第2話:神の領域と、日常の最適解
3/13:改稿しました
佐藤専任官が手元のタブレットをスワイプすると、厳重なプロテクトの奥から一人の青年のプロファイルが表示された。
【氏名:世羅 凪沙(23)| ランク:S(国内唯一)】
【種族:人間(変更履歴なし)| 習得スキル:なし】
【ユニークスキル:『至善経路:サポート人格・エア』『世界顕現:無涯の蒼穹』『紫電迅雷』】
写真の中の彼は、黒髪の隙間から気怠げな緑の右目を覗かせ、左目は無機質な漆黒の眼帯で覆われている。
「……23歳。種族変更履歴、なし、か」
佐藤は小さく溜息をついた。今の若者の間では、百万円も出せばエルフや獣人になれる『種族変更オーブ』での肉体改造がトレンドだ。だが、この世界最強の男は、頑なに『人間』という初期設定を維持している。
画面をさらにスクロールすれば、異常なステータス群が並ぶ。
筋力:S、敏捷:S、魔力:EX。
しかし、驚くべきは「習得スキル欄」が真っ白なことだ。
「ノーマルスキルを一つも持たず、たった三つのユニークスキルだけで世界を蹂躙するか……。もはや、人類の枠を超えた『別の何か』だな」
現代兵器を無力化し、核の直撃すら耐えうると目される神の領域。
彼が今日ボイコットすれば、日本という国家は物理的に地図から消える。だからこそ政府は、彼に平身低頭で媚びへつらうしかないのだ。
◇◇◇
一方その頃、命を拾ったBランクの男は、駆けつけたパーティメンバーに囲まれながら、去りゆく凪沙の背中を呆然と見送っていた。
「……あいつ、眼帯してたな。国内唯一の『Sランク』様か?」
「バカ、あれが『至善経路』の演算核だよ。噂じゃ、左目はもう生身じゃないらしい」
横で震えていた仲間がささやく。
クランに所属せず、配信もしないSランク。「黒髪に緑眼」「左目の眼帯」という特徴は、探索者の間ではもはや都市伝説として語り継がれる恐怖の象徴だった。
だが、救われた男だけは、恍惚とした表情で自分の肩を抱きしめていた。
「……なあ。お前ら、聞こえなかったか?」
「あ? 何がだよ」
「……天使だ。あの眼帯の男が俺の肩を叩いた瞬間、脳の中に……いや、魂に直接響いたんだ。信じられないくらい優しくて、慈愛に満ちた、聖母様のような声が」
男は熱に浮かされたように続ける。
「『命をリボ払いで買うのはお止めなさい』って……。あの声を聞いた瞬間、死の恐怖も借金の絶望も、全部洗われるみたいに消えちまったんだ。俺は、今日から心を入れ替える……」
「おいおい、ショックで頭までいっちまったか」
仲間たちは心底同情するような溜息をついた。
「都市伝説の『眼帯の悪魔』が天使なわけねえだろ。あいつ、さっき戦車砲でもかすり傷一つつけられないBランクのリーパーを、指先一つで消し飛ばしたんだぞ? どっちかっていうと、血も涙もない歩く核兵器だ」
「いや、本当なんだ! 本当に天使だったんだって!」
喚く男を仲間たちが引きずっていく中、男だけが、もう見えなくなった凪沙の背中に向かって、救済を授けられた信者のように深く頭を下げ続けていた。
◇◇◇
地下鉄のホームに降り立つと、夕暮れ時の帰宅ラッシュが二人を歓迎してくれた。正直、ダンジョンのネームドを相手にするより、この人混みの方が神経を使う。
凪沙は少しだけ眼帯の位置をずらした。視界の端に、ARのような水色のラインが走る。
《次の駅で32名が下車。車両の重心が左へ4.2度傾斜します。凪沙様、吊り革を握る角度をあと3度修正してください。靴の磨耗を抑えられます》
「……ったく、オフにしてもこれだ。エア、少し静かにしてくれ」
『そうおっしゃらずに。凪沙様の肉体を100%の効率で運用するのが私の使命ですから』
脳内に響く、慈愛に満ちた柔らかな声。
左目の演算回路――エアの「居所」が生成し続ける魔力のおかげで、凪沙はとうの昔に「疲労」という感覚を忘れてしまった。
24時間365日、全盛期の身体能力。たとえ手足が欠損しても、エアの超高速制御によって数分で元通り。それはもはや生物というより、永久機関に近い。
窓に映る自分の顔を見る。一度もオーブを使ったことのない「人間」の顔だ。
『凪沙様。また鏡を見て……。今の筋肉の付き方と魔力回路の同期率は、人類の限界点を超えた芸術品です。他の種族に「改造」するなど、不純物を混ぜるようなもの。……私が、絶対に許しませんよ?』
「わかってるって。……愛が重いんだよ、お前は」
(……あー、それにしても今日も混んでるな。エア、ルート投影)
『了解しました。……解析開始。雑踏の最適解を演算します』
瞬間、右目の視界が変貌した。
モノクロの現実に、極彩色のデジタル・データが上書きされる。石床の上を這うように、水色の光り輝くラインが幾重にも伸びた。
《歩行予測:前方3メートル、スマホに夢中のEランク探索者。左へ15度回避推奨》
《0.8秒後、柱の陰から子供が飛び出す確率87%。速度を5%落としてください》
「おっと……」
凪沙は、あたかも背後に目があるかのような足取りで、混雑の中を滑るように進む。
他人の目にはただの歩き慣れた若者だが、その実、脳内では左目の量子演算回路が、周囲の魔力、気温、さらには人々の筋肉のピクつきまでも計算し尽くしている。
『全く……。国内の探索者の20%を占めるというEランク帯の方々は、危機感が足りませんね。ダンジョンの罠で命を落とす層なのも頷けます』
「おいおい、手厳しいな」
『事実です。年収3000万超えのプロであるBランクですら、先程のように粗悪品に命を預けるのですから。……それに比べ、凪沙様は素晴らしい。Sランクの魔物を前にしても、100万発のミサイルより正確に核を砕くあなたの一撃は――』
「ストップストップ。身内褒めはもういいって」
『……おや。凪沙様、改札の向こう側。不自然なノイズを検知。赤いマーカーを表示します』
エアの警告と共に、一人の男の頭上に赤いターゲット・ロックが点灯した。
『ターゲット特定:偽造ID所持。懐にDランク相当の魔道具。心拍数120、嘘をついている可能性――99.8%。……あら、誰かを待ち伏せしていますね。見過ごせば12秒後に騒ぎになります』
「……仕事の後は、早く帰ってコンビニスイーツ食いたかったんだけどな」
『諦めてください。残業代は出ませんが、善行は徳を積みますよ。それに、私が既に源泉徴収の最終確認を終えましたから、少しは働いてください。……さあ、確定線をなぞってください』
凪沙は溜息をつき、眼帯を深く指で押し込んだ。
光のラインは消えたが、最適解は既にエアから脳内に共有されている。
(……さて、サクッと終わらせるぞ)
凪沙は加速する。
数秒後の未来で、彼がその男の腕を捻り上げ、エアが警察に匿名で通報を終えていることは――もはや「確定した事実」だった。




