5 署名
厩舎から自分の部屋のあるアーチまではすぐだったけど、私はほんの少しためらってから、広場の方に入った。部屋に戻ったらミリンダさんがいるだろう……今は、一人になりたい。
そうだよ、イズータさんミリンダさんは一人の時間があるけど、私にはないじゃない。少しくらい、一人で出歩いたって許されるよね。
参道に入ると、今日はこっちの作業はないのか、誰もいなかった。私はスタスタと池の間を歩き、神殿に近づくと、ぽっかりと洞窟のように開いた入り口から中に入った。
中は学校の教室一つ分くらいの広さのあるホールで、奥に石の祭壇がある。その祭壇を回り込むように覗くと、奥から下り坂が始まっていた。暗い空間から、湿った涼しい風が吹き上げてくる。時々、戯れのように『女神の音楽』が聞こえる。
奥に入るのは怖いので、参道から見えない位置に移動するだけにした私は、岩壁に寄りかかる格好でしゃがみ込んだ。膝に額をつけ、ため息をつく。
目を閉じていたら、また、日本の記憶が蘇ってきた。
自転車に乗って、川の土手の上を走っている。
水面に映る、黄金色の夕陽。
橋を渡っていく電車の、カタンカタンという遠い音……
ここにいるとたやすく記憶が浮かぶのは、やっぱり近くに私の記憶があるから、なんだろうか。
ざりっ、と小石を踏む音がした。
はっ、と顔を上げると……ミゾラムさんが驚いたような顔で、神殿の入り口から覗いていた。
「走って行かれるのが、見えたので。……大丈夫ですか?」
「あ」
私はうろたえた。
もう戻らなきゃいけないのか……今は正直、放っておいてほしい。
視線を逸らして、口をつぐむ。
ミゾラムさんはちょっと黙っていたけど、やがて、固い口調でこう言った。
「姫。お聞きしたいのですが……もしかして、ユグドマにいる間に、精霊使いと会いませんでしたか?」
顔を上げそうになるのを、私はかろうじて押さえる。
ユグドマの砦にいた、精霊使い。しわくちゃの顔で子供みたいに笑う、不気味な人物。
おそらくあの人が、精霊魔法で私の記憶を……
ミゾラムさんは、私の返事を待たずに続けた。
「姫はご存じかわかりませんが、昔、記憶を奪う精霊魔法があったと聞きます。もしかして」
「そんなこと」
私は急いで顔を上げ、半泣きになって言った。
「わ、私、女神ナジェリと夢でお話しました。巫女の役目も果たしているつもりです。そんなこと言わないで下さい」
「申し訳ありません、姫のことを疑っているわけでは」
ミゾラムさんはゆるゆると首を横に振った。
「お忘れ下さい、僕もこんな話は誰にもしません。停戦協定が破られる原因になるようなことは、僕も望んでいませんから。……ただ」
彼は、私の前に片膝をついた。眉をひそめて見つめる視線が、私の視線と出会う。
「ただ、姫が、辛そうに見えて……。僕では、助けになりませんか?」
一瞬、何もかも話してしまおうかと思った。
停戦協定が破られることをミゾラムさんが望んでいないなら、私が本物の巫女姫ではないことを知っても、彼はそれを他の人にはバラさないだろう。だったら、精霊使いである彼に全部話してしまった方が、記憶が戻るように助けてくれるかもしれないじゃない? 今、まさにこの神殿の中に、記憶が眠ってるかもしれないんだし。
――でも結局、私は、話さなかった。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
無理矢理笑みを作って、立ち上がる。
ヴァレオさんと、「停戦協定が結ばれたら、記憶を戻すために精霊使いを探そう」という話はした。でもそれは、ツーリのお目付け役に全部話すことと同義ではない。
今、ミゾラムさんに話すのは、やっぱりだめだ。
『どこかおかしいんだよ、あいつ』
ミゾラムさんについて何か気になってるらしいヴァレオさんを、信じてるから。
一日一日、門前町の建物群は綺麗になっていき、物資なども搬入され始めた。
私は自分の部屋の、小さなバルコニーになっている所から、広場や参道、そして神殿を眺めていた。
そういえば、いよいよ参拝OKってなった時、どうやって両国の人に知らせるんだろ?
そんなことを考えていると、後ろからイズータさんの声がかかった。
「姫様、ヴァレオさんとミゾラムさんがお見えです」
「あっ、はい!」
急いで部屋の中に戻ると、すぐに両開きの扉から二人が入ってきた。相変わらずの甲冑姿のヴァレオさんと、ローブ姿のミゾラムさんだ。
ヴァレオさんと目が合って、思わず目をそらして、でも様子が気になってまたちらちらと見てしまって……と、挙動不審な私。ヴァレオさんの方はというと、何だかきまり悪そうな感じではあるけど、怒ってはいないみたい。
「姫、だいぶ生活は落ち着かれましたか。まだ不自由なこともおありとは思いますが」
ミゾラムさんがあいさつしてくれる。
「わ、私は大丈夫です。なにもお手伝いできなくて、ここにいるだけの巫女姫でごめんなさい」
言うと、ヴァレオさんが混ぜっ返すように言った。
「そんな巫女姫さんに、いよいよ仕事だ」
「えっ」
ぎょっとしてヴァレオさんを見る。
ヴァレオさんがイライラしてないのは嬉しいけど、仕事って? なんか嫌な予感。
彼は続けた。
「聖地として、一応参拝者を受け入れられる状態になったと、俺とミゾラムは判断した。おま……姫に最終判断してもらって、それから両国に触れを出してもらう」
触れ……お触れ? 手紙みたいなものを書くんだろうか。で、でも私、こちらの文字が……
「文案はこちらで考えました。姫様には一度施設をごらんになっていただき、最終判断の後で、ご署名をお願いいたします」
ミゾラムさんが言った。ほっ。
「で、お前も挨拶で言ってた通り、ここの参拝が始まるってことは平和の印だ。ちょっとした式典を執り行うことになる。まあ、その辺はおいおい、だな」
「うぇえ……」
また人前でなんかやるの……
私はげっそりしてしまったけれど、まあでもあの罵倒されまくった停戦調停よりはマシなはず。一回だけだし、がんばろう。
と思っていたら、
「それと、参拝者が訪れ始めたら、日に何度か神殿にお姿を見せていただけると……皆、喜ぶと思います」
ミゾラムさんが付け加えた。うう、一回だけじゃなかった……
とにかく、私はヴァレオさんミゾラムさんと一緒に、広場に出た。私は宿泊施設やお店の建物の中には入ったことがなく、今回初めて入らせてもらったけれど、自分が参拝に来たところを想像してみると十分快適そうだった。
そこで、部屋に戻ってから、何やら薄茶色い紙に書かれた二枚の「お触れ」に日本語で署名した。名字が思い出せないままなので、下の名前だけ、だけど。
ヴァレオさんミゾラムさんも責任者として署名し、それぞれ丸めて封蝋(初めて使った!)で封をした。
二人はお触れを、一枚ずつ手にする。
「それでは、これをツーリの王城に届けさせます」
ミゾラムさんが言った。
「王城から発表があれば、ツーリの国民は喜んで参拝に訪れるでしょう。待ち望んでいましたから」
すると、ヴァレオさんが言った。
「ユグドマの方は、俺が行ってくる」
え? と見上げると、彼は淡々と言った。
「東原砦に用があるから、ついでにな。そこから王城に使いを出して届けさせる。俺は砦に一晩滞在したら、すぐにこっちに戻る」
良かった、それならヴァレオさんの不在はほんの数日だ。
少しだけホッとしたけど、まだ不安は大きかった。ヴァレオさんが近くにいないと、なんだか安心できない。ずっと、そばにいると思ってたから……
「ここが開放されたら、婚姻の儀式をしに来る人もいるかもしれませんね!」
ミリンダさんが、並んで立っているイズータさんに話しかけている。「あ、そうですね」と答えるイズータさんの口調も明るい。
「結婚式を、ここで? 戦争の前はやってたんですか?」
二人の顔を見比べながら聞いてみると、ミリンダさんが笑顔で答えてくれる。
「はい。姫様は、このあたりの婚姻の儀式はご覧になったことないですよね。素敵ですよ、二人で精霊にお願いするんです。『精霊よ、二人の守護精霊を結びつけよ。命ある限り、二人がともにあるように』」
「『命終わる時も、二人が同じ場所に帰るように』……」
ぽそっ、とイズータさんが続けた。ミリンダさんと顔を見合わせ、ぎこちなく微笑む。
へぇ……と声を上げながら、二人の様子に和んでいると、一方のヴァレオさんとミゾラムさんが別の話をしているのが聞こえてきた。
「ミゾラム、こいつ……姫に何かあったらお前の責任だからな」
「巫女姫は平和の象徴です、ツーリは姫をちゃんとお守りしますよ。ユグドマの兵にはおかしなのはいないでしょうね」
「いるわけねぇだろ、俺が選んだんだぞ」
……何てコメントしていいのやら。
「じゃ、俺は不在の間の引継をしてくる」
ヴァレオさんが立ち上がった。ミゾラムさんも続いて立ち上がりながら、
「蹄の鳴らぬ間に、僕は僕で気楽にやらせてもらいますか」
と言って、ちらりと私を見た。
蹄の鳴らぬ間に、というのは、こちらではどうやら『戦いのない間に平和を謳歌しよう』という意味らしい。そして今ミゾラムさんは、獣人であるヴァレオさんを強いものとして自分より上に置いて、ヴァレオさんがいない間に小者の自分は羽を伸ばそう、というへりくだった意味で言ったみたいなんだけど……
私を見たってことは……それに、ヴァレオさんがいない間に何かやる、っていえば、アレだ。
ミゾラムさん、いよいよ神殿の奥に入ってみる気なんだ。
「姫も?」
さりげなく、ミゾラムさんが笑い含みに尋ねてくるので、私は苦笑して見せながら首を横に振った。
神殿の奥に興味はあるけど、やっぱり怖いし、ヴァレオさんのいない時にミゾラムさんとこっそりなんて、絶対ダメ。
ミゾラムさんが肩をすくめて、了承の意を返した。
──ふと見ると、ヴァレオさんが私たちをじっと見ていた。
あれ、何かやらかしたかな、私? と不安になっていると、彼はなぜか気まずそうに視線を逸らしてしまい……
それから仕切り直すように、いつものお小言を言った。
「何だよ、姫もって……俺がいないと気楽だってか」
そんなこと気にしてたのか、と、私はあわてて首を横に振って、何でもないように話を変える。
「ソルティに乗っていくの?」
「……いや、今回は馬で行く。仔がまだ小さいから連れて行けねぇし、それなら親子で残った方がいいからな」
「そっか。私、時々厩舎に様子を見に行くね」
私が言うと、ヴァレオさんはうなずいた。
そしてまた私を見たままちょっと黙って、何か話があるのかな? と思った時には、
「じゃあな」
と踵を返してしまったのだった。
きっと、自分がいない間にミゾラムさんが私に近づいて、とか心配してるんだろう。大丈夫だってところを見せるためにも、ヴァレオさんが留守の間、しっかりしなくちゃ。
私の記憶が、神殿の奥にあるかもしれないっていう話をしそびれちゃってるけど……ヴァレオさんが帰ってきて、私がちゃんと巫女姫をやれるってわかってもらってから、話すことにしよう。