第27話 森の主と死闘
蜘蛛の巣のような網が、全身にべったりと絡みついている。
細い糸が何重にも重なり、腕も脚も思うように動かせない。
力を込めるたび、粘ついた感触が肌を撫で、動きを阻害してくる。
「……っ、くそ……!」
無理やり引き剥がそうとするが、糸は切れるどころか、さらに絡みつく。
まるで生き物のように、逃げ道を塞いでくる感覚だった。
その間にも――
篠原さんは、私とモンスターの間から一歩も動こうとしない。
背中を向けることもなく、こちらを庇うように、真正面から巨体と相対している。
「そんな相手……どう見てもハイオークなんかより強いです。……!
一人で立ち向かうなんて無茶ですよ……お願いですから、逃げてください……!」
情けない声だった。
どうしようもない状況に追い込まれた、ただのおっさんの叫びだ。
「それでもです」
篠原さんは振り返らない。
その背中は、揺るがない。
「あなたを置いていくつもりはありません」
小さく息を吸い、拳を握りしめる。
「――それに、ここで逃げたら……娘に、顔向けできません」
その言葉に、胸が強く締め付けられる。
――助けに来ると、信じている。
私が、この拘束を解いて、必ず前に出てくると。
だからこそ、あの人は踏みとどまっている。
焦りで頭の中が真っ白になる。
どうする。
どうすればいい。
そのとき――
異世界人の記憶が、唐突によみがえった。
拘束具。
糸状の束縛。
魔術の炎で焼き切った光景。
「……そうだ……」
だが、分かっている。
私の炎魔法は、せいぜい指先に灯る程度の小さな火だ。
あれでは、焼き切る前に篠原さんが危険にさらされる。
――だから。
以前、風魔法を暴発させたときの感覚を、思い出す。
魔力の流れを歪め、押し込む。
「……っ、頼むぞ……!」
次の瞬間。
本来なら生まれるはずのない、荒れた熱が身体の内側で暴れ出した。
制御を捨てた魔力が、行き場を失って噴き上がる。
炎が、足元から暴発するように吹き上がった。
「ぐっ……あああっ!」
熱い。
皮膚が焼ける感覚に、歯を食いしばる。
蜘蛛の巣のような網が、軋み、焦げる音を立てる。
蜘蛛の巣状の糸が、耐えきれずに次々と断ち切られていく。
視界が揺れる。
それでも、炎を止めない。
――今、動かなければ。
拘束が弾けた瞬間、私は炎が消えるのを待たず、無理やり前に踏み出した。
地面を蹴り、
倒れかけた篠原さんと、迫りくる植物の巨獣との間へ――
身体を、ねじ込むように飛び込む。
「……っ、無茶しないでください!」
背後から、篠原さんの声が飛んできた。
荒い息が耳に届く。さっき吹き飛ばされた衝撃が、まだ抜けきっていないはずだ。立っているだけで精一杯のはずなのに。
「それは……こっちの台詞です……!」
返した声は、自分でも分かるほど情けなく掠れていた。
炎魔法の暴発で焼けた肌が、じんじんと脈打つように熱を持っている。
「人のこと言えませんよ……そんな無茶……!」
「無茶してるのは、篠原さんのほうでしょう……!」
軽口めいたやり取り。
本当は、そんな余裕なんて欠片もない。
だが、震えそうになる心を誤魔化すには、言葉を交わすしかなかった。
次の瞬間。
巨大な熊型の植物モンスターが、うなり声のような音を立てながら両腕を振り上げる。蔦と幹が絡み合った腕が、空気を押し潰しながら迫ってくる。
「――っ!」
考えるより先に身体が動いた。
篠原さんを背に庇うように、一歩前へ出る。
振り下ろされた一撃を、こん棒で正面から受け止めた。
衝撃が、腕から肩、背骨を通って全身に叩きつけられる。
「……く、っ!」
息が詰まる。
重い。
ハイオークの比じゃない。質量も、力も、別次元だ。
腕が、びりびりと痺れ、感覚が遠のいていく。
歯を食いしばり、足を踏ん張らなければ、そのまま地面に叩き伏せられそうだった。
反撃に、こん棒を振るう。
腰を入れ、全体重を乗せた一撃。
だが――
効いていない。
植物の身体は衝撃を受け止め、しなやかに撓むだけだ。
フィジカルブーストを使った篠原さんの打撃と比べれば、私の攻撃はあまりにも頼りなかった。
このままでは、いずれ力尽きる。
そんな未来が、嫌というほどはっきり見える。
逃げる判断もできない。
彼女を見捨てるほど非情になる心の強さもない。
ただ、終わりが分かっていても、
前に立ち続けるしかない。
情けなくて、臆病で、どうしようもないおっさんだ。
――そんな私とは違って。
「……あ」
背後で、篠原さんが小さく声を漏らした。
「……見てください。あそこ……!」
必死に示された視線の先。
モンスターの巨体、その植物が絡み合う胴の一部が、黒く焦げている。
さっきの炎魔法の暴発。
制御もできず、ただ燃え広がっただけの炎が、確かに爪痕を残していた。
「……炎……効いてる……!」
震えを含んだ声。
それでも、確かな希望が滲んでいた。
その横顔を見て、胸がちくりと痛む。
こんな状況でも、まだ前を見ている。
だが、私はすぐに首を振った。
「……無理です……。
私の炎じゃ……威力が足りない……」
暴走させれば燃やせるかもしれない。
だが、その前に自分が焼け死ぬ。
そんな結末しか、思い浮かばなかった。
――そう、思った瞬間だった。
脳裏に、別の記憶が浮かび上がる。
異世界人だった男。
しがない冒険者だった彼が、遠くから見た光景。
オークキングを切り倒した、A級冒険者。
その剣には――炎が纏われていた。
「……あれ……」
思い出す。
かつて真似をして、失敗した技。
剣に炎を纏わせる未完成の業。
自分の手を焼き、痛みに悲鳴を上げた。
「……それでも……」
今は、それしかない。
篠原さんが、必死に前を向いている。
その背中を見ていると、怖気づいている自分が、どうしようもなく惨めに思えた。
美女が、命を賭けて立っている。
それを後ろから眺めているだけの情けないおっさんで、終わっていいのか。
歯を食いしばり、魔力を武器へ流し込む。
「……っ、ぐ……!」
炎が、こん棒を包み込む。
同時に、柄を握る手の皮膚が焼け、焦げる匂いが立ち上る。
激痛が、脳を殴りつける。
だが、離さない。
「――っ!!」
全力で、叩きつけた。
効果は、劇的だった。
植物の身体が焼け、裂け、乾いた悲鳴のような音を上げる。
初めて、モンスターの巨体が大きく仰け反った。
だが――
向こうも、ただやられているわけではない。
全身から、無数の巨大な蔓が生え出す。
鞭のようにしなり、空気を裂いて四方八方から叩きつけられた。
「……くっ!」
必死に受け止める。
防ぐたびに、炎が蔓へと燃え移り、焦げた音と匂いが広がる。
一本、また一本と蔦が焼け落ちるたび、
炎の勢いが、わずかずつだが確実に増していく。
腕は限界に近い。
視界の端で、篠原さんがよろめきながらも、モンスターの攻撃を必死に引き受けているのが見えた。
フィジカルブーストを使えるほど回復していない。
それでも、前に立ち、蔦を払い、私に隙を作ってくれている。
その姿に、胸の奥が熱くなる。
――ああ、くそ。
怖い。
逃げたい。
それでも。
この人が、諦めていない。
だから、私も――。
そのとき、別の記憶が、鮮明に蘇った。
下級錬金術師として、ハイポーションの素材を集めるために漁った情報。
ミドルポーションの生成にも使える素材を持つモンスター。
――フォレストビースト。
炎に弱い。
だが、焼かれ切る直前、
炎に包まれた植物の“種”を、超高速で弾き飛ばす。
「……っ」
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
同時に、決断した。
残った魔力を、すべて身体強化へ回す。
筋肉が軋み、血が沸き立つ感覚。
私は、一歩前へ出た。
篠原さんの前に、完全に立ちはだかる。
次の瞬間。
フォレストビーストの巨体が――弾けた。
爆ぜる炎。
飛び散る植物片。
その中心から、
炎に包まれた巨大な“種”が、音を置き去りにして飛び出す。
一直線に――
「――っ」
腹部に、鈍く、重い衝撃。
熱と痛みが、遅れて追いついてくる。
口から血が溢れ、
背後で、篠原さんの悲鳴が聞こえた。
視界が、白く弾ける。
次の瞬間、
意識は、深い闇へと沈んでいった。




