帰省
蝉の声が、窓を閉めていても入り込んでくる。
目が覚めた瞬間、夏の重さが体にまとわりついていた。
今日はなぜか、実家に帰りたくなった。
何かあったわけじゃない。連絡が来たわけでもない。
むしろ、実家はなるべくなら近づきたくない場所だった。
理由をうまく言葉にできないけれど、
昔、逃げるようにそこを出た──それだけははっきり覚えている。
実家の玄関は開いていて、ただいまも言わずに入ると、
母と妹が台所にいた。
二人とも穏やかな顔をしていた。
まるで僕が帰ってくることを知っていたように。
そのまま自然に、三人で車に乗って出かけることになった。
母が運転席、僕は助手席、妹は後部座席。
行き先は決まっていない。
けれど、ハンドルは迷いなく進んでいた。
緩やかな下り坂にさしかかったあたりで、
母の手がハンドルを強く握りしめた。
「……ブレーキが効かない」
声は、冗談を言うときのトーンじゃなかった。
僕はとっさに横から足を伸ばし、ブレーキを踏もうとした。
けれど、踏み込んでも、車は止まらない。
どんどん前の車が迫ってくる。
そのとき、足元に目をやると──
ブレーキでもアクセルでもない、見慣れない金属の突起があった。
踏むかどうか迷っている間に、車は前の車に衝突した。
気づけば、また家を出る前に戻っていた。
さっきと同じ時間、同じ空気、同じ蝉の声。
ただ、今度は僕が運転席にいた。
母と妹は後部座席に、同じ位置で座っている。
さっきとまったく同じ道を、同じように下っていく。
そして、同じ場所で──ブレーキが効かなくなった。
でも、今度は迷わなかった。
足元の金属の突起に、ぐっと足をかける。
思い切り踏み込むと、車は静かに減速し、何事もなかったように止まった。
──意識が遠のいていく。
家に戻ると、ちょうど父が帰ってきたところだった。
玄関先で、少しだけ笑っていた。
「ちょうどいい。おつかい、頼めるか?」
その声を聞いた瞬間、何かが戻ってきた。
ああ、そうだ。
この人の声が、空気が、重かったんだ。
僕が実家を出たのは、この人から逃げるようにしてだった。
母も、妹も、どこかで同じ気持ちを抱えていた。
でも言葉にしないまま、ただ日々を過ごしていた。
気がつけば僕は、一人でまた家を出ていた。
母と妹は、家の中に残った。
夏祭りの灯りが町ににじんでいた。
遠くで、太鼓と花火の音が交互に響く。
汗ばむ風が通り過ぎていく。
ふと振り返ると、家の窓辺に、四人の姿が映っていた。
母も、妹も、父も、そして僕も──笑っていた。
でも、その笑顔は少しずつ違っていた。
母の笑顔は、張りつめたものだった。
妹の笑顔は、何かを我慢しているように見えた。
父の笑顔は、すべてを分かっている者のそれだった。
そして、僕の笑顔には、ただひとつの願いが込められていた。
──もう一度だけ、やり直せたら。
今思えば、
あの日なぜ実家に帰ろうと思ったのか、少しだけわかる気がする。
何かが終わる気がしていたのかもしれない。
あるいは、呼ばれていたのかもしれない。
僕の知らない、どこかから。