江戸しぐさ :約4500文字
「はーい……」
「やっとお会いできたわあ」
おれはぎょっとして、その場で固まった。夕飯を済ませ、うとうとまどろんでいたところにインターホンが鳴った。無視しようかとも思ったのだが、帰る気はないというように執拗に鳴り続け、おれは仕方なく重たい体を引きずるようにして玄関へ向かった。
ドアを開けると、そこに立っていたのは見知らぬ中年の女。薄い色のサングラスに、パーマのかかった短髪。にこにことやけに貼りついたような笑みを浮かべていた。
そして女は、おれの顔を見るなり一歩踏み込み、手を握ってきたのだ。
「それで、あの……なんですか?」
半ば押し切られるような形で女を部屋に上げることになり、おれたちは向かい合って床に腰を下ろした。女の纏う甘ったるい香水の匂いがぷんと漂い、自分の部屋なのにどこか居心地が悪く感じた。
「あらあら、そうよねえ。急だもの、びっくりしたわよね? 私としたことが……すまねえなあ」
「えっ」
「ふふ、べらぼうめえ」
「は!?」
呆気に取られていると、女はおれの肩をちょんと叩き、くすくすと笑った。
なんなんだこの人……。急に言葉遣いが崩れたぞ。いや、最初から変な感じはしていた。親しげでありながら、どこか強引。宗教の勧誘めいた気配が漂っていた。
そういえば、『やっと会えた』とか言っていたな。これまでにも何度も訪ねてきていたのだろうか。
「あのー……」
「あら、何かしら? こんちきしょう」
「えっ、いや、その、なんのご用ですか……?」
おれは顔を引きつらせながらも、できるだけ穏やかな声で訊ねた。すると女は、ふっと笑みを消し、真顔になった。
「ええ……実はね、あなたに跡を継いでほしいの」
「跡を継ぐ……?」
「そう。生粋の江戸っ子の血を引くあなたに……江戸っ子の魂を!」
女はそう言い放つと、ぐっと拳を床に押しつけた。畳がみしりと鳴った。
「え、江戸っ子……?」
思わず聞き返すと、女は深く頷いた。
「あなた、『江戸しぐさ』はご存じ?」
「江戸しぐさ……? いや、聞いたことがないですね……」
「そう……うう……」
女はうつむき、鞄からハンカチを取り出した。泣いているのかと思ったが、目元は乾いたままだ。女はハンカチを当てながら妙に芝居がかった調子で語り始めた。
なんでもその昔、江戸時代には『江戸しぐさ』というものがあったという。
それは公に記されたものではなく、江戸の商人たちが組織した『江戸講』と呼ばれる集まりの中で、口承によって受け継がれてきた秘伝の作法だった。商売繁盛と円滑な人間関係を築くための知恵であり、いわば江戸っ子の魂そのものを宿したすばらしいマナーらしい。
だが――江戸開城の折に、その存在は災厄を招いた。
江戸講の強固なネットワークを恐れた新政府軍が、江戸しぐさの伝承者たちを虐殺したのだ。
この江戸っ子大虐殺は凄まじいもので、五百人を超える伝承者が命を落とした。それだけでは終わらず、江戸しぐさに関する古文書はすべて焼き払われ、その炎が江戸の空を赤く染め上げたのだという。のちに降った雨は江戸っ子たちの涙であった。
数万人の江戸っ子たちは命からがら逃れ、『隠れ江戸っ子』として身を潜めたが、追跡と弾圧は終わらなかった。江戸っ子たちは執拗に狩られ続け、そして政府はこの恐ろしい事実を完全に隠蔽したのである。
だが、江戸講は完全には滅びなかった。秘密結社として細々と、しかし確かに生き延びてきた。この現代に至るまで――。
「……はあ?」
おれは思わず声を漏らした。この女、さっきから何を言っているんだ。完全に頭がおかしいとしか思えない。
「それでね、あなたには跡を継いでほしいの。生粋の江戸っ子……江戸川和雄の末裔である、あなたに」
女はそう言うと、鞄から古びた巻物を取り出した。おれの呆れた表情など気にも留めず、ばさりと広げると、そこにはびっしりと名前が連なっていた。紙には黄ばみや焼けがないが、その代わりにわざとらしいほどしわが刻まれ、端にはところどころ切れ目が入っていた。
どうやら家系図らしい。最上段には『江戸川和雄』という名前が書かれていた。そして一番下には――おれの名前があった。
「……いや、でもこれ、両親とか祖父母の名前が全然違うんですが」
「それは江戸名よ」
「江戸名!?」
「秘密結社ですもの。当然でしょ」
女はこともなげに言い切ると、巻物を手早く畳んで鞄にしまい込んだ。
「はあ、でも、その江戸っ子大虐殺とかいう話はさすがに荒唐無稽というか、信じられないというか……」
「ええ、そうでしょうとも……てやんでい!」
「うわっ」
女がいきなり床を叩いた。
「それもこれも、政府の野郎が全部隠しちまったからよお、こんちくしょうめえ……! もし江戸講が昔のまま残っていたら、あんたがこんなしみったれたアパートで暮らす羽目になることもなかったはずさね」
「いや、余計なお世話ですよ……」
おれはちらりと部屋を見回した。確かに狭くて古い。黄ばんだ壁紙、天井にはシミが滲んでいる。しみったれていると言われても無理はない。今まで特に気にしたことはなかったが、指摘されると途端に恥ずかしくなった。
「さあ、こうしている場合ではありません。いつ闇の政府の手が伸びてくるかわかりませんからね。さっそく、あなたに江戸しぐさをいくつか伝授しましょう」
「いや、別に大丈夫ですけど……」
女はおれの言葉など聞こえていないかのように鞄から白い扇子を取り出した。そしてばっと勢いよく開き、軽く咳払いした。
「ひとつ。『傘かしげ』。これは雨の日にすれ違う際、傘を外側に傾けて相手を濡らさないようにする心遣いです」
「え? ……ああ、それなら普通にやりますね。あれって、帽子を傾けて『こんにちは』って挨拶するみたいで、なんかいいですよね」
「あなた……やっぱり江戸ね」
「藪蛇だったか」
「ふたつ。『時泥棒』。断りもなく人の家を訪ねたり、約束の時間に遅れたりして相手の時間を奪うのは重罪です」
「でも、江戸っ子って時間にルーズなイメージがありますけど」
「みっつ。『喫煙しぐさ』。『喫煙禁止』などという野暮な張り紙がなくとも、非喫煙者がいる場では煙草は吸わない。それが江戸っ子の常識です」
「江戸時代に喫煙禁止の概念が……?」
「よっつ。『逆らいしぐさ』。“しかし”“でも”と口答えせず、逆らわない。年長者の言葉に素直に従うことが人としての成長にも繋がるのです」
「なんか江戸っ子らしくないですね」
「あなたの持つ江戸っ子のイメージこそが! 虐殺者どもに作り上げられた偽物なのよ!」
女が唐突に声を張り上げた。空気がびりりと震え、おれは思わずびくりと跳ね上がった。
「べらぼうめえ……」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ……。わかりました、わかりましたから」
おれは両手を軽く上げて宥めるように言った。
「確かに、そういうマナーを大事にするのは商売繁盛に繋がりそうですよね。人当たりも良くなりそうですし……。あ、そもそもそうか、江戸しぐさって商人のものなんですもんね。商売人が時間にルーズじゃ困りますもんね。ははは……」
慌てて取り繕うように褒めると、女はたちまち顔を綻ばせ、「そうでしょう、そうでしょう」と何度も大きく頷いた。
「ただし、“マナー”ではありません。江戸しぐさは“癖”なの。体に染みついているから、やらないと気持ちが悪くなるの。トイレのあとに手を洗わないと落ち着かないのと同じようなものです」
「はあ、そういうものですか」
「マナーって、人が見ていないと守られないこともあるでしょう? そこが違うのよねえ。見られていようがいまいが自然と出てしまう。それが江戸しぐさ」
「はあ」
「だから江戸しぐさは単にマナーやエチケットの話ではなくて、人間の生き方そのものを説いているのです。さあ、続けますよ。いつつ目、『ロク』。これは江戸っ子の研ぎ澄まされた第六感。五感を超えたインスピレーションです。江戸しぐさ伝承者は、この『ロク』によって火事や地震など、あらゆる災害を事前に察知していたのです」
「はあ?」
「むっつ――」
「いや、あの」
「はい? なあに」
「いくつあるんですか……? その江戸しぐさって」
おれはちらりと壁の時計を見やり、言った。
「んー、そうねえ、八百だったり……八千だったり……」
「え、ずいぶん幅がありますね」
「まあね……これも全部、江戸っ子大虐殺のせいよ」
「でも口承なのに八千って……」
「てやんでい!」
「うわっ、だから急に大声を出さないでくださいよ……」
「江戸しぐさの根っこにあるのは“心”です。江戸しぐさの『しぐさ』は『思う』に『草』と書くの。草というのは、言い草の“草”。つまり“行為”です。心の在り方がそのまま行動に現れるという意味で――」
「あの」
「逆らいしぐさ!」
「あ、はい……」
「江戸を訪れた外国人は、皆こう言いました。『日本人は地球上で最も礼儀正しく、愛すべき民族だ』と。西洋の機械文明に毒されてしまったけれど、私はね、こうした愛すべき日本人のDNAは今もちゃんと受け継がれていると信じているの」
「そうですか」
「江戸しぐさは知識でも規則でもなく、感性なの。感覚、判断力、思慮分別、道理――そうした全人格を表すもの。つまりセンスなのですね。私はね、これが身についている人こそが本当の意味で利口な人、つまり大人だと思っているのよ」
女はその後も延々と語り続けた。
扇子を振り、身振り手振りを交え、ときに目を潤ませ、ときに怒鳴った。話は枝葉を広げ、どこへ向かっているのかわからなくなってきた。ただただ江戸しぐさを褒めたたえていた。
何か口を挟もうものなら、すぐに「逆らいしぐさ!」と一喝される。
おれは次第に抵抗する気力を失くしていき、話を右から左へ流すことに専念するようになった。耳に入っては、すぐに抜けていく。まるで便所で隣の個室の糞の音を聞いているような感覚だった。
どれくらい時間が経っただろうか。意識が霞み、女の声が遠くの川のせせらぎのように感じるようになった頃、女がふいに動きを止めた。そして鞄の中を探り、一枚の紙を取り出した。
「というわけで、こちらにサインしてくださる? これであなたも江戸講の一員よ。十人勧誘すれば報酬がもらえて、その十人がさらに十人勧誘すれば、あなたにもお金が入る仕組みなの。素敵でしょ?」
「えっ……いや、でもそれって……」
「なに? 逆らい――」
「あ、いえ」
おれは慌てて口を閉じた。
「そう。じゃあ、入会費は今払えるかしら? それから講演会もあるの。ぜひ参加してちょうだいね。会員なら参加費が割引になるから、今入ったほうが断然お得よ」
「いや、あいにく今はちょっと……」
「あら。じゃあ一緒にコンビニのATMまで行きましょう」
「ああ、そうじゃなくて……その、お金がね、へへ、全然……」
おれは頭を掻きながら力なく笑った。女はじっとおれを見つめ、ゆっくりと眉をひそめた。
「ええ? まさか、本当にまったくないなんてことはないでしょう」
「いやあ、宵越しの金は持たない主義でして……。へへ、江戸っ子なもんで」




