夜の図書館:忘れものの棚より「川辺に残る鍵 」
この短編は「忘れものの棚」に収められた物語です。
ここには、言葉ではなく“モノ”が眠っています。
物語の中で置き去りにされた鍵や、渡せなかった手紙、失くした片方のイヤリング。
持ち主が現れるのを待ちながら、静かに棚の上で息をひそめています。
けれど、ときには──
読者がその“持ち主”になることもあるのです。
夜の図書館の片隅、ランプの光が届きにくい低い棚。
あなたが手に取ったそれは、本ではなく、何かの記憶の欠片かもしれません。
──静かな夜ほど、置き去りはよく目につく。
港町の灯りがひとつ、またひとつと消えていく頃。
古い倉庫の壁が淡く波打ち、扉が音もなく開いた。
夜の図書館。
足を踏み入れると、紙と木の匂いが迎えてくれる。
棚は迷路のように入り組み、どこかで小さなランプが瞬いていた。
ふと、低い棚の一角で足が止まった。
──「忘れものの棚」。
札にはそう書かれている。
他の棚と違い、背表紙のない本が並び、その間に物が置かれていた。
真鍮の鍵。
色褪せたリボン。
片方だけのイヤリング。
そして、ひときわ古びた写真。
無意識に、その写真を手に取った。
指先に、ざらついた紙の感触が伝わる。
写真には、知らないはずの風景が写っていた。
夕暮れの川辺、揺れる木陰。
その隅に、小さな影が立っている。
……胸の奥が、不意に疼いた。
次の瞬間、本のページがひとりでに開く。
そこには、誰かが置き去りにした時間が眠っているようだった。
指先から、川の匂いと風の音が流れ込む。
──そして、物語は始まった。
★
写真の中に、足音が落ちた。
気づけば、夕暮れの川辺に立っていた。
水面は赤く染まり、ゆるやかに流れている。
岸辺には風に揺れる柳の葉。
その向こうに、小さな影が背を向けて立っていた。
近づくと、それはまだ十歳にも満たない少女だった。
髪に結ばれたリボンがほどけかけている。
両手を川に向け、何かを投げ入れようとしていた。
「……それ、なに?」
思わず声をかけると、少女は振り返らないまま答えた。
「鍵。いらないから」
「捨てるの?」
「うん。でも、本当は……」
言葉がそこで途切れ、風に溶けた。
次の瞬間、空が暗くなる。
川面に、見覚えのない灯りが浮かんでいた。
それはランプのようでもあり、図書館の光にも似ている。
灯りは流れに乗ってゆっくり遠ざかっていく。
少女は、ふっと息を吸い、投げようとしていた鍵を手の中で握りしめた。
「……やっぱり、捨てられない」
そう言った顔を見たとき、胸の奥で何かが解けるような感覚があった。
知らないはずのその表情を、どこかで見た気がした。
その瞬間、視界が水面に吸い込まれた。
★
目を開けると、図書館の「忘れものの棚」の前に立っていた。
手の中には、さっき写真の中で見た真鍮の鍵がある。
冷たく、重い。
けれど、不思議と手放したくなかった。
本は閉じられ、背表紙のないまま静かに棚に戻っていく。
だが、鍵だけは残った。
棚の奥で、誰かの声が囁いた。
> 「……見つけてくれて、ありがとう」
振り向いたときには、声の主も、夕暮れの川辺も、もうどこにもなかった。
ただ、掌の鍵だけが確かに残っていた。
その重みが、忘れられていた時間の続きを知っているように感じられた。
「忘れものの棚」には、物語と共に置き去りにされたモノが眠っています。
それは持ち主が現れるまで、静かに棚の上で息をひそめています。
時には、読者がその持ち主になることもあります。
──あなたの手にも、いつか何かが残るかもしれません。
また次の棚、次の一冊で、お会いできますように。
廻野 久彩 (Kuiro Megurino)