第1話 通勤とダンジョン
その日、駅にダンジョンが生まれた。
そして俺は、そこにいた。
その日の朝、駅はいつも通り騒がしかった。
ただ――俺にとっては、少しだけ人が多すぎる。
改札へ向かう人の流れ、スマートフォンを覗き込む視線、急ぐ足音。
どれも見慣れた光景だ。
俺もその一部として、流れに逆らわず歩いている。
スーツに身を包み、決められた時間に、決められた場所へ向かうだけの一日。
――人の前に出るタイプじゃない。
その自覚はある。
だから今日も、
目立たない位置を選ぶ。
それで困ったことは、今まで特に無かった。
ホームに降りると、すでに人が溢れていた。
電車は数分遅れているらしい。小さなため息が、あちこちから漏れる。
俺は無意識に柱の位置を確認し、人の流れが緩くなる場所へ移動した。
押されにくく、視界が遮られにくい場所。
……別に、意味があるわけじゃない。
新人の頃に満員電車で一度ひどい目に遭ってから、
そういう場所を選ぶ癖が、抜けなくなっただけだ。
足元。
天井。
非常灯と、非常停止ボタンの位置。
ついでに、ホーム端まで何歩あるかも数えていた。
「考えすぎだな」
心の中でそう呟いて、ネクタイを軽く緩める。
駅のホームで、何が起こるっていうんだ。
それでも視線は、人の密度と、空いた隙間を追っていた。
何かあった時、どこへ動くか。
誰が邪魔になりそうか。
――仕事でもそうだ。
問題が起きる前に、最悪のパターンだけは頭に入れておく。
それを表に出さないのも、処世術の一つだった。
「お客様にお知らせいたします。
ただいま安全確認のため、列車の運行を一時見合わせております。
繰り返します——」
抑揚のないアナウンスが流れ、ホームのざわめきが一段強くなる。
その瞬間だった。
胸の奥が、ひどく嫌な形でざわついた。
理由は分からない。
ただ、今までの「考えすぎ」とは、明らかに質が違う。
――空気が、変わった。
運行見合わせのアナウンスは、確かに流れた。
だが、それを聞いた瞬間、ホームの空気は逆に重くなった。
誰もが動きを止め、周囲の反応を探るように視線を走らせる。
ため息や舌打ちは、遅れて、しかも控えめに広がっていった。
――おかしい。
いつもなら、誰かが文句を言う。
今日は、それがない。
そういうものが、今日は妙に少なかった。
代わりにあるのは、説明しづらい沈黙。
騒がない方がいい、と無意識に全員が察しているような空気だった。
ホームには人が溜まり続けている。
通勤客、学生、買い物帰りの主婦。
誰もがスマートフォンを手にしているのに、操作する指の動きは鈍い。
「……またか」
誰かが小さく呟く。
苛立ちというより、不安を誤魔化すような声だった。
俺も同じものを感じていたが、口には出さなかった。
こういう時、経験上、無駄に動くと余計に状況が悪くなる。
列車が動くなら待てばいい。
動かないなら、何か別の案内が出る。
――問題は、その「何か」が、まだ来ていないことだ。
駅員の様子も、どこかおかしかった。
普段なら忙しなく動き回るはずの人間が、改札付近で立ち止まり、イヤーピースに何度も触れている。
声をかけられても、即答せず、一拍置いてから定型文を返す。
「現在、確認中です」
その言葉が、やけに軽く聞こえた。
見た目だけなら、いつもと変わらない朝の駅のはずだ。
それでも――
何かが、噛み合っていない。
誰かが不思議そうに周囲を見回す。
それに釣られるように、別の誰かも顔を上げる。
アナウンスが流れてから、まだ数十秒しか経っていないはずなのに、
人の流れが、ほんの少しずつ鈍くなっていた。
俺も足を止める。
特別な理由があったわけじゃない。
急いでいるわけでもないし、立ち止まって困ることもない。
ただ――
今は進まない方がいい、そんな気がしただけだ。
いや、「気がした」というより、
これまでの経験で、こういう瞬間を何度か見てきただけだ。
後から振り返って、
「あの時、変だったよな」と思い返すような、
そんな始まり方。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
周囲の人間も、無意識のうちに同じものを感じているのか、
改札に向かっていた流れが、自然とばらけていく。
誰も声に出さない。
誰も異常だとは言わない。
それでも、
駅全体が、次の瞬間を待っているような――
そんな、不自然な静けさだけが、じわじわと広がっていった。
最初に起きた異変は、音だった。
高い金属音が、駅構内のどこかで弾けるように響いた。
何かが落ちた――そんな軽いものじゃない。
硬いもの同士が、勢いよくぶつかった音。
視界の端に、金属光沢が反射した気がした
「……なに?」
誰かが小さく呟く。
次の瞬間、照明が一斉に瞬いた。
一度、二度。
まるで電源が不安定になったかのように、白い光が明滅する。
「停電か?」
そう口にした男の声は、最後まで言葉にならなかった。
――ゴォン。
地面の奥から、低く、重い振動が伝わってくる。
足元が、わずかに揺れた。
「え?」
「地震――?」
そう思った人間は多かったはずだ。
実際、何人かがスマートフォンを取り出し、緊急速報を確認しようとしている。
だが、揺れは続かない。
一度きりだ。
代わりに、
空気が、歪んだ。
改札の少し先。
人の流れが滞っていた空間に、
――いつの間にか、何かがあった。
光を反射しない。
照明の下にあるはずなのに、そこだけが暗い。
いや、暗いのではない。
光そのものが、吸い取られている。
そこに“漆黒”があった。
形は定まらない。
だが、確かにそこに存在している。
だが現実感が、決定的に欠けている。
「……あれ、何だ?」
誰かがそう口にした瞬間、
駅にいた全員の視線が、吸い寄せられるようにその球に集まった。
逃げなきゃ――
そう思ったはずなのに、体が動かない。
逃げろ、と頭のどこかが叫んでいる。
それでも、俺は周囲を確認してしまった。
誰が動くか。
どこが空いているか。
最悪の場合、どちらへ抜けるか。
逃げる方向を決めたときには既に漆黒が、広がっていた。
落ちたのか、滲んだのか、それとも最初からそこにあったのか。
判断する前に、足元が染まっていた。
「な、なんだこれ!?」
一歩下がろうとして、気づく。
足が――動かない。
まるで、地面に貼り付けられたように、
靴底が完全に固定されている。
周囲から悲鳴が上がる。
怒号。
泣き声。
助けを求める叫び。
だが、どれも遠い。
黒い地面が、ゆっくりと――確実に、足首を覆っていく。
引き剥がそうとするほど、吸い込む力は強くなる。
本能が拒絶する。
「やめろ……!」
腰まで、胸まで、
身体が沈んでいく。
恐怖で思考が白くなる。
息が荒くなり、視界が揺れる。
――このまま、飲み込まれる。
そう理解した瞬間、
全身が、一気に引きずり込まれた。
視界が、完全な漆黒に閉ざされる。
音も、重さも、方向も失われた。
それでも、
落ちているという確信だけが残る。
――俺は、どこへ向かっている?
その問いが形になる前に、意識が途切れた。




