第24話 行水と針角の獣
果汁まみれになったまま立ち尽くしている篠原さんに、私は鞄からタオルを取り出して差し出した。
「とりあえず、拭いてください。ベタベタのままじゃ気持ち悪いでしょう」
「ありがとうございます」
素直に受け取った篠原さんは、顔や腕を拭きながらほっと息をつく。
一方で、私はそのまま滝つぼの縁に歩み寄り、水に手を入れた。
「……あれ? 橘さんは拭かないんですか?」
不思議そうな声に、振り返らず答える。
「水がありますから。こっちのほうが早いです」
私は滝つぼの縁にしゃがみ込み、そのまま手ですくった水を顔にかけた。
次いで、上着の前を開き、袖や胸元を軽く洗う。
冷たい水が火照った皮膚を一気に冷ましてくれて、頭の中まで澄んでいく気がした。
「……はぁ。これは、ちょっと気持ちよすぎるな」
思わずそんな間の抜けた感想が口から漏れる。
さっきまでの緊張感が、水と一緒に流れていったような感覚だった。
――バシャッ。
水面が弾けるような音が、滝つぼの奥から響く。
反射的に顔を上げると、そこにいた。
鹿のような体躯。だが一回り、いや二回りは大きい。
頭から突き出した角は針のように細く鋭く、光を受けて嫌な反射をしている。
ニードルディア。
水場に現れる、中層のモンスターだ。
滝つぼの美しさに気を取られていた。
篠原さんと果物ではしゃいで、完全に気が抜けていたのも事実だ。
日本の森ですら、水場や餌場には野生動物が集まる。
ましてここはダンジョンだ。
水と食べ物が揃っている場所に、モンスターが来ないわけがない。
私は視線を逸らさないまま、ゆっくりと立ち上がり、半歩後ろへ下がる。
そのタイミングで、
「タオル、ありがとうございましたー」
能天気な声と一緒に、篠原さんがタオルを軽く振った。
「……篠原さん。
私が相手を引きつけます。その間に、武器を構えてください」
低く、短く告げる。
状況は一気に変わった。
ニードルディアは水際で前脚を踏み鳴らし、こちらをじっと見据えている。
(ちっ……本当に、落ち着く暇もないな)
好きで戦うわけじゃない。
できれば、このまま何事もなく引き返したかった。
私は小さく息を吐き、意識を切り替えた。
(仕方ない。やるしかないか)
そう自分に言い聞かせながら、武器を手に取った。
ニードルディアが、前脚で水を強く蹴った。
バシャッと水しぶきが上がり、濡れた地面を滑るように距離を詰めてくる。
滝つぼの水面が大きく揺れ、その動きだけでも勢いが伝わってきた。
次の瞬間、細く鋭い角が一直線にこちらへ突き出される。
私は半歩踏み込み、こん棒を横から叩きつけるようにして受け止めた。
――押し負けない。
衝撃はあるが、力負けはしない。
腕が持っていかれる感覚もなく、しっかりと止められている。
だが、問題は数だ。
角は一本じゃない。
枝分かれするように、四方八方へと伸びている。
「くっ……!」
受け止めた衝撃と同時に、別方向へ伸びた角が腕や脇腹をかすめる。
布越しでも分かる、皮膚が裂ける感触。
チリ、とした痛みが遅れて走った。
(厄介だな……)
突きは速くない。
だが、近距離で受けに回ると、どうしてもどこかを削られる。
距離を取ると、今度は篠原さんが狙われる。
それだけは避けたかった。
「――戻ってください! 防具を着けてから!」
背後から駆け寄ってくる気配に、思わず声を荒げる。
「えっ、でも――!」
振り返ると、篠原さんは武器だけを手にしていた。
果肉と果汁の汚れを拭くために脱いだ防具を、まだ身につけていない。
「その格好は危険です!」
私の腕から血が滲んでいるのが見えたのだろう。
篠原さんの顔色が一気に変わった。
「ち、血……血が出てるじゃないですか……!」
「大丈夫です」
ニードルディアから視線を逸らさないまま答える。
「かすり傷です。戦闘に支障はありません!」
実際、深くはない。
ヒリつく程度で、動きに支障はなかった。
ニードルディアが低く鳴き、再び角を構える。
一瞬の逡巡。
それから篠原さんは、悔しそうに唇を噛んだ。
「……分かりました。すぐ戻ります!」
「お願いします!」
篠原さんが後退する気配を確認すると、私は意識をニードルディアに集中する。
ニードルディアの突進。
角をこん棒で受け、弾き、時には体を捻ってかわす。
だが、完全には防げない。
太もも、肩、前腕。
浅い切り傷が、少しずつ増えていく。
(切り傷だけだ。身体の動きに問題ない。)
そう自分に言い聞かせながら、受けに徹する。
やがて、背後から聞き慣れた気配が戻ってきた。
「――行けます!」
振り返らずとも分かる。
防具を装備した篠原さんの声だ。
直後、空気が震えた。
フィジカルブースト。
魔力が一気に高まり、篠原さんの存在感が変わる。
「今です!」
私はニードルディアの突きを真正面から受け止めた。
こん棒から腕へと衝撃が伝わる。
だが、耐えた。
次の瞬間、横合いから重い一撃が叩き込まれる。
篠原さんの打撃が、ニードルディアの首元に直撃した。
鈍い音。
骨が軋む感触が、こちらにまで伝わってくる。
ニードルディアが体勢を崩す。
(やっぱり……)
角は厄介だが、頑強さはハイオークほどじゃない。
私は一歩踏み込み、脇腹へこん棒を叩き込む。
篠原さんが、間髪入れずに追撃。
ニードルディアが大きくよろめき、膝をついた。
――倒した。
そう思った瞬間。
倒れかけたニードルディアが、目をカッと見開いた。
喉の奥から、甲高い鳴き声が弾ける。
「っ……!」
二人同時に身構える。
次の瞬間、空気が一気に押し出された。
突風。
攻撃性のない、ただの風の魔法。
それでも、滝つぼ周辺の植物を一斉に揺らすには十分だった。
次の瞬間。
――パァンッ。
――パパンッ!
魔力を浴びた果物が、次々とはじけ飛んだ。
連鎖的に、容赦なく。
「ちょっ――!」
避ける暇もない。
果肉と果汁が、顔に、胸に、服に降り注ぐ。
さっきよりも、明らかにひどい。
ニードルディアはそのまま力尽き、完全に倒れ伏した。
静寂。
「……」
「……」
互いに、何も言えない。
私は一度だけ、空を仰いだ。




