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第8話:Sランクの急所と、発情期の氷狐

3/15:改稿しました


翌日。昨夜の高級焼肉パーティの喧騒が嘘のように、凪沙のアパートは静まり返っていた。……はずだった。


「ほれほれ。ほら、捕まえてみろ」

「わーい! なぎさ、あっち! もっともっとー!」


凪沙はソファに深く腰掛け、左手でスマートフォンを操作し、新作スイーツのレビュー動画に没頭していた。だが、その右手は無造作に巨大な猫じゃらし(素材:Aランク魔物の尾の毛)を握り、適当な軌道で部屋中を振り回している。


スズネはそれを追いかけ、部屋中を走り回っていた。

そう、彼女は現在、霊狐の血脈が引き起こす半年に一度の『発情期(健全)』の真っ最中なのだ。


『凪沙様。片手間な遊びは推奨されません。スズネ様の心拍数は平常時の300%に達し、瞳孔の開き具合から見て、もはや「遊び」ではなく「狩り」のフェーズに移行しています』


脳内のエアが警告を発するが、凪沙の意識はスマホ画面の『とろける魔界プリン』の断面図に釘付けだった。


「大丈夫だって。スズネは意外と加減ができる……お、このプリン、カラメルが別添えなのか。うまそ――」


その瞬間、災厄はあまりにも身近な場所から発生した。


スマホ画面に集中し、完全に注意散漫となった凪沙の「無造作に振り回していた右手」の軌道上に、彼自身の「顔」が不運にも入り込んだのである。


遠心力と、無意識のうちに手首のスナップが効いた裏拳。それはSランク探索者の強靭な肉体が放った、あまりにも純粋な物理衝撃だった。


「あ、これうまs――ゴフオッ!!」


鈍い音が響き、凪沙の頭部が真横に弾かれる。

通常、並の魔物が放つ一撃では、凪沙の肌を赤くすることすら難しい。だが、凪沙の肉体は自身の魔力波形を持つ攻撃に対しては、防御膜が「自分の一部」と誤認して素通ししてしまうのだ。


つまり、世界で唯一、凪沙を確実に傷つけることができるのは「凪沙自身の膂力」に他ならないという理不尽なパラドックス。

鏡の中には、自身の拳で見事に左頬へ作り上げた、芸術的なまでの青タンが映し出されていた。


しかし、悲劇の本番はここからだった。

凪沙の呻き声と、「獲物(猫じゃらし)」の完全停止により、スズネの意識が完全に凪沙に向く。発情期で甘えん坊、本能の塊と化したスズネである。


『緊急警告。スズネ様の全神経が凪沙様をロックオン。……衝突まで、0.2秒』


「凪沙ぁぁぁ〜〜!! 大丈夫!? よしよししてあげるぅ〜〜!!」

「ちょ、ま――」


突っ込んできた。亜音速で。


発情期特有の異常なまでの甘え欲求と、Aランク探索者の韋駄天たる機動力が最悪の形で融合した。プラチナブロンドの残像を残し、文字通りの亜音速(マッハ1弱)で突っ込んできたスズネは、まさに必殺の肉弾兵器。


「あべしっ!!」


本日二度目の被弾。『スズネミサイル』である。


凪沙の鳩尾みぞおちに、153cmの小さな、しかし鋼鉄より重いスズネの頭突きがクリーンヒットした。衝撃を逃がそうにも背後にはソファがある。凪沙の意識が、一瞬だけ蒼穹の彼方へと飛びかけた。


「う、うぐ……エア……。雷力変換ライジング・フェーズ……間に合わなかったか……?」


『……いいえ。スズネ様の突進が「殺意ゼロ、愛情100%」だったため、至善経路の防衛プログラムが「脅威」として判定を遅らせました。平たく言えば、凪沙様の油断です』


「なぎさー! お顔いたいいたいなの? じーっとしてて、スズネが治してあげるからぁ!」


胸元に潜り込み、ゴロゴロと喉を鳴らしながら甘えてくる白銀の嵐。

世界を救うSランク探索者は、自らの不注意が生んだ激痛と、制御不能な幼馴染の猛攻の板挟みになり、スイーツどころではない日曜日の幕開けを迎えることとなった。



「あはははっ! ダッサ! マジかよ凪沙、お前本当にSランク様ですか〜? 小学生でもそんな自爆しねえって! あー腹痛ぇ、今どきそんなポカやらかす奴いねえよ! アヒャヒャヒャ!」


ソファに沈み込んだまま、鳩尾を押さえて呻く凪沙の横で、裕二が腹を抱えてのたうち回っていた。

本来、クランの次期遠征先についてエアの超精密な地形演算を聞きに来たはずなのだが、目の前の惨状がその目的を完全に忘れさせていた。


「裕二」

「なんだよぉ、そんな怖い顔すんなって。自分の裏拳で青タン作った奴に睨まれても、笑いのスパイスにしかならねえ……アハハッ!」


『……裕二様。彼が「自分の一撃」で青タンを作れたのは、私の細胞活性化能力を使えば30秒で治せるものを、あえて1時間ほど残して「自業自得」を学ばせている最中だからです。……いえ、スズネ様に抱きつかれているのを見て、少しだけ嫉妬に似たノイズが混じったことは否定しませんが』


エアが冷ややかな声を響かせる中、凪沙は深く溜息をついた。


「……後ろ」

「あ? 言い訳の次は怪談か? んな古典的な手に引っかかる――」


裕二が笑いすぎた涙を拭いながら、おどけて振り返る。

そこには、空気がパキパキと凍りつくような、絶対零度の静寂が佇んでいた。


「……スゥ」


裕二の喉が、引き攣った音を立てる。

そこには、最愛の凪沙を馬鹿にされ(そして、せっかくの甘えタイムを邪魔され)、修羅の如き形相で立ち尽くすスズネの姿があった。


プラチナブロンドの髪は怒気で逆立ち、琥珀色の瞳は冷徹な「狩人」のそれに変わっている。背後には荒れ狂うオーロラのような魔力が渦巻き、アパートの室温は一瞬でマイナス20度まで急降下した。


「……ゆうじくん? いま、なぎさのこと、わらった……?」


「い、いや、これはだなスズネ。親友としての、その、愛のあるイジりというか……」


「……ころす(凍らす)」


「ひぃっ!!」


『緊急警報。スズネ様の魔力出力が「対物・対軍」フェーズへ移行。発情期の独占欲が防衛本能と結びつき、氷結能力が通常の1.5倍に跳ね上がっています。裕二様、逃げてください。……あ、もう逃げ場はありませんでしたね。玄関、凍りついてますから』


エアの非情な実況が響く。

次の瞬間、スズネの足元から爆発的な凍結波が広がり、裕二の足首をガッチリと床に固定した。


「待て! 待て待て待て! 凪沙、助けろ! お前の女だろ! なんとかしろ!!」


「……生憎、俺は今、自分の一撃とスズネミサイルのダメージで『雷力変換』を維持する魔力すら惜しいんだ。自業自得だろ」


裕二が自身の『黒炎』を全力で展開すればアパートごと火の海になり、かといって手加減すれば氷像にされる。詰みである。

凪沙は青タンをさすりながら、冷ややかに親友の最期(?)を見守ることに決めた。


『……凪沙様。あそこでガタガタ震えている裕二様をスマホで動画に収めるのはやめてください。後で高く売れそうですが』


狭いアパートの一室で、Aランクの「炎」と「氷」、そしてそれを見守る「満身創痍の雷(と動画撮影)」という、世界がひっくり返るような高密度な修羅場が幕を開けた。

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