第4話 血の臭いと女医師
血の臭いが、鼻の奥に絡みついた。
生温かく、鉄を思わせる臭気。
呼吸をするたびに、肺の奥まで入り込み、意識を現実へと引き戻してくる。
――記憶から呼び起こされたものではない。
これは、今この瞬間も空気の中に漂い続けているのだ。
目を開いても、周囲の暗さは変わらなかった。
わずかに灯るライトの円が、湿った壁と不揃いな地面を照らしているだけだ。
岩のようで岩ではない表面が、鈍く光を反射し、洞窟の内部であることを否応なく主張していた。
鼻腔に残る血の臭いは、薄れるどころか、むしろ濃くなっている気がした。
視線を下げる。
数歩先。
光の中心に、男がいた。
五十代。
さっきまで、落ち着いた声で周囲に気を配っていた人物。
今は、片膝をつき、顔を押さえたまま動かない。
指の隙間から、赤黒いものが地面に滴り落ちている。
喉が、きゅっと縮んだ。
助けなければ、と思う。
出血を止め、可能なら応急処置をして、ここから移動しなければならない。
この場所に長く留まる理由は、何一つない。
――分かっている。
それでも、足先に力を入れた瞬間、身体が言うことを聞かなくなる。
動かなければ。
今すぐ、何かをしなければ。
そう理解しているはずなのに、
理解しているからこそ、血の臭いが強く感じられ、呼吸が浅くなる。
暗闇。
湿った空気。
血の臭い。
ここで立ち止まれば、次は誰が倒れるか分からない。
背後で、誰かが息を呑む音がした。
小さな呻き声が、洞窟の壁に反響する。
私は、まだ動けずにいた。
静かな回想の世界から引き剥がされ、
「今すぐ行動しなければならない現実」の只中に戻されて――
その重さに、身体が追いついていなかった。
沈黙を破ったのは、動揺を抑え込んだような、女性にしては少し低めの声だった。
「……ライトをかして」
人の輪の内側から、女性が前に出る。
ジャケットにパンツ姿。動きやすそうではあるが、医療関係者らしさはどこにもない。
その場にいれば、通勤途中か、外回りの会社員にしか見えなかっただろう。
「医師です。専門は外科じゃないけど……応急処置なら」
一瞬、疑うような空気が走る。
だが、次の瞬間には誰かが慌ててペンライトを差し出していた。
男の顔がはっきりと照らされた。
――見ない方がいい。
そう思ったのに、視線は逸らせなかった。
抉られた左目。
血と体液が混じり、眼窩の奥が赤黒く濡れている。
胃の奥が、ひっくり返りそうになる。
「……っ」
女性医師も、一瞬だけ息を詰まらせた。
だがすぐに、表情を引き締める。
「止血を優先します。誰か、清潔な布かタオルを」
「こ、これで……」
差し出されたハンカチは、すでに半分以上が血で染まっていた。
それでも、ないよりはましだ。
彼女は男の顔に直接触れないよう注意しながら、手早く圧迫する。
「意識はありますか?」
「……ぁ……ああ……」
声はかすれているが、反応はある。
それを見て、周囲からわずかに安堵の息が漏れた。
だが、次の言葉が、それを打ち消した。
「正直に言います」
彼女は、顔を上げなかった。
「ここでは、これ以上のことはできません。
出血は抑えられても、感染を防ぐ手段がない。
この環境で時間をかければ、状態は確実に悪化します」
静かだが、逃げ場のない声だった。
「……助からない、ってことですか」
誰かが、恐る恐る尋ねる。
「今すぐ命を落とすとは限りません。
でも――急いで病院で治療する必要があります。」
言い切りだった。
男が、小さく息を吸う。
「……分かって、ます」
無理に作ったような声。
痛みよりも、状況を理解してしまった恐怖が混じっている。
誰も、次の言葉を続けられなかった。
ここが安全ではないことは、全員が分かっている。
だからといって、すぐに動けるわけでもない。
負傷者がいる。
出口も分からない。
闇の中には、あの“影”が潜んでいる。
――どうする?
問いは、誰の口からも出なかった。
私は、人の輪の外側で、その光景を見ていた。
医師の判断は正しい。
応急処置としても、これが限界だ。
それなのに、胸の奥がざわつく。
――違う。
――本当に、これで打つ手は尽きたのか?
理由の分からない感覚。
根拠のない引っかかり。
私は、無意識に自分の手を見ていた。
震えている。
だが、それだけじゃない。
胸の奥に沈んだ“異物”が、静かに存在を主張していた。
下級冒険者の人生。
あの記憶の中には――
確かに、「痛みや出血を抑えるための術式」があった。
完全な治療にはならない。
失われたものを取り戻す力もない。
それでも。
それでも、何もしないよりは――
私は、深く息を吸った。
肺に入り込む空気は冷たく、湿っていて、どこか重い。
血の臭いが混じっているせいか、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
「……あの」
声が出た瞬間、自分でも驚くほど掠れていた。
思わず喉を鳴らす。
「その……本当に、大したことはできません」
一斉に視線が集まる。
期待というより、戸惑いに近い。
当たり前だ。
四十代の冴えない男が、こんな場面で口を開く理由なんてない。
「でも……痛みとか、出血を、少し抑えるくらいなら……できるかもしれません」
言葉を選びながら、必死に続ける。
「……やらせてくれませんか」
一瞬、空気が止まった。
誰かが笑うかもしれない。
誰かが怒鳴るかもしれない。
そんな想像が、頭をよぎる。
だが、最初に反応したのは、女性医師だった。
「あなた、医師じゃないわよね?」
疑いの目。
それでも、完全に切り捨てる視線ではない。
「怪しく思われると思いますが、医学的な方法じゃ、ありません」
自分で言っていて、無茶苦茶だと思う。
こんな説明で、信じろという方が無理だ。
彼女は一瞬だけ視線を伏せ、それから男の傷口を見る。
「……危険な方法じゃないのなら、こんな状況だからどんな方法も大歓迎よ」
その言葉に、背中を押された気がした。
私は、ゆっくりと男の前に膝をつく。
視界の端で、誰かが息を呑むのが分かった。
血の臭いが、さらに近くなる。
胃がきしむ。
それでも、目を逸らさない。
「……痛くはないはずです」
自分に言い聞かせるように呟く。
――触れる必要はない。
異世界人の記憶が、胸の奥から浮かび上がる。
初めて“生活魔術”を使った日の感覚。
魔力を集め、流し、外へ出す。
派手さはない。
英雄の力でもない。
ただ、生き延びるための技術。
私は、両手をかざした。
震えているのが、はっきり分かる。
それでも、止めない。
「……集中しろ」
小さく、そう呟く。
――魔法は感情じゃない。
――技術だ。
――手順を間違えなければ、効果は必ず発揮される。
胸の奥に溜まったものが、指先へと流れていく。
かすかな光が、灯った。
「……っ」
男が、短く息を吸う。
心臓が跳ね上がる。
一瞬、失敗したかと思った。
だが――
男の肩の震えが、ほんのわずかに収まった。
「……あれ?」
掠れた声。
「……さっきより……痛みが……」
その言葉に、周囲がざわつく。
私は、魔力の流れを止めた。
額から、冷や汗が伝い落ちる。
足元が、少しふらつく。
「……私には、これが限界です」
正直に言った。
「治ってはいません。
ただ……悪化を、少し遅らせただけです」
女性医師が、私の手元と、男の様子を交互に見た。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……今の、それ」
迷いと、覚悟が混じった目。
「私にも、できるかしら」
その一言で、頭の中に点が打たれた。
――そうだ。
私は、選ばれた存在じゃない。
英雄でも、天才でもない。
ただ、異世界人の記憶を“知っている”だけだ。
あの記憶の中で、私が使った貧弱な回復魔法は特別なものじゃなかった。
全員ではない。
だが、多くの者が、時間をかけて身につけていた。
生活のために。
――技術として。
もし、あれと同じなら。
やり方を知り、手順を守れば。
再現できる可能性は、私一人に限らない。
私は、医師の視線を受け止めた。
「……やり方なら、説明できます」
言葉で説明することは、最初から諦めていた。
今まで見たことも、聞いたことも、感じたこともないものを、
正確に言語化できるはずがない。
私は、異世界の彼が魔力について教えられたときのことを思い出す。
理屈ではなく、ただ――流され、感じさせられた。
同じように、彼女の手首にそっと触れ、
魔力を、ゆっくりと流す。
押しつけない。
導くだけだ。
彼女は一度、深く息を吸った。
医師としてではなく、一人の人間として、感覚に集中するように。
そして――
一度で、成功させた。
淡い光が、私のときとは比べ物にならないほどはっきりと灯る。
男の傷口が、ゆっくりと、しかし確かに閉じていった。
「……っ」
誰かが息を呑む音。
別の誰かが、小さく声を漏らした。
「本当に……」
「治ってる……?」
女医師は男の様子を確かめ、短く頷く。
「出血は止まってる。痛みも、かなり引いてるはずよ」
その声は落ち着いていた。
だが、指先がわずかに震えている。
――ああ、そうだ。
これが現実だ。
あの異世界人と同じように、
私も“知っていた”はずだった。
それでも、この差だ。
才能というものは、こうも残酷なのか。
「すげぇ……」
誰かの呟きに、空気がざわめく。
視線は、自然と彼女へ集まっていった。
当然だ。
魔法を使って傷を治したのは、彼女なのだから。
私は、そっと一歩、後ろへ下がる。
私にできることは、もうない。
それでも――
「……ありがとう」
かすれた声が、聞こえた。
治療された男だった。
誰に向けたとも分からないほど、弱い声。
私は、何も返せなかった。
私が治したわけでも、救ったわけでもない。
ただ、運よく得た魔法の知識を、
才能ある者に与えただけだ。
それでも、何もしなかった自分よりは、
ほんの少しだけ、前に進んだ――
そう思わなければ、ここに立っていられなかった。
闇の奥で、何かが蠢く音がした気がする。
現実は、待ってくれない。
私は息を吸い、拳を握る。
この力は、頼りない。
だが、今の私にあるのは、これだけだ。
――運が良かっただけの、平凡なおっさんに何ができるだろうか?




