第2話 ダンジョンと黒い影
背中に、鈍い痛みが走った。
息を吸おうとして、うまく吸えない。
肺の奥がきしむように痛み、反射的に咳き込む。
「……っ」
声にならない声が、喉で潰れた。
目を開ける。
だが、すぐには状況を理解できなかった。
暗い。
しかし、完全な闇ではない。
ぼんやりとした陰影があり、遠くで何かが反射している。
岩肌のような、ざらついた壁。
天井は高く、輪郭が見えない。
――駅、じゃない。
背中を打ったらしい。
服越しに感じる地面は冷たく、硬い。
体を動かそうとすると、全身が軋むように痛んだ。
周囲から、音が聞こえる。
荒い呼吸。
誰かの小さな呻き声。
どこかで、水がぽたりと滴る音。
いろいろな音が聞こえてくる。
だが、日常の音とは全く異なる。
起き上がろうとして、途中でやめる。
めまいがした。
無理に動くのは得策じゃない。
視線だけを動かして周囲を確認する。
人が、いる。
数人分の影が、同じように地面に倒れたり、座り込んだりしているのが見えた。
誰も喋らない。
喋れない、というより――喋るきっかけを失っている。
ここがどこなのか。
なぜここにいるのか。
どうやって来たのか。
問いだけが頭に浮かび、答えは一つもない。
逃げようとした。
黒いものに呑まれて。
足が動かなくなって。
そのまま――。
そこまで思い出して、考えるのをやめた。
起きてしまったことを整理している場合ではない。
今は、周囲の様子を掴む方が先だ。
私は小さく息を整えながら、同じ空間にいる人たちの気配に意識を向けた。
誰も走っていない。
叫び声も、迫ってくる気配もない。
少なくとも――今この瞬間、差し迫った危険はなさそうだった。
そう理解した途端、張り詰めていた呼吸が、ほんのわずかだけ楽になる。
安堵と呼ぶには、あまりにも小さい。
だが、それでも確かに「一息つける」感覚はあった。
「……大丈夫ですか」
不意にかけられた声に、私はそちらへ視線を向けた。
数メートル先に、五十代くらいの男性が立っている。
背筋は伸びているが、肩の力は抜けきっていない。スーツの上着は土で汚れ、額にはうっすら汗が浮いていた。
私と目が合うと、男性は落ち着いた声で、しかし確かな指示のように口を開いた。
「まずは、自分の状態を確認しよう。痛むところはないか、動けるかを教えてくれ」
視線は周囲を巡り、動かぬ人影や足元の状況を丁寧に確かめている。
状況を整理しつつ、無理に安心させようとするわけでもなく、静かに場を整えようとしているのが分かる。
「……はい。今のところ大丈夫です」
私は背中の違和感を思い出しながら、短く答えた。
男性は軽く頷き、表情をわずかに緩める。
「分かった。では、まずここにいる人数と、怪我をしている人がいないか確認しよう」
その言葉には余計な感情はなく、落ち着いて場をまとめるだけの冷静さがあった。
まるで、「何が起きても対応できる」と空気で示しているかのようだ。
男性は周囲に目を向け、短く呼びかける。
「皆さん、顔を上げてくれ。ケガをしている人はいるか。どこかに動けない人はいないか」
私たちは自然と視線を交わしながら、ゆっくりと人数や状態を確認し始めた。
その声掛けは、恐怖で固まった空間に静かな秩序を生み出す。
――ひとりではない。
それでも、この漠然とした不安が消えるわけではない。
人の気配があることで、逆に現状の不確かさがより鮮明に感じられるのだ。
男性は再び周囲を見渡しながら、低く、しかし確かな声で告げた。
「ここがどこかは分からない。だが、今は動ける者同士で協力し、状況を整理することが先決だ」
その言葉に従い、私たちは少しずつ動きを取り戻す。
五十代男性の落ち着いた呼びかけが、混乱の中でわずかな安心を生み出していた。
空間は、わずかに動き始めた人影のざわめきと、息づかいだけが響く不気味な静けさに包まれていた。
そのときだった――
「……何か、動いたか?」
一人が小さく呟く。
地面に、かすかな擦れるような音。規則正しい、しかし人間の足音とは明らかに違うリズム。
五十代の男性――私たちをまとめた男は、即座に反応した。
「聞こえたか?落ち着いて、周囲を警戒しろ」
全員が音の方向に視線を向ける。
闇の奥、遠くで、黒い影が滲むように浮かび上がった。
その姿は獣のようでもあり、獣ではない。四肢は細く、関節の位置もどこか不自然だ。無駄な肉がなく、生命を奪うためだけに作られた身体に見える。
直感的に、手を出してもどうにもならない相手だと分かった。
影は瞬時に距離を詰め、私たちのすぐ脇をすり抜ける。風が肌を切り、心臓が一瞬止まったように感じる。
「逃げろ! 固まるな!」
男性が声を張り上げる。
しかし、恐怖で足がすくむ人々は動けない。影は私たちを観察しながらゆっくりと距離を詰める。
――ダメだ。
影が再び跳ねた。
今度は真正面からだ。
五十代の男性が前に出た。庇うように、無意識に身体が動いたのだろう。
「やめ――」
言葉は途中で途切れる。
鋭い衝撃音。次の瞬間、男性が地面に叩きつけられた。遅れて、血の匂いが鼻を突く。
「目が……!」
男性は顔を押さえてうずくまる。指の隙間から、赤いものが滴り落ちた。
誰かが泣き叫び、誰かが後ずさる音が。
私は――動けなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。行かなければ、と思う。
でも、体が言うことを聞かない。
――今じゃない。
――今、出たら次は自分だ。
そんな言い訳が次々と浮かぶ。
卑怯だ。否定はしない。
影は男性を一撃しただけで再び闇へと消えた。まるで、こちらを試すかのように。
その場に残ったのは、恐怖と血の匂いだけだった。
「……くそ……」
男性が歯を食いしばる。声は出ている。意識はある。
それを見て、少しだけ安堵する自分がいた。取り返しはつかないのに。
私は壁際まで下がり、背中を預ける。足が震えているのが分かる。
そのとき、手のひらに硬い感触が伝わった。
石……ではない。妙に滑らかで、冷たい。
反射的に手を見る。
壁の一部に異物が埋まっていた。小さな金属片のような、しかし見たことのない形状。
「……?」
触れた瞬間、頭がぐらりと揺れた。視界がぼやけ、誰かの声が重なる。
だが、それは今ここにいる人間の声ではない。
知らない言語。
知らない風景。
剣を振る感覚。
魔力、という言葉。
体の使い方。
情報が流れ込む――――
――なんだ、これ。
不快感はない。気持ち悪さもほとんどない。
ただ、「分かる」。
呼吸の仕方。
重心の置き方。
無駄な力の抜き方。
頭を振ると視界は元に戻った。
何が起きたのかは分からない。
なぜか自分の呼吸や身体の動かし方が間違っていることが、はっきり理解できるのが気持ち悪い。
少し間違いを正して動くと、不思議とラクに動ける。
――さほど速く動けるわけではないけれど。
自嘲が浮かぶ。
自分の変化を確認していると、再び気配がする。
さっきの影だ。今度は、よりはっきりと分かる。
私は前に出なかった。
出られなかった――が正しい。
ただ、声を出すことだけはできた。
「……さっきのがまた来る。」
片目を押さえた男性が、弱々しくも頷く。
全員の意識は、黒い影に集中した。
次の瞬間、影は再び跳ね、こちらに向かって突進してきた。
「こっちだ!」
偶然、岩壁の裂け目を見つけた誰かが叫ぶ。
人一人が通れるほどの狭いトンネル。私たちは互いに押し合いながら、必死に滑り込んだ。
背後から、巨大化した影の咆哮が響く。
身体が大きすぎてトンネルには入れないものの、腕を伸ばし執拗に攻撃してくる。指先が届きそうで届かない距離で止まり、確かな殺意が伝わる。
――殺す気だ。
胸の奥が張り裂けそうになりながらも、私は胸を押さえ、深く息をついた。
危機は一旦去った。だが、床には血が残り、男性の片目はもう元に戻らないことが誰の目にも分かる。
――命は助かった。
その事実だけが、かろうじて心を支える。
だが無事とは口が裂けても言えなかった。
自分が動けなかった事実が、胸の奥に重くのしかかる。




