第25話 タオルと篠原さんの感謝
さすがに、これはどうにもならない。
全身にまとわりつく果肉と果汁。
ベタベタした感触が気持ち悪く、タオルで拭いた程度では焼け石に水だった。
「……滝つぼ、使いましょうか」
私がそう言うと、篠原さんも自分の腕を見下ろして、苦笑いを浮かべる。
「ですね。これはもう……拭くレベルじゃないです」
ただし、無警戒にはなれない。
ここはダンジョンだ。水場にモンスターが寄ってくる可能性は、さっき身をもって思い知らされたばかり。
「お互い、姿が見える位置で。手早く済ませましょう」
「はい」
私は先に滝つぼへ入ることにした。
足を踏み入れた瞬間、冷たい水がくるぶしを包む。
滝つぼへと進みながら、少し身構えていた。
もっと深く、足を取られるような場所もあるかと思ったが――実際に踏み入れてみると、水深はせいぜい膝あたりまでだ。
「……浅いな」
これでは、手ですくった水をかけるだけでは埒が明かない。
全身にこびりついた果汁を洗い流すのに、いつまでかかるか分かったものじゃない。
少し考えてから、私はそのまま滝の落ち口へ向かった。
次の瞬間、上から叩きつけるような水流が全身を包み込む。
冷たい。だが、不思議と嫌な感覚はなかった。
「……っ」
強めの水が肩や背中、腕を打ち、果肉も果汁も一気に洗い流していく。
感触は、どこか全身を揉みほぐされているようで――冷たいはずなのに、思わず息が抜けた。
ベタつきが完全に消え、肌が軽くなるのが分かる。
火照りも、余計な緊張も、まとめて流されていくようだった。
服の上から軽く叩くようにして水を落とし、滝つぼから上がる。
私が滝から戻ると、篠原さんは少し離れた場所で見張りをしていた。
……とはいえ、視線は一定せず、右へ左へと忙しなく動いている。
慣れていないのだろう。
モンスター警戒の基本は一通り伝えたが、知識や経験が即座に身体に馴染むわけじゃない。
(私は、記憶やら知識やらを半ば強制的に手に入れたが……)
そうじゃない人間に、同じ精度を求めるのは酷だ。
少し悪いことをさせている気分になるが――結局、慣れてもらうしかない。
「……さっぱりしました?」
私に気づいた篠原さんが、少しほっとしたように声をかけてくる。
「ええ。思ったほど深くなかったので、滝をお借りしましたよ」
できるだけ柔らかく、無駄に丁寧なおっさん口調で返すと、篠原さんは小さくうなずいた。
「なるほど……確かに、それが一番早そうですね」
そう言ってから、滝つぼのほうを見る。
そのまま一歩踏み出しかけて、いったん止まった。
水音を前に、ほんの一瞬だけ逡巡する。
そして――意を決したように、小さく息を吸い、滝の下へ進んだ。
ばしゃっ、と音を立てて水が跳ねる。
白い水流が肩から背中へ落ち、髪も服も一気に濡れていく。
「……っ」
驚いたように身を強張らせたあと、すぐに力が抜けた。
「冷たいですけど……これ、気持ちいいですね」
果肉や果汁でべたついていた防具や服は、水を吸って重くなりながらも、
ぬめりだけは確実に流れ落ちていくのが分かる。
濡れて色合いは変わっているが、汚れそのものはもう残っていない。
……まずい。
裸になっているわけでもない。
戦闘後に水で汚れを落としている、それだけの光景だ。
なのに、女性が水浴びをしているのを見ると、
なぜか「見てはいけないものを見ている」ような気分になってくる。
理屈じゃない。
年相応に、というか、どうしようもなく意識してしまう。
私は反射的に視線を逸らした。
「……あの」
滝から一歩離れた篠原さんが、こちらを振り返る。
「どうしました?」
無意識に近づきかけたのを見て、慌てて声を出す。
「すみません、ちょっと待ってください」
ポーチからタオルを取り出し、顔を向けないまま差し出した。
「それ……胸元、隠したほうがいいです」
「え?」
一拍遅れて、自分の服に目を落とす。
次の瞬間、理解したらしく、顔が一気に赤くなった。
「っ……!? す、すみません……!」
慌ててタオルを受け取り、胸を覆う。
「いえ……私のほうが、もう少し早く言うべきでした」
短い沈黙。
水音だけが、変わらず響く。
そのあと、私は準備していた小さな焚火のそばへ移動し、
予備のタオルを渡して、濡れた身体を乾かすよう促した。
焚火の熱で、服と防具が少しずつ乾いていく。
「……今日は、ここまでにしましょう」
火を見つめながら、そう切り出す。
「え? もう少し、探索できそうですけど……」
「環境も、出てくるモンスターも、今までと全然違います。
篠原さんも、相当疲れてるはずです」
反論しかけた彼女に、続けて言った。
「ダンジョンは逃げません。
どうせ、これから何度も来ることになります」
少し考えたあと、篠原さんは小さく息を吐いた。
「……分かりました。今日は、帰りましょう」
焚火の揺らめきを背に、
私たちは帰還の準備を始めた。
焚火の跡をきちんと消し、周囲に不審な気配がないことを確認してから、私たちは来た道を引き返し始めた。
中層と呼ばれているこの空間は、行きよりもどこか静かに感じられる。
巨大な空間を満たす淡い光。
遠くで揺れる草木の影。
水の音はもう背後に遠ざかっているのに、耳の奥にはまだ残っているような気がした。
「……あの」
不意に、篠原さんが足を緩める。
「今日は、本当にありがとうございました」
あまりに唐突で、思わず足を止めてしまった。
「……え? いきなりどうしたんですか」
理由が分からず、素直にそう聞き返す。
篠原さんは少し視線を落とし、それから静かに言葉を選ぶように続けた。
「帰るって決めた途端、急に……どっと疲れが出てきました」
小さく息を吐く。
「もしあのまま探索を続けてたら……たぶん、疲れてることにも気づかないまま、無理してました」
その言葉に、胸の奥が少しだけ重くなる。
「それに、魔力操作やスキルの使い方を教えてもらえなかったら、そもそもダンジョン探索なんてできませんでした」
一瞬、言葉を切ってから、篠原さんは続けた。
「仮に来られていたとしても……ハイオークに、殺されてたかもしれません」
あの戦闘を思い出したのか、拳を軽く握りしめる。
「……あんな酷いことを言ったのに、それでもここまで助けてくれて」
顔を上げ、真っ直ぐこちらを見る。
「感謝してもしきれません。私にできることがあったら何でもしますし、必ずこの恩は返しますから」
(……何でも、って)
一瞬、ろくでもない想像が頭をよぎり、慌てて思考を切り替える。
おっさんの悪い癖だ。ほんとに。
だが、それ以上に胸に浮かんだのは――別の感情だった。
知識も判断も、経験値も。
全部、自分で積み上げたものじゃない。
異世界人の記憶と経験を、苦労せずに手に入れただけだ。
それを思うと、どこか人を騙しているような、居心地の悪さが残る。
邪な考えと、それに続いて湧き上がった罪悪感を隠しきれず、私は少し慌てて言葉を重ねた。
「い、いえ、その……お礼はハイポーションが実際に手に入ったときでいいですから」
自分でも分かるくらい、口調が早くなる。
「ほら、現状だと目的は一つも達成できてませんし。むしろ、これからが本番というか、その……今日はここまでにして正解だったと思いますよ」
篠原さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと表情を緩めた。
「……そうですね」
「じゃあ、その時まで取っておきます」
そう言って、再び歩き出す。
静かな中層の空間を抜けながら、私は小さく息を吐いた。
今日の探索は終わりだ。




