさんが井戸で水を汲んでいた。ロープのついた桶で汲み上げた水を、地面に置いた木製のたらいのようなものに空けると、鎧獣が静かに頭を下げて飲み始める。
おっさんが私に気づいて顔を上げた。
「終わったか」
声をかけられ、私はうなずく。
女性の鎧獣人を見た後なので、改めて違いを探しておっさんをじっと見つめてしまった。灰色の髪も髭も、ちょっと固そうな感じ。逆三角の身体は腰で引き締まり、太腿やふくらはぎは太い。ある意味、ボンキュッボンだ。ん? 脛当てから覗いてる足、これはやっぱり靴を履いていない? 三つに割れた蹄が……
「何だよ」
じろじろ見ていたら、おっさんに眉を逆立てられてしまった。
水を飲む鎧獣を眺めながら、おっさんと私は立ったまま沈黙する。鎧獣は、今は兜を外されていて、パールホワイトの顔と小さな目、そして二本の角がよく見えた。
サイの角って、実は毛が固くなったものだって聞いたことがあるけど、鎧獣もそうなのかな。
「この、角って、毛でできてるの?」
おそるおそる聞いてみると、どうやら違ったらしく、またおっさんは眉を逆立てた。
「はぁ? 何で毛なんだよ、角は角だ。頭蓋骨から生えてる」
「さいですか」
…………うっ。
「何がっくりしてんだ」
井戸端に手をついて脱力した私に、おっさんがいぶかしげに声をかける。
いや……おっさんは気がつかないと思うけど、全力でどうでもいいダジャレを今うっかり日本語で言っちゃったんだよ私……
「ええと、この子、おとなしいね」
ごまかすようにそう言うと、おっさんは短く、
「雌だからな」
と言った。鎧獣の雌って、おとなしいんだ。
「触っても……?」
「もう乗っただろが」
でした。
私はそっと、耳の後ろあたりを撫でた。鎧獣の青い目がちらりと私を見て、すぐに水の方に戻る。
ふふ、この目がね、ちょっと瞼の皮膚が分厚くて眠そうな感じが可愛いと思うんだ。私は久しぶりに頬が緩むのを感じた。
視線を感じて顔を上げると、今度はおっさんが私を見ていた。なんだろ……おっさんも、私のあれこれが珍しいのかな。瞳の色とか。
お互いの視線が、あっちに行ったりこっちに行ったり。変な感じ。
まあいいや、と私は鎧獣の観察を続ける。
目が横についてるってことは、草食なのかな。肉食獣が襲ってきたらすぐに気づけるように、広く見渡すためにそうなってるって、どこかで聞いた。でも、これだけ皮膚が固かったら襲う方も大変そうだけど。
……砦に、戻りたくないな。
自然とため息がこぼれる。また「姫」って呼ばれて、交渉の場に連れて行かれるんだろうか。
そうだ、名前……。この子だって私みたいに、ちゃんと名前を呼ばれた方が嬉しいかもしれないよね。
おっさんを見ると、彼は軽く顎を上げて「ああん?」みたいな感じに私を見つめ返した。いつも次へ次へと行動するおっさん、今は何だか静かだ。質問もしやすい雰囲気。
「あの、この子にも名前、あるの?」
聞いてみると、おっさんはうなずいて答えた。
「『塩湖に映る、溶けるような金の陽光』」
「……は?」
何で突然、ポエムな情景描写? おっさんに全然似合わないんですけど。
まさかとは思うけど、ここ笑うところ?
頬をひきつらせていると、おっさんは面倒くさそうに言った。
「だから、今のがこいつの名前だ」
「どの部分が?」
「全部だよ。『塩湖に映る、溶けるような金の陽光』」
「それが名前!?」
思わず言ってしまった私を、水を飲み終えた鎧獣がちらりと見たので、私はあわてて口を押さえた。
ご、ごめん、バカにしたわけじゃないんだよ。でもこれじゃ、さっき私のことを「ズー」って言ったおっさんと変わらないよね。反省。
「鎧獣につける名前としちゃ普通だ」
おっさんはますます面倒臭そうに言う。
「特に『塩』の入った名前は伝統的なんだぞ。欠かせない貴重なもの、という意味でつけるからな」
「そ、そうなんだ。でも、長い……よね? 呼ぶとき大変そうだな、なんて……」
「呼び名じゃねえし。守り札みたいな意味で名前を持たせるだけだ」
「呼び名が別にあるの?」
「必要ねえだろ。元々数が少ねえし、見りゃ区別はつくし、普段から近くにいるんだから『おい』とか『お前』とか呼びゃあ」
何、その熟年倦怠期夫婦。
「ちゃんと、呼び名、決めればいいのに」
「気になるならお前が勝手に決めりゃいいだろ。……おら、もう乗れ。暗くなる前に帰るぞ」
おっさんはチラッと空を見上げてから言うと、脇に置いてあった兜を鎧獣に被せて革ベルトでとめた。
「え、もう帰るの?」
「これ以上はダメだ。こいつは夜目がきかねぇ」
おっさんは先に鎧獣に乗ると、私の腕をつかんで引っ張りあげた。
痛いなぁもう……
文句を飲み込み、私はちょっと首をひねっておっさんを見た。
「何だよ。さっきからジロジロジロジロ」
眉を逆立てられ、私はあわてて首を横に振って前を向いた。
……さっき、「これ以上はダメだ」って……
もしかして、私がギリギリまで砦に帰らずに済むようにって、待っててくれた、とか。
おっさんのかけ声に答え、鎧獣はゆっくりと歩いて村を出た。荒野に出てからスピードを上げる。
おっさんはむっつりと黙っている。でも、前ほどそれが気にならなくなってきた。戦場に女の子がいるのを気にして怒ってくれてるんだと思えば。
それに、もう一つ思いついたこともあった。
この人、私の監視役(教育係?)にさせられ、いつも私の側にいることで、女の子を戦場に出すような人間たちと同列に見られるのも嫌なんじゃないかな。それでいつもイライラしてるんじゃ……
鎧獣の背中に揺られ、自分の甲冑の背中部分に、おっさんの甲冑がゴツゴツ当たるのを感じる。
私がちゃんと巫女姫の役割を果たすことができれば、おっさんも解放してあげられるんだろう。
でも、その時私は……?
「おい」
はっ、と思いの底から浮上する。おっさんが言った。
「寝るなよ」
「寝てません。ちょっと、考えごと」
「呼び名か。こいつの」
「あ? あ、そう。そう」
そういえば鎧獣の呼び名、「お前が勝手に決めりゃいい」って言われたんだった。適当に言っただけかと思ったら、本当に私がつけていいんだ?
本名、何だっけ。塩の湖がどうとか……そう、このあたりは内陸らしいから、塩は海から手に入れるんじゃないのかも。塩湖とか岩塩とか、そういう由来の塩なのかな。とにかく貴重なものなんだろうし、おっさんも伝統的に「塩」と入れるのが大事だって言ってたから、呼び名にも入れたいところだ。
でもこの子、雌だって言ってたけど、「塩」って入れるとあんまり女の子っぽくないなぁ。「塩」……英語だとソルト、か。
えーと、塩湖に光が当たって輝いて……溶けるような、とも言ったっけ。海に沈む夕陽、見たことあるな。水面が金色に揺れて……。
ソルト。溶ける。金色……。
「ソルティーバター」
ふとつぶやいたら、鎧獣が「シュオッ」というような声を出した。
「わ、鳴いた!? 声、初めて聞いた」
驚いていると、おっさんが鼻を鳴らした。
「何だ今の。『ばた』?」
「え、あ、ソルティーバター……うんと、何て言ったらいいかな、お菓子の甘みを引き立てる味付け方法っていうか?」
「もうそれでいいじゃねぇか、呼び名」
「えっ、いいの?」
私が鎧獣の顔をのぞこうと前のめりになると、
「お前が呼びたいように呼べ」
とおっさん。おっさんには聞いてない。
「ねえ、いいの?」
鎧獣の耳の後ろあたり、鎧から覗く肌をちょっと触りながら、聞いてみた。前を向いたまま走っている鎧獣の大きな耳が、くるりと私の方に回り、また「シュオッ」という鳴き声。
うーん、いいのかな。いいか。なんだか可愛いような気もしてきた、ソルティーバター。カタカナでちょっと長めだと競争馬の名前みたいだけど(オグリキャップとかサイレンススズカとかみたいな)、それも愛嬌?
ん、じゃあ決めた。ソルティーバターね!
私は走る彼女を心の中で応援した。
頑張れソルティーバター、ソルティーバター早い、逃げきるかソルティーバター!
砦の外郭が見えてきた。
ソルティーバター、今一着でゴール! 見事な走りでしたソルティーバター!
「何ニヤニヤしてんだ」
先に降りたおっさんが私の顔を見て言い、私は焦って目を逸らした。
「べ、別に」
結局、私は外中庭にある厩までついて行き、おっさんがソルティーバターを中に入れるところを見せてもらった。彼女にバイバイを言っている私を厩番の兵士がチラチラ見ていたけど、おっさんに視線で威嚇されてどこかへ行ってしまった。
すでに陽は落ちかけていて、砦のあちらこちらで篝火が燃やされ始めている。おっさんは私と一緒に内中庭を抜けて建物に入り、三階の私の部屋まで送ってくれた。
「少しは甲冑についてわかったんだろうな?」
暗い廊下の扉の前で聞かれ、私はためらいつつもうなずく。
「す、少しだけなら。たぶん……」
声が聞こえたのか鍵の開く音がし、扉が中から開いてイズータさんが顔を出した。
「お帰りなさいませ」
「あ、ただいまです」
返事をしているうちに、おっさんは「じゃあな」とだけ言ってさっさと去っていってしまった。
そういえばおっさん、いつもはどこにいるんだろう。
部屋の中に入りながら、私はイズータさんに報告した。
「鎧獣人さんたちの集落に、行ってきました」
「……」
黙って扉を閉めるイズータさんは、どうも鎧獣人が苦手みたい。おっさんとも全然、目を合わせないし。
まあ、私にもフレンドリーではないけど、それは仕方ない。最初に私の方が、彼女を拒否しまくってたんだし。せっかく同い年くらいなのに、私ってば……
「私の、新しい甲冑を作ってくれるそうです。だから、あの」
せめてこちらから、イズータさんに話しかける。
「甲冑の下に着る、服があるって聞いて。前にイズータさんが勧めてくれたのが、そうですか? 新しい甲冑を着る時は、それを着てみようかと思うんですけど」
イズータさんは顔を上げて、私を見た。
「……ご用意しておきます」
そういう彼女の目元が、少し柔らかくなったような気がした。
ほんの少しホッとした私は、ランプと暖炉の火に照らされた部屋を見回した。
「あ、これ、夕飯ですか?」
布がかかった何かが、ローテーブルに置いてある。さすがにお腹が空いちゃった。ソルティーバターも今ごろ、何か食べてるかな。何が好きなのかな。
イズータさんに甲冑を脱ぐのを手伝ってもらい、私は制服姿になると、固いソファに腰かけた。イズータさんがテーブルの上の何かに被さっていた布を取り去ると、豆と肉を煮たものが入った小さな椀と、パンの入ったかごがあった。
「いただきます」
私はスプーンを手に、急いで食べ始めた。料理は冷たくなっていたけど、イズータさんが白湯をカップに入れて置いてくれる。
あぁ、栄養が沁みる……だって私、ほぼ丸一日何も食べてないんだよ。今朝の食事はおっさんに食べられちゃったしさ。
こちらの料理は味付けがかなり薄いけど、それでも今は美味しく感じる。夢中でかきこんでいると、イズータさんが部屋の隅のトルソーのようなものに甲冑を着せかけながら、言った。
「先ほど、連絡がありました」
イズータさんを見ると、彼女は手を動かしながら続けた。
「第二回停戦交渉の日が、決まったそうです」
私は、スプーンの動きを止めた。
「五日後だそうです」
続けるイズータさん。
「……そうですか」
私は答え、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。
ついさっきまで美味しいと感じた食事は、もう何の味もしなかった。