第20話 野犬と初戦闘
通路の奥から、低く湿った唸り声が響いた。
反射的に足を止めると、篠原さんの呼吸が一段、浅くなるのが分かる。
次の瞬間、石の通路の陰から姿を現したのは――四足の魔獣だった。
痩せた体躯。剥き出しの牙。
黄ばんだ瞳でこちらを睨むその姿は、野犬にしか見えない。
ワイルドドック。
低層に出る、最もありふれたモンスターの一種だ。
「……っ」
篠原さんが、小さく息を呑んだ。
肩が強張り、半歩、無意識に後ずさる。
その様子を見ても私の心は平静だ。
頼りないおっさんの本能が「脅威じゃない」と判断したのか。
怯える他人を見たことで、逆に冷静になったのか。
それとも、頭の奥に残っている異世界人の記憶が影響しているのか。
理由は分からない。
だが――
少なくとも、二人そろってモンスターの前でビクついていない。
それだけで、十分に良い状況だ。
「私が対処します」
自然と、そんな言葉が口をついて出る。
「篠原さんは、そこで見ていてください」
俺自身、モンスターと戦った経験はない。
だが、戦闘を“見た”経験ならある。
黒崎さんたち三人がモンスターと戦う姿を、この目で見てきた。
それに――異世界人の記憶の中には、戦闘の光景も含まれている。
一方で、篠原さんにはそういった経験も記憶もない。
おっさんの戦い方なんて、参考になるかは正直分からない。
それでも、何も知らないままモンスターと向き合うよりは、
目を逸らさずに見ておいた方が、きっとましだ。
ワイルドドックが、地面を蹴った。
本来なら、初心者が正面から受け止めるには厄介な速度だ。
だが――
ワイルドドックの様子が、やけにはっきりと見える。
眼球の動き。
荒い息遣い。
逆立ち、波打つ毛の一本一本まで。
ただ一歩、横に踏み出した。
それだけで、牙は空を切った。
「……?」
思わず、内心で首を傾げる。
もっと反応できないと思っていた。
もっと苦戦する相手と思っていた。
再び跳びかかってくる。
今度は、わずかに踏み込む角度を変えただけで、爪が届かない。
――単純だ。
いや、それよりも。
「……こんなものなのか?」
自分の中にあった戦闘のイメージと、
現実が噛み合わない。
想定よりもあっさり対処できていることに、
わずかな戸惑いを覚えていた。
自分が戸惑っているのを、好機だと判断したのか。
ワイルドドックが、再び勢いよく飛びかかってきた。
だが、やはり。
ただ一歩、足をずらすだけで、その身体は俺の横を通り過ぎる。
すれ違いざま、
一瞬だけ――ワイルドドックと視線が合った。
その瞬間、踏み込む。
異世界の剣――もはや刃の溶けたこん棒を、最短距離で振る。
鈍い音が響き、ワイルドドックの身体が動かなくなった。
通路に、静寂が戻る。
どうやら、このおっさんは――
自分で思っていた以上には、戦えるらしい。
理由はまだ分からない。
だが、その事実だけは、はっきりと理解できた。
振り返ると、篠原さんは少し遅れて大きく息を吐いていた。
恐怖はまだ残っているが、さっきまでの絶望的な表情ではない。
「……参考になりましたか?」
俺がそう尋ねると、篠原さんは目を見開き、
「い、いえ……
その……凄すぎて……」
言葉を探すように、視線を泳がせる。
「……ですよね」
俺は小さく溜息をつく。
戦闘自体に問題はなかった。
だが――これでは、ほとんど参考にならない。
自覚はある。
あまりにも、あっさりしすぎていた。
橘さんが、この間言っていたことを思い出す。
――低層なら、鼻歌を歌いながら戦えるんじゃないか。
さすがに言い過ぎだろう、と思っていた。
だが実際にワイルドドックを相手にしてみて、その言葉を否定しきれなくなっている自分がいる。
少なくとも、恐怖はない。
緊張も、必要以上には湧いてこない。
……あのときの巨大モンスターとは、ここまで違うんだな。
「じゃあ、少しずつ慣らしていきましょう」
通路の先を警戒しながら、篠原さんに声をかける。
「まずは、モンスターの数を減らします」
次に現れたのも、ワイルドドックだった。
数は二体。
俺は迷わず、一体を叩き伏せる。
残った一体がこちらを警戒する前に、距離を詰め――
「篠原さんは、相手の動きをよく見て攻撃してください。
私は大丈夫なので、焦らずに」
そう言って、ワイルドドックの注意を完全に自分へ向ける。
俺は致命打を避けつつ、相手の動きを制御するように立ち回る。
逃がさないが、終わらせない。
その間に――
「……っ!」
篠原さんの攻撃が、魔物の側面を捉えた。
威力はまだ十分とは言えない。
だが、確実に効いている。
「そのまま、もう一度!」
声をかけると、篠原さんは歯を食いしばり、再び魔力を乗せる。
数撃目で、ワイルドドックは倒れた。
「……た、倒せました。」
篠原さんが、信じられないものを見るように自分の手を見る。
「問題なく動けてますね」
そう言いながら、俺は内心で少しだけ安堵していた。
やはり、低層だ。
こちらが意図的に難易度を下げれば、致命的な危険はない。
それからは、同じ流れを何度も繰り返した。
最初は一匹。
次に、二匹。
篠原さんが動きに慣れてきたところで、三匹。
もちろん、無理はさせない。
危険があれば、即座に俺が引き取る。
だが――
最初こそ慎重だった篠原さんの動きは、回数を重ねるごとに明らかに洗練されていく。
魔力の乗せ方、間合いの取り方、そして何より――
モンスターを見る目が、変わってきている。
正直、ここまで順調だとは思っていなかった。
(……このペースなら)
想定していた“最初の壁”は、すでに越えつつある。
篠原さんは、予想以上の速度で成長している。
なら――
次の段階へ進んでも、問題はない。
そう判断できるだけの手応えが、確かにあった。




