3 好きな子と一緒に本屋に行きました
「じゃあ、デート頑張ってね」
「デ、デートじゃないから。ただ漫画を買いに行くだけだから」
姉さんのニヤニヤ笑いに見送られながら僕は家を出た。空を見上げると、雲一つない爽やかな青空が広がっている。お出かけには最高の天気だ。
今日は日曜日。これから僕は好きな子と漫画を買いに行くのである。思わず小躍りしてしまいそうだ。
今週の金曜日のことである。いつも通り、僕は花丘さんと一緒に家へと帰っていた。好きな子と下校することを『いつも通り』と表現するなんて僕はとんでもなく幸せ者だ。
「そういえば、今週だね」
唐突に花丘さんはそう言った。何が今週なんだろう。頭を捻ってみたが、答えは出てこない。
「えっと、何のこと?」
僕が尋ねると、彼女は信じられないものを見たような顔をした。しまった、僕は何かやらかしてしまったらしい。
「明後日の日曜日は『キミ振り』の新刊の発売日だよ!」
花丘さんに言われて、僕は思い出した。そういえば、昨日読んだ単行本にもそんな予告があった気がする。
花丘さんにとって僕は同士なのだから覚えていて当然なのだろう。
「そういえばそうだったね。つい忘れちゃったよ」
「もう、樫山君ってば、うっかり屋さんだね」
花丘さんは僕の肩をトンと軽く叩いた。彼女なりの軽いスキンシップかもしれないが、僕は心臓がドキドキしてしまう。けど、この気持ちを味わうためなら僕はもう一生うっかり屋さんでいい。
「花丘さんはいつもどこで漫画を買うの?」
「ショッピングモールだよ。ほら、あの駅前のところ」
彼女の言ったように僕たちが住んでいる街には大型のショッピングモールがある。僕も何度か行ったことがあるからすぐに思い当たった。
「あそこは便利だよね。本屋だけじゃなくて色々なお店もあるし」
「そうそう。本屋に行くついでに買い物もできて、飲食店もあるし。あっ、そうだ!」
花丘さんは輝く笑顔を僕に向けた。その顔は名案を思いついたと語っていた。
「明日、一緒に漫画を買いに行こうよ」
「え?」
好きな子から漫画を買いに行こうと誘われた。僕は近いうちに大きな災いに見舞われるのだろうか。思わずそんなことを考えてしまうほど幸せな気持ちになった。
そして、当日、僕はスキップをしてしまう気持ちを抑えながら待ち合わせ場所に向かっていた。
姉さんにはああ言ったが、今日はデートであると僕の中に位置付けていた。
花丘さんにとってはただ漫画を買いに行くだけにしか考えてないかもしれないが、僕にとってはデートである。そう考えると喜びが体中から満ち溢れてくる。
しばらく歩くと、目的地であるショッピングモールが前方に見えた。待ち合わせ場所はモール近くにある広場だ。
広場は子供が遊ぶための遊具やベンチが置いてあった。広場の端の方にあるベンチで一人の女子が座っている。彼女は見覚えのあるサイドテールをしていた。
「花丘さん!」
僕は自然と走り出していた。まるで磁石に吸い込まれる砂鉄のように彼女に引き寄せられていく。
ベンチに座っていた花丘さんは僕の声が聞こえたのかこちらに向かって手を振っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今着いたところだよ。隣、座って」
なんだか恋人っぽいやり取りをした後、僕は花丘さんの隣に腰掛けた。ベンチは大人2人が座れるぐらいの大きさで、油断すると花丘さんの肩に触れてしまいそうだった。
花丘さんは私服だった。学校ではないから当たり前だけど、今まで制服姿しか見たことがなかったから、彼女の私服姿は新鮮だ。もっと言うと、私服姿の花丘さんも滅茶苦茶可愛い。
「いよいよだね、樫山君」
花丘さんは今日の太陽みたいに輝く笑顔を僕に向けた。心なしか学校の時よりもテンションが高いように見える。
「私、楽しみすぎて昨日の夜はあまり眠れなかったよ」
「え?」
彼女の言葉に胸が高鳴った。そんなに僕と出かけることが楽しみだったのだろうか。
「なんて言っても、数ヶ月ぶりの新刊だからね。いやー、本当に楽しみだよ」
「そ、そうだね」
花丘さんはベンチに投げ出した足を前後にプラプラさせていた。それほどまでに新刊が読みたいみたいだ。
花丘さんが楽しみにしているのは、僕と出かけることではなくて、漫画だった。冷静に考えれば当たり前のことである。最近の僕は調子に乗っていたようだ。一旦落ち着こう。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
僕たちはベンチから立ちあがり、ショッピングモールに向かった。
花丘さんが好きな漫画である『キミに振り回される私の気持ち』、通称『キミ振』について説明しよう。
この漫画はWeb漫画サイトに週刊連載されている。連載はWebだけど、紙の単行本も発売中だ。
ストーリーは男女の高校生の恋模様を描いたものだ。主人公である女子高生の小江原美春はクラスメイトの豊洋翔に想いを寄せている。
彼と仲良くなるため美春は奮闘するのだが、この翔が中々の曲者、というか変人で、様々な奇行で美春を惑わす。
例えば、お弁当を一緒に食べようと誘った美春に対し、翔は三段からなる重箱のお弁当を持ってきた。
お互いのおかずを交換することになったが、翔のお弁当のおかずはたくさんあり、結果的に美春はお腹いっぱいになるまで食べてしまった。
変人なイケメン男子高校生とそれに色々な意味で振り回される女子高校生とで繰り広げられるコメディ寄りの少女漫画だ。
僕も読んでみたが、翔の意味不明な行動に笑えてくるし、それに対する美春のリアクションも可愛いためハマってしまった。
それでいて、不意打ち気味に王道の恋愛漫画のような描写もあるのでドキドキも味わうことができる。
現在、六巻まで出ていて新規の読者にも買いやすい。この機会にぜひ手を取ってみてはどうだろうか。
「樫山君、どうしたの?」
好きな子の声が聞こえたので、僕は意識から浮上した。花丘さんが僕を見つめていた。
思わず『キミ振』のレビューをやってしまったようだ。日頃、直己と漫画をおすすめし合っているため、面白い漫画を目にすると心の中でレビューを行ってしまう。
「ご、ごめん。どの漫画が面白そうかなと考えていて」
「そっか。こんなに漫画があるとそうなっちゃうのかな?」
花丘さんは納得したような顔をしていた。僕たちの目の前には天井まで届きそうなほどの本棚があった。それが壁一面に並べられている。
今、僕たちはお目当ての本屋にいる。モールにある本屋は大型の書店で漫画の売り場だけでも結構な広さを誇る。
僕と花丘さんは漫画の新刊コーナーに来ていた。そして、今日の目的と言っても過言ではない『キミ振』の新刊である七巻を見つけたところだ。
「それにしても特典付きなんだね」
僕は手に取った漫画を眺めた。この書店で販売されている『キミ振』の新刊には特典であるイラストカードが付いていた。
「この特典はね、音無先生の書き下ろしなの」
「へえ、それは珍しいね」
書店特典のイラストカードは既存のイラストを流用したものが多い。特典のために書き下ろしをするなんて多忙な連載作家では珍しい。
ちなみに花丘さんが言う音無先生とは『キミ振』の作者である。彼女曰く音無久志先生はプロフィールが謎に包まれていて、ネットでは様々な憶測が語られているという。
「ネットに書いてあったけど、音無先生ってこの街の出身らしいよ。だから、この本屋に特典が置いてあるんだって」
「なるほど、この街の人が描いているんだね」
僕が読んでいる漫画の作者が僕と同じ街の出身という。そう言われると作者に対して親近感が湧いてくる。
僕の反応を見て、花丘さんは得意気な顔になった。とても可愛い。
「あとね、この街が漫画の舞台になっているみたいだよ。SNSの情報だけどね」
「えっ、そうなの?」
これには僕も驚きの声を上げた。作者が同郷なだけでなく、自分が住んでいる街が漫画の舞台になっているとは。なんだか自分の住んでいる街が特別なものに思えてくる。
不意に僕の頭の中である閃きがあった。
「もしかして、三巻で出てくるショッピングモールって、ここのこと?」
『キミに振り回される私の気持ち』の三巻にはショッピングモールが出てくる話がある。
モールに訪れた美春はペットショップでチワワと睨めっこをする翔と出会う。美春は翔に振り回されながらモールにある色々なお店を巡るという読者の中で人気の高い話である。
「そうだよ。流石樫山君だね」
花丘さんはよくできましたという顔をしていた。その笑顔を見ていると、テストで良い点を取った時よりも遥かに嬉しく感じられる。
「じゃあ、二人が出会ったペットショップはここの二階にあるお店かな?」
「そうなんだよ! 私たちが知っているところが漫画の舞台になるなんてすごいよね」
花丘さんは目を輝かせていた。彼女が僕と同じような感慨を抱いていたようだ。好きな子が自分と同じ感性をしていることが妙に嬉しく感じた。
「このモールだけじゃなくて、他のところも漫画に出てくるよ。前にファンサイトで紹介されているのを見たことがあるの」
そう言って、花丘さんは嬉しそうな顔で僕に教えてくれた。彼女曰く何々の喫茶店や学校、果ては道路まで漫画に出てくるらしい。
「そんなにたくさんあるんだ。なんかマップでも作れそうだ」
「私もそう思うよ。いやー、同士なら全部のスポットに聖地巡礼したいね」
作品の舞台となった土地を巡ることを聖地巡礼というが、その理論だと、確かに僕たちが住んでいる街も『聖地』だ。本当に花丘さんは『キミに振り回される私の気持ち』が好きだということが伝わってくる。
「無事に買えて良かったね」
「今から帰って読むのが楽しみだよ」
漫画を購入した僕たちは、本屋を出て、モールにあるフードコートにいた。本屋を出た時がちょうどお昼時だったため、こちらに移動した。
某ハンバーガーチェーン店でハンバーガーとポテト、ジュースのセットを買って、席に着いているところだ。
「花丘さんは買ってすぐには読まないんだ?」
「今すぐに読みたいよ。けど、ほら、外だと人の目があるからね」
花丘さんが言うには、彼女が漫画を読む時、登場人物たちに感情移入して、リアクションを上げてしまうという。ワーとかキャーとか思いっきり声を上げてしまうそうだ。その姿を頭の中で思い浮かべてみた。とても可愛い。
「僕も気持ちは分かるよ。落ち着くところでじっくり読みたい時もあるよね」
僕も漫画を読む時は大体自分の部屋だ。外でも読めないこともないが、人の声や周りの音が耳に入り、漫画に集中できない。
「でも、早く読みたいよ。前回で気になるところで終わっちゃったし」
花丘さんは待てと言われた犬みたいな顔をしていた。彼女の様子だとお昼ご飯を食べて解散かもしれない。
もう花丘さんとのデート(僕の主観)が終わってしまうのは残念だけれども、彼女が漫画を楽しみにしているなら仕方ない。新刊を早く読みたい気持ちはとても分かる。
「それに、樫山君と感想を語り合いたいからね」
油断していたところに花丘さんからとんでもなく嬉しいことを言われた。彼女にとって僕は同じ漫画が好きな同士なだけで、特別な気持ちではないことは分かっている。それでも嬉しい気持ちに変わりはない。
「それだと次に会うのが月曜日だね」
今日が日曜日で、明日は月曜日だからすぐのように思える。しかし、僕と花丘さんが一緒に帰るのは放課後だから、すぐとはいえない。
ふと頭の中で閃いたものがあった。
「じゃあさ、今日の夜に通話しない?」
僕はズボンのポケットからスマホを取り出した。
「通話か。その手があったね」
「次の日は学校だからそんなに長くはできないけど、どうかな?」
一緒にショッピングモールに行くことに決まった後、僕と花丘さんは電話ができる某SNSアプリの連絡先を交換し合っていた。だから、僕たちはお互い連絡をとることができる。
「いいよ。やろう。やってみたい」
花丘さんは僕の提案を楽しそうに受け入れた。僕は心の中でガッツポーズをした。
こうして、僕は好きな子と電話することになった。しかし、僕はこの時知らなかった。この後、あんなことになってしまうとは夢にも思わなかった。