一話=銀ナイフが意味を示す-2
アレフがミーミを送って屋敷へ戻ると,マリーの部屋には彼女のほかにもう一人,40後半の男が彼女と話をしていた。
骨ばった頬と意思の強い赤い瞳。がっしりとした体つき。男の名前はジャン・クレトスといった。この町の治安維持組合の殺人取締組で組長をしている男である。ギルドはこの国の警察機構であり,殺人取締組は通称,殺し取と呼ばれ,殺人事件全般を取り扱い,殺しの逮捕を主な任務としている。マリーは偵審官としてジャンと協力している。偵審官とは,ギルドが抱える事件解決のための協力・助言を行う国家公認の協力者である。マリーとジャンとは数々の事件を共に解決して来た間柄で,長い付き合いであった。
アレフはジャンの姿を認めると,親しげに声を掛けた。
「ジャンさん,来てらしたんで」
「おお,アレフか。邪魔してるぜ」
ジャンは振り返ってそのいかつい顔をアレフに向けた。
「どうしたのです」
「マリーが話を聞きてえとよ。ちょうど近くを通ったんで寄ったのよ」
「それでおやじ殿に今朝のことを聞こうとしていたところだ」
マリーがアレフに説明すると,ジャンは呆れ顔で彼に言った。
「しっかり見張っとけよ。また余計な事に首突っ込んでるじゃねぇか」
「生憎依頼でね」
マリーが悪びれる様子もなくそう返すと,ジャンはますます呆れ顔になった。
「偵審官殿に手伝ってもらいてえ事は山ほどあるんだがな」
「依頼優先だ,また今度にしてくれ」
「頼むぜ」
彼らのやり取りにアレフは少し笑うと,話を戻した。
「それで,どんな話をしていたのです」
「ああ,今から言うところだ」
ジャンはそう言って,ジルのことについて話し始めた。
「けさ方発見された遺体だが,銀ナイフを胸に刺しただけで他に外傷はなし。周りに争った形跡もないんで,うちらは自殺と判断したっていうだけだ。それとも他殺だっていうんか?」
「いや,殺し取の見立てだ,自殺なのは間違いないだろう」
マリーが答えると,ジャンは,そうだろうな,と頷いた。
「そんだけの話だ。これの何を調べるってんだ?」
「いろいろとね。それでおやじ殿,銀ナイフというのは具体的にはどんなものだろうか? 果物ナイフとかかい?」
「いや実用のモンじゃなかった。刃に模様刻んだやつだ」
「なるほど,儀礼用のナイフだろうか。どのような模様だい?」
「あんまりじっくり見てねえからなあ……ちょっと紙貸してみろ」
アレフが一枚持ってきてジャンに渡す。ジャンは紙を受け取るとそれをテーブルの上に置いた。そしてその紙に手をかざすと,途端にジャンの雰囲気が変容した。彼は厳かに言葉をつむぎ出す。
『汝が汝自身を表す。表象』
ジャンがそう唱えると,その紙に幾何的な紋様がにじみ出てきた。
ジャンは紙面に浮かび上がった紋様を見て頷いた。
「よしよし,ちゃんと出たな」
「おお,これはすごい。これがその模様なのか?」
「そうだ」
「なるほど,便利だな」
マリーが感心したような声を上げると,ジャンも満更でない様子であった。
「昨年発表されたばかりの式なんだぜ、ウチでも導入を考えてんだ。……それよりどうなんだ,見覚えは?」
マリーは,ふむ,と相槌して,その紋様をしばらく眺める。が,やがて首を横に振った。
「どうやら,私の記憶にはないようだ。……アレフ,君はどうだ?」
マリーは少し残念そうな顔をすると,アレフの方へ目を遣った。アレフは,そうだな,と答えて,記憶の中を探った。その紋様には心当たりがあった。
「……ああ,思い出した,謝の紋様だ」
「なんだね,それは」
マリーが聞き返す。
「それが刻まれた短剣を食物などに刺して,奪った生命に対して謝意を伝えるというものだ。農村で良く使われるが,都市では使われないな」
「カルタカでもか?」
「そうだな,この町に来てから見たことがない」
「そうか。道理で見覚えがないわけだ」
マリーはそう言って一つ頷いた。
「何にせよ,面白いことを聞いた」
「なんだかえげつねえ気がするがな,短剣ぶっ刺すってのは。あとは……そうか,15年前の魔物の集団暴走のことを聞きてえとか」
「ああ、そうだ」
「15年前の? どうしてわざわざ」
アレフが口をはさむ。それは聞くことでもない公然の事実だったからだ。
「うむ。おやじ殿がかつて衛軍に居たのは知っているだろう?」
「ああ,たしか前に聞いた」
「それで,当時の衛軍の事情を知りたくてな」
「衛軍の事情?」
「そうだ。おやじ殿,当時の衛軍はかなりの人手不足だったそうだが本当か」
「なに聞かれるかと思いきや,まったく,どこで聞きつけやがった。衛軍じゃ箝口令が敷かれてたはずだぜ」
ジャンも長い付き合いで慣れているのか驚きはしなかったものの,それでも大いに呆れた表情で答えた。
「では,事実なのだな」
「間違いねえ。退役した俺んとこにも戻ってくれと来たもんだ。当時は魔物の集団暴走が多発していてな,それでずいぶんと兵をやられたそうだ。徴兵の話も出ていたらしい」
「ほう」
「そこまで深刻だったのですか」
マリーもアレフも,流石に徴兵制という言葉には目を丸くした。衛軍は志願者のみで構成される。それが衛軍の誉れであったし,衛軍上層の貴族たちの矜持でもあった。それは,現在も15年前も変わることのない伝統だった。それにもかかわらず,衛軍貴族が徴兵制を排せ得ないほどの状況であったとは,よほど深刻な人員不足であったことを物語っている。
「ああ。北の町への救援ときも,員数でずいぶん揉めたって話だ」
「それはウィッター大隊長がかね?」
「そうだ。揉めに揉めて,結局,大隊長が折れて,一個大隊で決着したらしい。まあ,北の森の観測所から魔物の群の規模についての予測も来てたがな。大隊じゃあやや少ねえが,対処可能な規模だったそうだ」
これにアレフは疑問に思って,
「魔物の数は把握してたんですか。どうしてそんなに揉めたんで?」
と問うと,ジャンは,若けえのは知らねえかと笑って答えた。
「昔はな,北の森の観測所は今ほど予測がよくねえんだ。まあ,森のせいだな,大きくはずすこともあって問題でな。だが結局,そん時は予測どおりだった。そうそう,それで観測所の連中も後で表彰されたんだったな」
アレフは,なるほどと頷いた。
「だが,救援は間に合わなかったのだろう?」とマリーが思い出したかのように言うと,ジャンは,仕方あるめえと言って首を振った。
「数は当てられるが足の速さまで当てられるわけじゃねえ。こればっかりは,誰にも責められねえ」
「それもそうだな」
マリーは一息つくと,聞くことは聞いたとばかりに笑みを浮べた。
「ありがとう,大変参考になった」
「おう,こんなんでいいか?」
「ああ,十分だ。感謝するよ」
「そんなら,そろそろ出るとするよ」
そう言ってソファーから立ち上がるジャンにマリーは,
「そうだおやじ殿,これを持って行くといい」
と声をかけて,自分の机に置かれたままであった柳のかごを持ち上げた。昼にミーミが持ってきたクッキーであった。
「ミーミが作ったんだ」
「お! ミー坊のか。貰おう」
「アレフ,何個か包んでやってくれ」
土産にクッキーを持って帰ったジャンを見送ると,マリーはアレフの方へと向き直り,催促するかのように笑いかけた。はやく調査の結果を教えろと,その瞳が暗にせっついていた。
アレフはその視線に答えるように,ミーミと共に調べたことを報告した。ジルの家周辺で聞き込みした内容。ジルの性格・評判,暮らし向き,生い立ち。一昨日の晩,ジルの家から飛び出したというアルガスの話。5日前の夜遅く,行商人風の男が彼の家に入って行ったという話。
それらを聞くと,マリーはいよいよ笑みを深めた。
「なるほど。やはり,ミーミは物探しの才があるな」
「確かに,あいつはああ見えて目が捷い。それで,その行商の男はどうする。追うか?」
「いや,事の大筋は見えた。男を探すには時間がかかる。なにより、アルガス殿の様子がよくない。このまま放っておけば間違いを犯さないとも限らない。明日は彼のもとを訪ねるとしよう」
「わかった,手配しておく」
「それと,明日はミーミも同行させるから,そのつもりでいるように」
やや強い口調でマリーがそう告げても、アレフは表情を強張らせるだけで抗弁するようなことはなかった。ミーミを今回の件に手出しさせた時点でこれを了解せねばならないことは彼もよく理解していた。不承不承という彼の表情を見て,マリーは思わず相好を崩した。
「過保護だね君は」
「……どうして今回は彼女を加えたんだ?」
「言っただろう? 一人では効率が悪い。それに本人に参加する意思があった」
「だが今まではそうしなかっただろう」
「そうだ。しかしながら、それは今までの話だ。あの娘は望んだのだ。だから、過去の実績と本人の能力を鑑みて、参加妥当と判断したまでだ。本人の意思は尊重すべきだろう」
「しかし……」
アレフは冴えない表情で口ごもった。マリーが彼を過保護だと評したのは当を得ていた。だから、何を言ってもその一言で言い含められてしまうだろうと思えて、アレフは言葉がなかった。マリーは,そんなアレフの心中を察して,微笑を禁じ得なかった。
「君の気持ちも分からなくもない。だが、なぜそこまで拘るのだ。あの娘は望んでこの屋敷の門をくぐったのだよ。いわば、君の妹弟子だ。私も父上がそうしてくだっさたように、君らのうち適格な者には偵審の職責を継いでもらいたい。兄妹で多少の扱いの差もあろうが、私は公平にやりたいと思っている」
アレフにとっては彼女が公平にと断言してくれたことは嬉しくはあった。それゆえに、自分がその公平さの邪魔立てをしていることに気が付かされて、彼はひどく気が滅入った。
「ははは、そんな顔をするな。まさかに、君がミーミの足を引っ張りたいわけじゃないことは、よくわかっている。わからんのは君の執着だよ」
「執着か」
「そうだ」
アレフは再び口ごもった。だが、彼は懸命に言葉を探していた。彼は自分の所感をマリーに伝える必要があると思った。そうしなければ済まない気がした。ひどく後ろめたいような気さえしたのだった。しかし,それが誰に対しの後ろめたさなのか,今の彼に気付く余裕はなかった。
「……ミーミはいい子だな」
「そうだな」
「マリー、俺はああいう子は初めてなんだ。昔は、会う人間だれもかれもが、あの子とは違った。どう言ったらいいか分からない。ただただ、彼らは……悲惨だった。マリー、あなたに拾われる前のことだ」
マリーは沈黙したまま頷き,話の続きを促した。
「こんな仕事をしていたらきっとそういう人間にも会う。……俺にはどうしても腑に落ちない。あんな素直に育った娘が、そんな連中に付き合う必要がどこにある。心底嫌になる,人間の汚い部分をまざまざと見せつけられて,あいつはどう思う。ミーミはいい子だから、そうした人間でも真正面から受け止めるから、きっとあいつ泣くよ。そう思うと、どうしてもすまない気持ちになるんだ。たしかに、過保護だ。ただの私情だよ。だが、これは、どうしても、こらえ切れない」
「それはつまり,ミーミはこのお役目には向いていないと言うのかね?」
「そうじゃない! ミーミに才があるのは分かっている。だが……あのような娘のする仕事とも思えない」
「ふむ。言い分はわかる。だが,君が彼女をどうしたいのか,やはり分からない」
「どうこうしたい訳じゃない。だから……そう,あなたの言うとおりかもしれない」
そう言ってアレフは沈んだ顔をした。今更ながらに執着であったことに気がついたらしい。暗い表情を浮かべるアレフをマリーはしばらくじっと眺めていた。そうして,諭すように話し始めた。
「私はね,このお役目にはああいう子も必要だと思っている。人の在り方をあちらこちらと分けるのは好きではないが,少なくとも,私やアレフ,それに君の言う悲惨な人たちをこちらとすれば,市井で平穏に暮らす人々をあちらと言えよう。ミーミは勿論あちら側だ。我々が出会う事件は多種多様に渡る。あちら側の人間が何かの間違いでこちら側に転げ落ちてしまわないとも限らない。そうしたとき,我々のようなこちらしか知らぬ人間が何を基準にして彼の罪を正す? もちろん法に基づいて我々は行う。だが,法だけでは埋め尽くせぬ所もある。我々の中では,ミーミは唯一,その隙間を見つけ出して埋めることのできる資質を持った人間だと私は感じている。だから,入門を許したし,君とは別な方向で期待もかける。私にはね,君は彼女のそうした資質に過剰に反応しているように思えてならない」
「……わからない」
「そうだろう,わからんだろう。だが,少なくとも私にはそう見える」
「……」
アレフにはマリーの指摘が正しいのかどうか分からなかった。だが,反論のしようもなかった。彼女の指摘するところは,アレフが自分でも気付けないほどに心の奥底の暗闇にしまっていることを,表に引っ張りだして白日の下にさらけ出してしまうようなことだと彼にはっきりと予感させたからだった。そしてその予感に彼は背筋の凍る思いがしたからだった。
アレフの様子のおかしさを見て取り,マリーは話を切り上げることにした。
「アレフ,今日はもう遅い。休むとしよう」
「ああ,そうだな」
気のない返事をしてアレフは部屋を辞した。マリーは心配げな表情で彼の背中を見送った。
翌日の朝。マリーが,たまには外で朝食にしようと言うので,アレフは彼女と共に商店街へと向かった。二人は歩きながら,どこで食事を取ろうかと話し合っていたが,その足は自然とミーミの店へと向かっていた。二人は彼女の店の前に来ると,結局そこで食事にすることにした。
ミーミの父親が主人を務める宿屋”ささのや”は,二階が休憩所,一階が食事所となっている。夫婦と娘の三人だけで切り盛りしている小さな店ではあるが,ここらではそれなりに親しまれている宿屋である。
二人が店内に入ると,少し遅めの時間であるからか,それほど客は居なかった。二人が店の隅にある三人掛けの丸テーブルにつくと,給仕姿をしたミーミが店の奥から顔を出した。
「あ! いらっしゃい。久しぶりだね,ウチに来るなんて」
顔を見せた途端に嬉しそうに笑みを浮かべると,ミーミは彼らのテーブルのもとまで小走りに寄ってきた。
マリーはこちらにやって来る彼女に笑って挨拶を返した。
「おはよう。今日は天気が良いからね,外で食べたくなった。それに,アルガス殿の屋敷にも用があるのでね」
マリーの言葉にミーミは目をまばたかせて聞き返した。
「アルガスさんのおうちに? どうして?」
「オルター殿の依頼を果たすためだよ」
マリーがそうサラリと言うと,ミーミははっとした顔になった。
「じゃあ,もうわかったんだ!」
「ああ,それで君にも一緒に来て欲しいと思ってね」
「いいの!? あ,でも……」
ミーミはアレフの顔を伺う。彼は店に入ったきりずっと固い表情を浮かべていた。
「アレフ……」
ミーミは懇願するように言うので,アレフはため息をつきながら,
「店の方は平気なのか」
「うん。もうお客さんも落ち着いてきたから」
「何を聞いても平気なんだろうな」
「だ,大丈夫だよ!」
「……なら止めるつもりはない」
「やった!」
ミーミは一頻り喜んだあと,二人の注文を聞き厨房へと引っ込んでいった。その楽しげな後姿をアレフは寂しそうに見送った。
食事が終わったあと,二人はミーミを連れ立ってまず近くの刃物屋のオルターのもとへと向かった。刃物が所狭しく並べてある店内を奥へと進みオルターを呼ぶ。店の奥からやって来たオルターにマリーは依頼解決のためにアルガスの屋敷へ行く旨を伝えた。オルターは喜色を浮かべて彼女に言った。
「本当ですか,それは」
「ああ,恐らくはね。それで君にも一緒に来てもらいたい。先方には知らせてある」
「ええ,もちろん構いません。今支度しましょう」
4人がアルガスの屋敷を訪れると,玄関を開けたのは昨日アレフとミーミを出迎えた若い男ではなく,年老いた執事の男であった。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
4人はその老執事に導かれるまま,屋敷の応接間に通された。その部屋は程よい広さの南向きの部屋で,暖炉の上にはウィッター団長の肖像画が掛けられていた。
窓から射し込む柔らかな陽が,白を基調としたこの部屋を満たしていた。
彼らは,老執事に促されるままに,並べられた肘掛の椅子に座った。
「旦那様をお呼びして参ります」
老執事はうやうやしく頭を下げると部屋を出て行った。それと入れ違いのように,茶と菓子を持った女中が入ってきた。給仕し終わり女中が出て行くと部屋の中が静かになった。ただアルガスを待つだけであった。
しばらくすると老執事と共にアルガスが部屋にやって来た。彼の顔色は昨日よりは幾分か回復していたが,それでもまだ病人のように青白かった。体調が優れないようで,彼は老執事に支えられるようにして椅子についた。
そんな彼を見て一番に声を掛けたのはオルターであった。
「アルガス! なんて顔色だ」
「やあ,オルター。心配を掛けるね……」
「どうして……どうして何も言ってくれない。私がどれほど心配して……」
「いいんだ,僕のことは。そんなことより,話があるんじゃないのかい」
アルガスが弱弱しく喋るほど,ますますオルターは顔を歪めた。
「ジルのことだ。アルガス,君は彼と何があったんだ」
「……それは,僕とジルの問題なんだ」
「アルガス,頼むよ……」
オルターが頭を垂れた。
「私も知りたいのだがね。アルガス殿」
アルガスの目が,きっとマリーを睨んだ。彼女はその視線を受けてなお微笑んでいる。
「いくつか質問したいことがあるのだ」
「部外者は黙って頂けないか,偵審官殿」
「無礼は承知だ,アルガス殿。しかしこれも仕事でね」
二人はにらみ合った。一方は微笑み,もう一方は青白い色に険しい表情で。
折れたのはアルガスの方であった。マリーの態度に毒気を抜かれたようだ。アルガスは少し落ち着きを取り戻して,マリーに言った。
「オルターの依頼なのでしょう,あなたの仕事とは」
「仰る通りだ」
「だったら,質問には答えましょう。そうしたらお帰りください」
アルガスはもう一度,マリーを見返した。アレフは彼の瞳を見ておやっと思った。
「質問は二つだ。まず一つ目。ジル殿が自殺する五日前,ジル殿の家に行商の男が入っていたそうだ。この人物に心当たりはないかね」
「どのような男なのです」
アルガスが聞くと,マリーはミーミに目を遣った。
「ミーミ。説明してくれ」
「は,はい!」
ミーミは突然指名されて色めき立つが,なんとか自分を落ち着かせながら答えた。
「え,えっと。その人を見たのは,ジルさんの家の近くのタバコ屋さんなんです。それで,タバコ屋さんの話だと,5日前の夜遅く……あ,今日からだと6日前の晩に,”色白のひょろっちぃ”行商人風の男が,ジルさんの家に入っていくのを見たんだそうです。満月だったから,しっかり見えたって言ってました」
「ご苦労だ,ミーミ」
いかにも疲れた様子で椅子に座るミーミ。その頬と首は緊張のためか赤く染まっていた。
「僕は,そのような男は知りません」
「ふむ。オルター殿,あなたはどうか」
「私も心当たりがありません」
「なるほど。では最後だ。ジル殿が自分の胸に刺したという銀ナイフは,君の父君が彼に贈ったものなのだろう。あれは,何のために彼に与えたのかね」
アルガスは少し面食らったようであった。
「どうして,それを」
それに対して,マリーは気にかけた様子もなく,
「大したことではないよ,ジル殿の懐事情を鑑みれば分かることだ。それより,その銀のナイフはどういう訳で彼に?」
「あのナイフは5年前,父上が亡くなる少し前に,父上が生活費の足しにと彼に」
「なるほど……」
そこでマリーは一拍置くと,こう言った。
「確か君はジル殿が自分を恨んでいると言ったそうだね」
「……」
「それは恐らく間違いだ」
アルガスは驚いて思わず顔を上げた。
「な,なぜ……言い切れるのです」
「それには,ジル殿の変化について話さねばなるまい」
「……」
アルガスは迷っているようだった。アレフはその様子を見て,マリーに目配せして頷いた。彼女は彼に目を合せ頷き返し,話を続けた。
「ジル殿の様子がすでに変化していたのは,事件の日から4日前。そうだね,オルター殿」
「ええ,私が剣を届けに行ったときです」
「そしその2日後,ジル殿はアルガス殿と口論をしていた。そうだね,アレフ」
「ああ,近隣の者の話では,ジル殿はアルガス殿に対して,”ずっと哀れんでいたのか”,”殺してやる”などと言っていたそうだ」
「よろしい。そしてミーミが話した,ジル殿の変化が見られる1日前に目撃された行商の男。これらから考えて,ジル殿の変化とは何かを知ったことだとしてよさそうだ。その何かとは,アルガス殿に対して殺意を抱かせ,アルガス殿が”ずっと”前から知っていなければならないことだ」
アルガスの額に汗が浮かび始めていた。
「その何かは,その行商の男から偶然聞いたと考えるのが自然だろう。そして,その行商人は本来アルガス殿とはなんら関係のない人物。そのような男が知れることなのだから,その話とはアルガス殿とジル殿の個人的な関係に関するものではなく,むしろ,公然の事に関するものだろう。ならば,考えられることは,そう多くない」
聴衆は息をのんだ。アルガスはもはや息を忘れたかのようにジッとしている。
「15年前の北の村が壊滅した事件。間に合わなかったのではなく,救援は派遣しなかったのだろう」
マリーは喉を潤すために,すっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。アルガスは真っ青な顔をして,相変わらずジッとしたまま俯いていた。
マリーはアルガスに言った。
「その様子だと,どうやらアタリのようだね」
アルガスはしばらく反応を返さなかったが,やがてうめくように,
「……誰から聞いたのです」
「たかが偵審官が知れる話ではないだろう。それとも君が誰かに話したかね」
「誰が!」
アルガスはマリーに喰ってかかろうと,面をあげて彼女を睨みつけた。しかし,自身の視線が彼女の視線とぶつかり合うと,たちまち彼は気勢を失った。彼女の瞳に宿る深い静寂は,青年の威勢を取り込んで無に帰してしまうには十分な力があった。彼女は話を続ける。
「かつて衛軍にいた者に当時の人員不足の話を聞いた。貴方の父君がギリギリの人員で町の救援に向ったことも。そして,北の森の観測所の予測が不安定なことも」
マリーが淡々と事実を述べていくにつれ,アルガスの僅かに残った怒りは諦めへと変っていた。
「よく……ご存知で」
「ウィッター大隊長は現実的な方だ。観測所の予測を鵜呑みにせず,余剰の兵員を確保して備えようとされるほどに。そんな方が十分とは言えない兵員で町と村の防衛に当たらせられたのだ。予測のはずれる可能性が常に念頭にあったことだろう」
「計算の得意な人でした。魔物の規模に対して町の防衛にどのくらいの兵が必要か,すぐに割り出せられたのです。だから……」
「村の救援要請を黙殺したのだね,町の防衛に専念するために。予測を上回る規模の襲来の可能性を捨て切れなかった」
「その,通りです」と言ってアルガスは項垂れた。そうして,ぽつぽつと真相を語り始めた。
「苦渋の決断だったのです。そこに後悔がなかったはずがありません。だから町の防衛が終わると,単騎で村へ向ったのです。自分のしたことを目に焼きつけるためだと。魔物に蹂躙され荒れ果てた村で父は何を思ったでしょう,それを決して語ろうとはなさいませんでした。村の跡で,当時10ほどのジルを見つけたのは,父にはまさに天啓でありましたでしょう。
父上の下した決断は衛軍上層部で問題となりました。当然でしょう,命令違反でありましたし,魔物の規模は予測どおりだったのですから。しかし,上層部もこの話を公表する訳にはいかなかった。すでに民衆に英雄と称えられていた父を告発すれば,事件のおかげで上向いた衛士志願者の増加に水を差すことになる。当時の人員不足は深刻でした。上層部はこのことを秘匿することとしたのです。
父はひどく後悔しました。それでも,衛軍のため,ひいてはカルタカのため,沈黙を続けたのです」
「そうだったのか……」
オルターは今だ信じられないといった表情で呟いた。マリーたちは黙って聞いていた。アルガスは続ける。
「父上も悩まれた。この事実をジルに伝えるべきかどうか。そして伝えられぬまま,病でこの世を去ってしまわれた。そうして僕も,同じように苦悩し伝えられぬまま過ごして来たのです。
隠し続けてもどこかで話は漏れてしまうのでしょうね。噂を聞いたジルが,僕にそのことを尋ねてきたときの顔を今でも思い出します。彼は期待していたのです。そんなことは嘘に決まっていると,めったな事を言うんじゃないと,僕にそう叱られることを。そしていつものように,オルターを誘って……。そういう顔を,していたんです。想像してみて下さい。彼の純粋な,あまりに純真な願いを打ち砕かなければならなかった,この僕の心を。その残酷な所業を。これが僕の罪なんです。ジルがどうして僕を恨まないでしょうか。どうして憎まないでしょうか。どうしてそうじゃないと言えますか……!」
吐露であった。ずっと心に押し込めていたことを吐き出していた。
オルターもミーミも掛ける言葉が見つからず,ただ押し黙っていた。ミーミにいたっては,彼の話に当てられたのか,先ほどから目に涙を見せていた。
アレフも同じように黙っていたが,内心は二人と異なっていた。彼は,アルガスの求めるところに気づいてた。それも昨日アルガスと話したときに。そのときは確固たるモノではなかったが,彼とマリーのやり取りを見ているうちに確信に至った。彼は救いを求めて彷徨っている。
「アレフ」
マリーが静かに彼を呼ぶ。アレフはそれに頷きで返して立ち上がり,アルガスへ話しかけた。
「銀のナイフですよ。アルガス殿」
アルガスはゆっくり顔をあげた。酷い顔をしていたが,瞳はアレフを見据えていた。
「あれが,どうしたと言うのです」
「ナイフの刃に紋様が刻まれていたのを覚えていますか」
「……ええ。ジルはあのナイフを家に飾っていましたから」
「その紋様の意味をご存知で?」
「……意味,ですか。気にしたことは,ありませんでした」
「あれは感謝と謝罪を意味する紋様です。紋様が刻まれた短剣は,家畜などを殺したあとそれに刺して,その命に謝罪と感謝を伝えるというものです。農村では良く行われることですよ。私の村でも良く使われました」
アルガスは目を見開いた。
「ジル殿が事実を知ったとき,あなたに対して強い恨みを抱いたのは確かでしょう。ですが,本当に心の芯から恨んだのであれば,その場であなたを手に掛けていたでしょう。そうしなかったのは,彼とあなたの間で15年前から築かれて来たものがあるからではないですか。きっと彼も悩んだのでしょう。恨みとの間で葛藤したのです。葛藤の末,そのナイフの紋様を見たのでしょう。そして,ナイフの意味を思い出した。……これはあくまでも推測に過ぎません。ですが,ジル殿は農村出身です。紋様のことは知っていたことでしょう」
アレフが言い終わると,アルガスは静かに目を閉じ,椅子に深く身をもたせて力を抜いた。アルガスはその姿勢のままアレフに言った。
「……父上も紋様の意味を知っていたでしょうか」
「恐らくは。そのために贈ったのではないかと」
「そうですか……そうですか……」
彼はゆっくりと答えると,そのまま口を閉じた。それっきり口を開かなかったので,この話は仕舞いとなった。
アレフ,ミーミ,マリーの三人は,もう少しアルガスの様子を見ておきたいと言うオルターを残し,屋敷を後にした。アレフとマリーはいつもと変わらぬ様子だが,ミーミは少し気落ちしているようだった。
「辛いか」と,マリーがミーミに話しかけた。
「……ちょっと,辛いかも」
「そうか」
マリーは優しく笑って,ミーミの頭を撫でた。ミーミは小さく頷いた。アレフはそんなミーミを内心は気に掛けつつ,それを顔には出さず黙々と歩いていた。
「ついでに昼にしないか」と,マリーが言った。
「そうだな。どこがいいか」と,アレフが思案する。
もう昼時である。あちらこちらから食卓の匂いが漂ってきた。
ミーミはいつもの町の様子に少しほっとするのだった。