第7話:Sランクの金銭感覚と、究極の共感覚
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カフェから移動した三人が暖簾をくぐったのは、Aランク以上の高位探索者や政治家がお忍びで通う、全席完全個室の超高級焼肉店だ。
大理石のテーブルに座る凪沙の格好は、相変わらず数千円のファストファッションのパーカーである。
「今日は俺が奢る。好きに食え」
「いいの!? やったー! 私は神戸牛の特上カルビ! あとユッケと石焼ビビンバも!」
「本当にいいのか? 遠慮しないぞ? いくらSランクっつっても、これだけの店なら一晩でDランク探索者の年収が軽く飛ぶぞ」
裕二がメニューのゼロの数を見て眉をひそめるが、凪沙は事も無げに、自分用の「赤身セット(並)」を注文しながら言った。
「いいっつってんだろ。普段使わねぇから、有り余ってんだ」
『補足します。依頼の成功報酬に加え、凪沙様の魔力特性に関する特許使用料などが入り、現在の普通預金口座には約800億円がプールされています。さらに昨日のスタンピード鎮圧報酬として5億円が加算される見込みです。……裕二様、彼が破産する確率より、この店が肉切れで閉店する確率の方が100万倍高いですよ』
「「……八、八百億……」」
スズネと裕二が揃って箸を落とした。
Sランクが「国家予算」と呼ばれる所以を、数字という圧倒的な暴力で突きつけられた瞬間である。
「お前……資産800億あって、家賃十万のボロアパートに住んでんのかよ……」
「寝られれば十分だろ。広いと落ち着かないし、高層マンションはエレベーターの待ち時間が面倒だ。何より、防犯なら俺の実力とエアの演算があれば完璧だしな」
「……そうか。なら遠慮なく。すいませーん! 黒毛和牛のミスジ、特上カルビ、タンを三皿ずつ! あとナムル盛り合わせと……優奈(彼女)にお土産の牛しぐれ煮!」
「あ! 私も今のと同じもの!それにフォアグラおにぎり追加!」
開き直った二人が次々と高級食材をオーダーする中、凪沙は網の端で自分の「赤身肉」を焼き始めていた。
「おい、スズネ。……まあいい。食えよ。俺は……この赤身をエアの演算で完璧なミディアムレアにして食うからな」
凪沙がトングを握ると、左目の結晶が微かにハミングし始めた。網の上の赤身肉から、食欲をそそる完璧な香りが立ち上る。
『高級和牛の脂質は、凪沙様の胃腸にとって強敵より厄介な存在です。健康管理を担当する私としては断固拒否します。……現在、赤身肉の表面温度を0.1度単位で制御し、アミノ酸の旨味を最大限に引き出すメイラード反応を完全再現中です』
世界最強の演算能力を使った、究極の肉焼き。
呆れる裕二の横で、スズネの目の前にはすでに空になった皿がタワーのように積み上がっていた。
「……というかスズネ、お前それ何皿目だ。いくらAランクって言ってもそんなに食うのか?」
「あぐっ……ふぇ? あ、えっと、獣人化の維持には莫大なカロリーが必要なんだよ! ……それに、お肉はタンパク質だからセーフなのっ!」
『嘘ですね。スズネ様。現在、摂取カロリーが消費予定量を3,500kcalオーバーしています。明日、絶望しながら体重計に乗る未来が8秒後に確定しました』
「うわあああ! エアちゃんのバカ! 聞きたくない! 私は今、幸せなの!」
スズネは白銀のキツネ耳をペタンと伏せて現実逃避しながら、追加の特上タンを網に並べた。
◇◇◇
「……なあ凪沙。お前、さっきから実体(身を置く場所)が少し揺れてねえか?」
ふと、裕二が鋭い視線を向けた。Aランクの中でも極めて練度の高い彼だからこそ気づく違和感。凪沙が座っている場所の輪郭が、時折、紫の静電気を帯びて蜃気楼のように透けて見えたのだ。
「ああ、悪い。エアが『至善経路』の微調整をしてるんだ。感覚を馴染ませておかないと、いざって時に加速しすぎるからな」
凪沙がそう呟き、指先をパチンと鳴らす。
その瞬間、彼が持っていた水の入ったグラスを透過して、紫の雷光に変わった凪沙の腕がテーブルをすり抜けた。そして一瞬の後、再び完全な実体へと戻る。
「……おいおい。肉体の雷力変換かよ。相変わらず化け物じみた制御だな。あらゆる物理干渉を受け流す無敵状態……俺は『世界顕現』すらできねえってのに」
「俺だけじゃ無理だよ。エアが神経伝達と魔力の変換率を完璧に同期させてるから、こうして飯を食いながらでも維持できる」
『当然です。凪沙様の肉体を電子の速度まで加速させ、物理透過を維持するのは非常に危険な技術です。私が0.000001%単位で細胞をモニタリングし、変換を制御しなければ、凪沙様は「人間」に戻れなくなるか、自身のエネルギーで内側から焼き切れてしまいますからね』
脳内で響くエアの声は、どこか誇らしげだった。
『これは、私と凪沙様にしかできない究極の共感覚。……裕二様は化け物と仰いましたが、私はこれを「究極の信頼の形」と呼ぶことにしています』
「……へえへえ、ごちそうさま。肉より先に胸焼けしそうだぜ」
赤髪を掻き毟りながら呆れる裕二と、満腹で幸せそうに尻尾を揺らすスズネ。
そして、左目の相棒と共に静かに微笑む凪沙。
外界の喧騒から切り離された高級個室の中には、彼らが命を懸けて守るに足る、騒がしくも温かい「日常」が確かに存在していた。




