1 獣人の苛立ち、侍女の決心
最終章です。ざっくり版の先の物語、お楽しみいただけると嬉しいです。
曇り空を見上げると、獲物を探しているのか、一羽の鳥が緩やかに旋回していた。
視線を下ろし、乗っている馬の向かう方向に目を向ける。自由国境地帯の乾いた土地の向こうに、薄いながらも緑をまとった山が見えていた。二つの山が、まるで門が開くように隙間を開けて聳え、私たちを待っている。
あの向こうが、聖地ゴウニケ。私たち一行が目指している場所だ。
私は一つ、ため息をついた。自分の着ている、美しい白い甲冑の模様をしばらく眺め、本来は剣を吊るす腰の金具に吊るした携帯を眺め、そして粛々と進む馬の上から横目で左側を見た。
サイにそっくりの鎧獣、ソルティバターが、やや早足で馬の横を歩いている。馬に比べると足が短いので、ちょっと急がないとついて来れないらしい。でも、突進すると自動車並みの早さが出ることを、私は知っている。
その鞍の上では、鎧獣人のヴァレオさんが、不機嫌そうな顔で手綱を握っていた。私とほとんど同じ高さの目線だけど、今はこちらを見ていない。意識的に、前だけを見ているように思える。一度剃った髭は、またかなり伸びてきていて、本当は若々しいその容貌をおっさんのように見せている。
右側に目をやると、そちらにいた人とは、視線が合った。馬に乗った、私よりほんの少し高い位置からこちらを見ている視線。黒髪に銀色っぽい瞳、あまり彫りの深くないなじみやすい顔立ちの男性。名前は、ミゾラムさん。
彼の尋ねるような瞳に、私は曖昧に微笑みを返すと、視線を前方に戻した。
そして、再びため息をついた。
――あれは、ユグドマとツーリ、戦争中だった両国の間に停戦条約が締結された、その五日後のことだった。
「お前、ミゾラムに対して警戒心がなさすぎないか!?」
ユグドマの東の端、東原砦。内郭南西の塔の三階。
日本からこの国にやってきて以来、ほとんどの時間を過ごしている部屋で、私はヴァレオさんからお説教されていた。
「最初に会った時から、ベラベラベラベラずいぶんしゃべってたじゃねぇか。ツーリの目的がどこにあんのか、わかってんだろうな?」
ヴァレオさんはソファの横に立ったまま、私に指を突きつける勢いで話している。
「別に、警戒してないわけじゃ……普通にしゃべっただけだし……」
ソファの上で縮こまった私は、弱々しく答える。
「だって、ユグドマとツーリは、停戦条約を結んだんだし。二つの国の間にある聖地ゴウニケを、私が巫女姫として預かることになって。ユグドマのヴァレオさんと、ツーリのミゾラムさんが、私のお目付け役になった。それだけのことでしょ? ど、どっちも贔屓しなければいいんでしょ?」
その日までの間に、条約を結んだ両国の間では、これからのことを上層部で話し合う会談が持たれていた。捕虜の交換が行われ、軍隊は引き上げを始めていた。
私はあと数日で東原砦を離れ、聖地ゴウニケに向かう。どちらの国が管理するかでもめる原因になっていたこの場所には、元々女神の神殿を参拝する人々のための様々な施設があるそうだ。
聖地を預かることになった巫女姫──つまり私──と、聖地を警備したりお互いに牽制しあったりするため(?)に両国から派遣される十数人が、その施設で暮らすことになる。これを巫女姫抜きでやれていれば、ここまで揉めなかったのに、お飾りでも何でも私みたいなのがいた方がいいらしい。複雑だなぁ。
そして、そんな人々の代表が、ユグドマ側はヴァレオさん。鎧獣人の軍人。そしてツーリ側は、ミゾラムさんという若い精霊使いだった。
ミゾラムさんとは、条約の調印式の後で初めて会った。私に、挨拶に来てくれたのだ。
「ゴウニケを巡っては、色々ありましたから……」
砦の内郭、内中庭に面した、主塔のバルコニー。
本来なら偉い人がここに立って、内中庭に並んだ軍人たちを激励するような、そんな場所なんだろうけど、そこに場所を移して私とミゾラムさんは話をしていた。ツーリの人間と二人きりにならないようにする、ユグドマ側の配慮みたい。ここなら、他の人から私たちの様子が見えるもんね。
「これから参拝が復活して、両国からやってきた参拝者の間で、ごたごたすることもあるんじゃないかな、と」
バルコニーに出した椅子に腰掛け、私とほとんど年齢が違わないと思われるミゾラムさんは、礼儀正しく言った。
「何かあった時にどうするか、姫と円滑に意志疎通できるように、僕のことを……お見知り置きいただければと」
確かに、これからしばらく同じ場所で暮らすことになるんだから、ツーリの人とはよく知り合っておいた方がいいよね。
私は私なりに、考えを巡らせた。
ヴァレオさんと私は、私がこの世界に来てからなんだかんだ一緒に過ごす機会があったけど、ミゾラムさんとは初対面。中立の立場で聖地を預からなければならない巫女姫としては、ツーリの代表とも同じように接しないと。
それに……ミゾラムさんは、精霊使いだそうだ。
鎧獣人の長と私は、精霊によって血縁の記憶を失っている。もしかしたら、精霊使いがそれを解決する助けになってくれるかもしれない、そう言っていたのはヴァレオさんだ。ミゾラムさんと仲良くなったら、色々と教えてもらえるかもしれない。
そう思って、この五日の間に何度か、ミゾラムさんと会って軽くおしゃべりをした。
それだけなのに……
「やっぱりわかってねぇな」
ヴァレオさんは苛立たしげに、灰色の髪を乱暴にかき上げる。
「ミゾラムはお前に年も近いし、お前と同じ黒髪で、取っつきやすい雰囲気だよな? そんな男をわざわざお前の側に送り込んでくる目的なんざ、あからさまだろうが! お前を懐柔しようとしてんだよ」
苛立ちを募らせるように、ヴァレオさんは部屋の中を歩き回る。
「お前の興味を引きつける、あらゆるものを持ってんだよ、あの男はっ」
ヴァレオさんの言いたいことは、何となくわかる。でも、わからない部分もある。
私は半泣きになりながらも、勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、ね……でも、仲良くするのが、悪いんじゃないでしょ? ミゾラムさんと色々話をしても、贔屓しなけりゃいいんでしょ? 私、ヴァレオさんとだって……」
──前よりずいぶん、打ち解けたでしょ?
そう言いたかったのに。
「巫女姫様は、ツーリのミゾラムと同じようにユグドマのヴァレオと仲良くして下さると? この俺と?」
ヴァレオさんは両手を広げた。鎧そのものの肩、身体には甲冑、大きな身体に太い足、三本の蹄。
「できるのか、そんなことが? 巫女姫として平等に? ……お前には無理に決まってんだろうが」
ヴァレオさんは、そう言い捨てた。
そして、しばらく黙った後で短く鋭いため息をつくと……そのまま、部屋から出て行ってしまった。
私はおろおろと立ち上がり、待った。ヴァレオさんが戻ってきて、いつものようにお説教を再開するのを。
でも、戻ってくる気配はなかった。
「……う……」
涙を抑えられなくなって、両手で顔を覆うと、横から静かに布巾のような布が差し出される。
――イズータさんの、そばかすの浮いた白い顔が、ほんの少し眉をひそめている。
「……うえぇ……ふ……」
受け取った布巾に顔を埋め、私はソファの上でうずくまった。
ヴァレオさんは、私がツーリの思惑に乗ってミゾラムさんを贔屓すると思ってる。そんなに流されやすいと思ってるの?
本物の巫女姫なら、もっと気高く平等にいられるってこと? でも私は本物じゃないって、こんなに泣き虫で気が弱いってヴァレオさんは知ってるから、だから……
私、停戦交渉、頑張ったつもりだったけど……ヴァレオさんに信用されてるわけじゃないんだ。
──数日後、聖地へと向かう馬の上で私がため息ばかりついているのには、そんな経緯があった。
両国に平等に接しないといけないから、こんな風に移動するときにも、私はヴァレオさんと一緒にはもうソルティバターに乗ることはできない。そのこともまた、寂しさに拍車をかける。
私は誰とも視線を合わせないよう、右手前方に見える川を眺めた。
北から南へと流れるこの川は、聖地を囲む山々の峰から流れ出した水を湛えている。今は穏やかで川幅もそれほどないけれど、十数年に一度の『女神の顕現』が起こった時には、聖地のすぐ南にある渓谷から大量の水が吹き出すという。そして、あたり一帯を襲う洪水が山々から豊かな栄養を運び、以後しばらくの間、下流の土地は豊作に恵まれるのだそうだ。
私はふと、身体をひねって後ろを見た。
慣れない馬に乗って、かなり疲れてきている様子なのは、イズータさん。大丈夫かな。
そう、彼女はなんと、聖地でもしばらく私のお世話をしてくれることになったのだ。
しかも、自分から申し出て!
あの日、私はヴァレオさんが部屋を出ていった後もずっとべそべそしていた。気がついたら、イズータさんの姿もなくて。
食事時でもないのに、彼女が一人で部屋を出るなんて。なるべく私と一緒に出歩くようにしていたはずなのに、珍しいことだった。
きっと、こんな雰囲気の部屋がイヤになったんだ。それとも、イズータさんもヴァレオさんと同様に、私を信用できなくてうんざりしたのかも……
ますます落ち込んでいると、しばらくしてイズータさんが戻ってきた。
「姫様」
固い表情の彼女に、私は何を言われるのかとおびえて思わず立ち上がった。
「ご、ごめんなさいっ、メソメソして」
寝室に逃げ込もうとする私に、イズータさんはサッと数歩近づいて言った。
「私も行きます」
「……えっ」
立ち止まり、中腰の変な格好で振り向くと、イズータさんはエプロンを握りしめて私をまっすぐ見ていた。
「私も、聖地ゴウニケに行って、引き続き姫様のお世話をしま、させていただきます」
驚いて、しばらく返事ができなかった。
イズータさんは、お父さんであるこの砦の料理長のところに届け物に来たときに、ちょうどいいからと巻き込まれて私のお世話係にさせられた人だ。砦に女性は私とイズータさんだけ、そして私は「巫女姫様」。軍人たちはちょっかいをかけやすい女性としてイズータさんを標的にし、見かけるたびにからかったり誘惑したりしたという。
それをひどく嫌がって、用がないときはずっと引きこもっていたイズータさん。諸々の原因である私とも、必要最低限しか話をしなかった。最近は会話も増えたけど、ほんの少しだ。
私が聖地に行くことになり、やっと解放されるのに、どうして?
「私、やっと家に帰れると思っていました。家で、母や弟たちと暮らせると」
イズータさんが、まさに私が思っていたことを言う。
「でも、ここ数日のあのいけすかない獣人の態度を見て、気が変わりました」
え、ええと、ヴァレオさんのこと……だよね。
イズータさんは固い表情のまま、珍しく長く話す。
「少しは姫様に優しくなったかと思ってたのに、またあんな態度。何なんでしょう。あんな獣人がこれからも側に張り付いていて、しかも私がいなくなって、また姫様の知らない人がお世話係になったら、姫様は気が安まらないじゃないですか。せめてもう少し、おそばにいます」
「イズータさん」
私はおろおろと、視線を泳がせた。
「でも、お父さんが。料理長、きっと反対、するんじゃ」
ほとんど口を利かない、私のことも見ない料理長は、私のせいでイズータさんが迷惑を被っているのを憤っていたはずだ。そりゃ、そうに決まってる。
すると、イズータさんは――微笑んだ。
「父さ……父に今、話をしてきました。父も、最近姫様が無理矢理食事をしているような風だったのを、心配していましたから、すぐに許してくれました。偉い人にも、話してくれるそうです」
私はぽかーんと、イズータさんの微笑みを見つめた。
表情が軟らかくなると、彼女の若さが際立った。もしかして、同い年か私より下かも。
いや、そんなことより……イズータさんが笑ってくれた。しかも、料理長が、私を心配してくれてた?
「軍人たちに絡まれてる私を守るために、姫様は私について来て下さるようになったんですよね。父が、そうじゃないかって。でも、姫様は私と同じように恐がりみたいだから、お前なら気持ちがわかるだろう、おそばにいなさい、って」
イズータさんはちょっと視線を逸らしながらそう言うと、改めて私を見て、ちょこっと頭を下げた。
「……お礼が遅くなっちゃって、申し訳ありません。気遣ってくださって、ありがとうございます」
胸の奥に熱い固まりがせり上がって、さっきとは違う涙があふれてきた。
「そんな、私こそ、う、うわぁあーん! う、嬉しいよぉ」
ぼろぼろと泣く私に、イズータさんは二枚目の布巾を差し出しながら、そっと肩に触れてくれる。
「姫様、あんな獣人、部屋に入れなくていいと思います。ツーリの人と同じように、人目のあるところで会った方がいいですよ。そうすれば、あんな失礼なこと言わないと思います」
「う、えぐ、で、でも」
私はどうにかこうにか涙を止めると、これだけは言っておかなければ……と、イズータさんに伝えた。
「あのね……イズータさんが、砦の中で怖い思いをしてるんじゃないかって、最初に気づいたのは、ヴァレオさんなの」
イズータさんは、口をへの字にして眉をひそめ、何だかすごーく微妙な表情になった。奴隷時代の偏見の残る目で鎧獣人を見ていたみたいだから、複雑な気分なんだろう。
彼女はしばらく黙った後で、
「……覚えておきます」
とだけ、言ったのだった。