9 好きな子と聖地巡礼をしました
聖地巡礼とは宗教的に重要な場所を参拝して回ることだ。本来だとこの意味になるが、僕は敬虔な信徒ではない。
最近では漫画やアニメ等の舞台となったところをファンが巡ることを指す。こちらの方がよく使用されている気がする。
今日、僕たちが行うのはもちろん後者の意味である。『キミ振』の舞台となったこの街のスポットを花丘さんと巡るのだ。
はっきり言おう。これはデートである。何度でも言うが、紛れもなくデートである。
花丘さんは『キミ振』の聖地巡礼としか考えていないと思うが、僕にとってはデートなのである。
そして、今日、日曜日はデートという名の聖地巡礼の日だ。天気予報によると梅雨にしては珍しく一日中雨が降らないらしい。天候に恵まれたのは日頃の行いのお陰だろうか。
僕は待ち合わせ場所に向かっていた。人生で一番じゃないかというぐらい楽しみで体が爆発しそうである。
待ち合わせ場所は僕たちが住んでいる街の駅だ。駅の改札前に着いた。辺りを見回したが、花丘さんの姿はない。どうやら僕が早く着いたようだ。
スマホの時計を確認すると待ち合わせ時間の三十分前だった。
どうやら楽しみすぎて早く着き過ぎたようだ。好きな子との聖地巡礼だから仕方ない。
とりあえず、時間を潰そうとスマホを起動した瞬間である。不意に僕の肩を軽く叩かれた。
「はい?」
僕は後ろを振り返った。そこには可愛らしい私服姿の花丘さんが眩しい笑顔で立っていた。彼女の顔は楽しみで仕方がないと物語っていた。
「こんにちは、樫山君。今日は楽しみだね」
「……」
「樫山君?」
「こんにちは、花丘さん。ごめん、考え事してて」
花丘さんの笑顔を間近で受けて見惚れていた。彼女の可愛さに時間が止まってしまったように錯覚した。
「樫山君の方が早く着いたんだね。どれくらい待った?」
「ううん、今来たところだよ」
なんだか恋人っぽいやり取りだ。
「集合時間もまだなのに早いね」
「そういう花丘さんだって僕と時間は変わらないじゃん」
「だって、今日は楽しみだったもん」
花丘さんが言った言葉に僕の心臓は撃ち抜かれた。もちろん比喩表情だ。でなきゃ、僕は今頃死んでいる。死因は嬉死である。
けれど、天国に昇るような心地良さであった。
花丘さんの口から楽しみということが出てきて僕は嬉しくなった。厳密に言うと、楽しみなのは聖地巡礼だろう。
「早速だけど、一つ目の目的地に行こうか」
「うん、分かった」
「樫山君、例の物は持ってきた?」
「大丈夫。持ってきてるよ」
僕は自分の背中にあるリュックサックを花丘さんに見せた。彼女はリュックサックを見つめてふふっと笑った。
花丘さんは何も僕のリュックサックが面白くて笑ったわけではない。リュックサックの中身の方だ。
「よし、それじゃ第一回『キミ振』の聖地巡礼を始めるよ」
僕たちは歩き出した。『第一回』と花丘さんは言ったから、第二回や第三回とかがあるのだろうか。
花丘さんに聞いてみたかったが、彼女の楽しそうな顔を見て、やめておいた。
駅からバスに乗り、僕たちは一つ目の目的地へと向かう。しばらくすると、バスは目的地に到着した。
バスから降りた僕と花丘さんに待ち構えていたのは住宅街だった。左右をコンクリートの壁で囲まれた道を僕たちは歩く。
「ここから歩いて十分ぐらいだっけ?」
「うん、そうだよ」
僕の質問に花丘さんは楽しそうに答えた。まるで遠足に行く小学生のような表情を浮かべている。とても可愛い。
とはいえ、実は既に目的地に着いている。一つ目の目的地とはまさに今僕たちが歩いているこの道なのである。
「よく見ると漫画の背景と似ているね」
「そうだよね。あっ! この曲がり角なんてよく似てない?」
花丘さんは何やら興奮した面持ちで道路の曲がり角を指差した。それは一見ただの角なのだが、僕や花丘さんにとってはとても特別な曲がり角だ。
「本当に美春ちゃんや翔君の使っている通学路にそっくりだね」
花丘さんが言うように、今僕たちがいる道路は『キミ振』に出てくる通学路なのである。
僕はリュックサックからある物を取り出した。取り出したのは『キミ振』の単行本だ。
「はい、花丘さん」
「ありがとう、樫山君」
僕から単行本を受け取った花丘さんは開いて、顔の目の前に持っていった。僕も後ろから単行本を覗き込む。
「おおー、こうして見比べると一目瞭然だね」
花丘さんが開いているページは『キミ振』に出てくる美春と翔の登校シーンだ。
寝坊した美春は遅刻しないように通学路を急いでいた。そんな美春の前にキックボード(電動ではない)に乗った翔が現れる。
翔は美春にキックボードを譲り、美春は「このキックボードはどうすればいいの!?」とツッコミを入れながら学校に向かっていくという話だ。
ちなみに翔は家から持ってきたセグウェイで登校していた。
「なるほど。この道を翔君や美春ちゃんはキックボードで走っていったんだね」
感心したように花丘さんは呟いた。内容はトンチキだが、今、僕の目の前の光景が漫画で出てきた。そう考えるとこの道が特別なものに見える。
「単行本を持ってきてくれてありがとうね。お陰でこうして漫画と実際の風景を比べられるよ」
花丘さんの言うように、僕が背負っているリュックサックの中には『キミ振』の全七巻が入っている。
せっかく聖地巡礼に行くのなら単行本を持っていき、現実の風景と見比べようと僕から提案した。
話し合いの結果、僕が家から『キミ振』の単行本を持っていくことになった。僕も何か役に立つことはないだろうかと考えてのことである。
「どういたしまして。それにしてもこの先に学校があるんだね」
僕は目の前にいる道の先を見つめた。通学路ということはこの先に続くのは学校だ。ということはつまり。
「じゃあ二つ目の目的地、美春ちゃんや翔君が通っている学校に行ってみよう」
花丘さんはそう言って、通学路を歩き出した。僕もその後を追う。今日の彼女はいつもに増して元気のように感じた。
通学路から十分くらい歩くと白く大きな建物が現れた。次の目的地の学校だ。
「ここがそうだね」
花丘さんはスマホと目の前の光景とを交互に見ていた。
この高校は僕たちが通っているのとは別の高校だ。『キミ振』に出てくる高校のモデルだろうとインターネットでは言われている。
中には作者の音無先生がこの高校の卒業生だと言う人もいる。
「着いたはいいけど、どうしようか? 中には入れないよね」
目の前の高校にとって僕たちは部外者だ。今日は日曜日だけど、先生や部活のある生徒のためか、校門は開いている。
けれど、部外者の僕たちは学校の敷地内に入ることはできない。このまま押し入ったら不法侵入になってしまう。さてどうするべきか。
「大丈夫だよ。事前にここの高校に通っている友達から写真を借りたんだ」
花丘さんはスマホを取り出した。スマホを操作し、僕に画面を見せる。そこには教室の写真が表示されていた。
「もしかして、この学校の中?」
「そうだよ。話をしたら何枚か写真を撮ってくれたんだ」
僕は教室の写真を観察した。前に黒板があり、机と椅子が規則正しく並べられている。
「なんていうか普通だね」
正直、写真を見ただけでは『キミ振』関連の場所だと分からない。僕たちが通う高校の教室だと言われても区別がつかない。
「まあ、教室はどこも似たようなところだよね」
花丘さんは苦笑していた。彼女も僕と同じような感想を抱いたらしい。
花丘さんはスマホを一旦戻し、画面を操作していた。
「でも、この写真なら分かるかな?」
再び僕にスマホの画面を向けた。次の写真は、校舎と校舎の間にある中庭だった。写真にはひょうたんの形をした小さな池も写っていた。
それを見た途端、僕の頭の中で浮かんできたものがあった。
「第五巻で出てきたひょうたん池?」
「当たりだよ。そっくりだよね」
『キミ振』第五巻に収録されている話だ。昼休みに美春は校内を走り回る翔を見かけた。彼は校内に迷い込んだ子猫を追いかけていた。
美春も翔に協力し、二人して高校を舞台に子猫と追いかけっこを繰り広げるという話だ。
その中で背景としてこの写真のようなひょうたんの形をした池が登場するのである。
「ちょっと待ってね。あった」
僕はリュックサックから第五巻を取り出して、ページを捲った。美春と翔がひょうたん池を背後に子猫を追いかけ回しているページだ。
「本当に似ているね。角度も同じだ」
僕は単行本と写真を見比べながら呟いた。
「最初に送られてきたのは別の角度だったから、私がお願いして、もう一度撮ってもらったんだ」
花丘さんは悪戯っぽく笑った。僕の頭の中で映画監督みたいに撮り直しをお願いしている彼女の姿が浮かんだ。花丘さんが監督なら何度だって撮り直してもいい。
それ以外にも花丘さんは写真をたくさん見せてくれた。渡り廊下や購買、さらには屋上の写真まであった。中に入ることはできなかったけど、美春と翔が通う学校を見ることができて満足だ。
高校から離れた時、時刻は午後一時を回っていた。今頃になってお腹が空いていることに気づいた。
「どこかで昼ご飯を食べようか。何が食べたい?」
「それならいいところがあるよ。行ってみよう」
花丘さんは得意げに笑った。今日のルートは彼女に任せっきりだ。単行本は僕が持ち歩いているが、申し訳なく感じる。
花丘さんに連れられ、やってきたのは喫茶店だ。その喫茶店は昔の家を改築したような古風で落ち着くのある雰囲気だった。
「ここも"もしかして"?」
「うん。樫山君の想像通りだよ」
店内は茶色の生地のボックスシートとカウンターがあった。花丘さんは対応してくれた店員さんにボックスシートでお願いしますと伝えた。
店員さんは頷くと僕らをボックスシートに案内してくれた。
先に花丘さんに座ってもらい、僕はその対面に腰掛けた。
「ここがどこか分かる?」
花丘さんは僕に問いかけた。きっと彼女は喫茶店という答えを望んではいないだろう。
今日の僕たちの目的を思えば答えは自然と導き出せる。『キミ振』関連だ。
僕は頭を必死に回転させた。記憶を掘り返す。好きな子の期待に応えるのだ。
そして、僕の頭は期待に応えた。
「第二巻に出てくる翔のバイト先かな?」
「流石同士だよ」
花丘さんはよくできましたという顔をしていた。彼女から花丸をもらえた気分だ。
休日、喫茶店に立ち寄った美春だったが、その喫茶店でアルバイトをしている翔と遭遇したという話が二巻にある。
周囲を見回してみたが、確かに漫画に出てくる背景と似ている。
「翔君が美春ちゃんに大盛りのカツカレーを出したのがこの喫茶店なんだよ」
「あれは読んでて僕も美春と同じリアクションをしたよ。こんなに食べられないよ!?ってね」
何か食べたいという美春に翔が提供したのが大盛りのカツカレーだった。彼の力作だという。
美春曰く美味しいけど、量が多すぎるらしい。結局、美春と翔が協力して完食した。
その時僕はあることに気づいた。
「もしかして、あの大盛りのカツカレーがあるの?」
もしや漫画で出てきた大盛りのカレーは翔が考案したものではなく、この店のオリジナルだったのだろうか。
僕の指摘に花丘さんは優しく笑った。
「違うよ。大盛りのカツカレーは漫画に出てくるだけでこのお店にはないみたいだよ」
「そうなんだ」
大盛りのカツカレーはどうやら翔、というか作者が考えたものらしい。
「でも、カツカレーはあるみたいだよ。注文する?」
「僕も同じのにしようかな」
結局、僕と花丘さんはカツカレーを注文して食べた。味はとても美味しかった。量が普通のサイズで安心した。
遅めの昼ご飯を食べ終えた僕たちは次の目的地に移動した。バスを乗り継ぎ、たどり着いたのは何の変哲もない高台だった。
「うわー、こんなところがあったんだね」
花丘さんは目の前に広がる景色を見て輝いた笑顔を見せた。眼下にあるのは僕たちが住んでいる街の風景だ。
ここの高台から街を一望できる。僕も今日初めて知ったことだ。
「美春と翔もこの景色を見たんだね」
『キミ振』の第七巻に収録されている話だ。ひょんなことから翔と一緒に下校することになった美春は、彼の案内でこの高台にを訪れた。
真剣な顔で街を見つめる翔を見てときめく美春。不意に彼は美春のことを見つめた。そして、翔は「好きだ」と告げたところで第七巻は終わった。
真相を言ってしまうと、翔が好きなのはこの高台から眺める景色のことだった。勘違いをした美春は顔が真っ赤になっていた。
何故、単行本派の僕が知っているかというと、Webで掲載された『キミ振』を読んだからだ。
「でも、翔が好きになるのもなんとなく分かるよ」
僕は彼と同じ景色を眺めてそう口にした。ここから見ると街の中にいる時とは別の顔が見える。
車が道路を走り、歩道には多くの人が行き交う。公園には子供たちが遊んでいる。
人々の生活を感じられる。翔が好きなのはそういうところかもしれない。
「そうだね」
花丘さんも優しそうな笑顔で街を見つめていた。そして、彼女は僕の方に顔を向けた。
「樫山君、今日は付き合ってくれてありがとう。すごく楽しかったよ」
「僕の方こそ誘ってくれてありがとう。今日みたいに漫画の舞台を巡るなんてやったことがなかったから、新鮮で面白かった」
僕は色々な漫画を読んでいるが、舞台となったところを巡ることはしない。それは距離の問題もあるし、お金の問題もある。
けれど、今日、花丘さんと一緒に色々な場所を訪れて漫画がより身近に感じられた。登場人物と同じ世界に生きている気分になった。
「『キミ振』に出てくる場所はまだあるからね。いつか行ってみたいなあ」
花丘さんの言うとおり、今日だけで『キミ振』関連のスポットを全部回れていない。その時僕の頭の中にある考えが浮かんだ。
「今度は僕が花丘さんを案内するよ」
今日一日は、花丘さんに連れられ、ここまできた。それならば、次は僕が企画して、彼女を連れていきたい。そう思った。
僕の言葉に花丘さんは微かに目を見開いた。やがて、こちらが眩しくなるような笑顔を浮かべた。
「分かった。楽しみにしてるね!」
花丘さんの笑顔を見て絶対に企画しようと決めた。