2 好きな子を家に誘いました
僕は機会を窺っていた。チャンスは必ず訪れる。その時を待てばいい。
花丘さんの一挙手一投足を目で追う。こういうのはタイミングが大切だ。逆に言えば、タイミングを逃してしまうと上手くいかないだろう。
「樫山君、どうしたの?」
いつもは太陽のように明るい笑みを浮かべる花丘さんだが、今は心配そうな顔で僕を見ていた。彼女にそんな表情をさせている原因は僕である。不甲斐ない自分を呪いたくなる。
「なんでもないよ。そんなに変だった?」
「うん。何だか落ち着かないように見えるから」
花丘さんの言葉に僕は狼狽えそうになった。いや、彼女からすると既にそう見えるのか。
花丘さんに決して悟られてはいけない。僕が何を企んで、いや、この表現だと僕が悪いことをするみたいだな。
ともかく、花丘さんに僕が考えていることを悟られてはいけない。僕は深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
「もしかして、私と一緒に帰るのは嫌だった?」
「そんなことはないよ!」
自分でも驚くほど大きな声を上げてしまった。前に、直己から「もう面白い漫画はないか」と言われた時よりも大きな「そんなことはないよ!」が出てきてしまった。
「あっ、ごめん。大きな声出しちゃって」
「ううん、樫山君がそう言ってくれてよかった。それで私が好きな話なんだけど」
そう言って、いつもの輝くような笑顔に戻った花丘さんは楽しそうに語る。話題はもちろん彼女の好きな漫画についてである。
「それで樫山君はどの話が好き?」
「僕はね」
昨日と違い、僕は淀みなく彼女の質問に答える。昨日、花丘さんの好きな少女漫画である『キミに振り回される私の気持ち』を夜通し読んだ甲斐があった。
そのせいで眠気がとんでもないことになっているが、花丘さんと話せるなら全く苦ではない。
正直眠気どころではない。僕にはあるミッションが課せられている。あの左右に分かれた道路に着く前に、花丘さんを僕の家に誘うのだ。
花丘さんと一緒に下校した日の夜のことだ。僕はある人にこれからの僕を左右する重要なお願いをした。
「姉さん、僕に漫画を貸してください」
僕は床に座って土下座をした。相手は実の姉の樫山志磨だ。ちなみに姉さんは大学三年生である。
姉さんに土下座するなんて高校受験の時に勉強を教えてくださいとお願いした時以来だ。
姉さんはいつも厳しく、時にとても厳しく、僕を導いてくれる。だから、今回も姉さんに頼ろうと思った。
「なるほどね。経緯は分かったわ」
僕から事情を聞いた姉さんは椅子に座り、肩まで伸びた髪を後ろに払った。実の姉ながら整った顔立ちとその仕草はモデルみたいに様になっていた。
「それにしても愚弟はとんでもない愚かなことをしでかしたようね。見栄で女の子に嘘を吐くなんて最低よ」
「うっ。その件については弁明しようがありません」
姉さんに言われて今更ながら僕は罪悪感を覚えた。友達のアシストから始まったとはいえ、僕が花丘さんに対して少女漫画が好きだという嘘を言ったことに変わりはない。
昨日はたまたま運が良かっただけで、彼女にバレてしまう可能性があった。
「だから、これ以上嘘にならないように僕に漫画を貸して欲しいんだ」
花丘さんが好きな漫画を僕も読めば嘘じゃなくなる。それに彼女ともっと仲良くなれるだろう。
「理由はよく分かったわ」
珍しく姉さんは頷いてくれた。僕の予想ではもう少し色々と言ってくると思ったが、今日は機嫌が良いのだろうか。
「けど、一つ聞かせてちょうだい」
「何?」
「どうして、遥真は私に土下座までして漫画を貸して欲しいの?」
姉さんはいつになく真剣な目で僕を見てきた。その目に見つめられて僕は姿勢を正した。
姉さんの問いかけに僕は考える。どうして僕はここまでするのか。その答えは決まっている。
けれど、その答えを言うのか。よりによって姉に向かって。少し、いや、かなり恥ずかしい。
「理由も言えないようなら漫画は貸してあげないわ」
「くっ」
姉さんの言葉に僕は決心を固めた。こんなことは姉に言いたくない。揶揄われるに違いない。けど、それでも言うしかない。
昨日みたいに花丘さんと一緒に帰りたいから。昨日と違い今度はちゃんと話をしてみたいからだ。
「僕は花丘さんのことが好きだ。彼女ともっと仲良くなりたい」
僕の宣言に姉さんは真っ直ぐに僕を見つめた。その顔は間違いなく面白がっている様子だ。けれど、もう僕の気持ちは言ってしまった。だから、正直になるしかない。
「だから、僕に漫画を貸してください」
僕は三度頭を下げた。一日に、それも短時間で土下座を三回もするとは思わなかった。
「愚弟よ」
「はい」
僕は頭を上げた。姉さんはニヤニヤと笑っていた。ほら見ろ、こうなった。
「好きな子と仲良くなるために少女漫画を読むなんて青春ね。それも姉に土下座するほどなんて」
「くっ」
「けど」
姉さんの表情が変わった。いや、整形したわけではない。ニヤニヤとこちらを馬鹿にするような笑いから微笑ましいものを見るかのような温かみのある笑顔に変わったのだ。
「人生一度きりの青春なんだから精々頑張りなさい。嘘を吐くのはいけないことだけど、その嘘を本当にしてみるのよ」
「ということはつまり……?」
「ええ。漫画は貸してあげるわ」
「やった! ありがとう、姉さん。って、痛っ!」
僕は立ち上がりガッツポーズをしようと思ったが、足の痺れで上手く立てなかった。どう考えても正座をしたせいだ。
「けど、条件があるわ」
足の痺れで苦しんでいる僕の頭上に姉さんの声が降ってきた。
「え? さっきの土下座で貸してくれるんじゃ?」
「何か言った?」
「何でもないです」
姉さんは再びニヤニヤとした笑い顔に戻った。まずい、これは良くない兆候である。
「あんたの好きな子をこの家に連れてきなさい」
「はい?」
こうして、僕は姉さんから花丘さんを家に誘うというミッションを課せられた。
その後、姉さんから漫画を貸してもらい、さらに足の痺れを取るためのマッサージ(まあまあ痛かった)をしてもらった。いつも厳しいけれど、なんだかんだで優しい姉さんだ。
そして、漫画を貸してもらった次の日のことである。姉さんから漫画を借りたお陰で今日の帰り道では花丘さんと会話が弾んだ。
元々漫画の感想を語り合うのは今まで直己とやっていたが、それでも花丘さんと漫画について語り合うのもとても楽しい。彼女の楽しそうな様子を見て、僕も心が温かくなるからだ。
けれど、楽しい時間はいつまでも続かない。タイムリミットを告げるものが少し前方に見えた。
それは左右に分かれた道路である。昨日は助けられたこの分岐点だが、今は時間切れの象徴に見える。
花丘さんを家に誘うというミッションはあの分かれ道に辿り着くまでに達成しないといけない。
もし、達成できない場合は、姉さんから何をされるのか想像するだけで恐ろしい。僕の勉強を見てくれなくなるかもしれない。最悪の場合、今後、漫画を貸してくれない恐れがある。
それに僕だって花丘さんともっと話がしたい。そのためには彼女を家に誘う必要がある。
「あっ、もうお別れだね」
名残惜しそうな花丘さんの声に僕は今更ながら気づいた。色々と考えているうちにあっという間に分かれ道の目の前まで来てしまったようだ。
「今日も楽しかったよ。本当にありがとうね」
「僕の方こそ楽しかったよ」
普通に喋りながら、その実、頭の中では焦燥感で一杯だった。どう考えても会話が終わる流れだ。
「じゃあ、また明日学校でね」
花丘さんはサイドテールを揺らしながら右側の道に向かって歩き出した。彼女の背中が遠ざかっていく。
「花丘さん!」
気づけば僕は声を出していた。僕の声が聞こえたのか、花丘さんはくるりとこちらを振り返った。
「どうしたの?」
花丘さんは不思議そうな顔をしていた。こんな風に僕から呼び止めたのは初めてだからだろう。
彼女は歩き出さず、立ち止まってくれた。僕が呼び止めたのだから僕から話さないといけない。
賽はもう投げられた。僕は拳を固く握りしめた。
「もう少し僕の家で話さない?」
「樫山君の家?」
花丘さんの目が微かに見開いた。その様子から僕はド直球で家に誘ってしまったことに気づいた。
「ほら、僕の家も漫画があるし、せっかくなら漫画を見ながらお互いの好きなシーンを語り合わない?」
僕は両手をあちらこちらに動かしてながら弁明した。まるで必死に食い下がるナンパ男みたいだ。いや、あながち間違いではないか。
僕の提案を聞いて花丘さんは人差し指を頬に当てて考えていた。やがて顔を輝かせた。
「うん、分かった。お邪魔するね」
「本当!? いいの?」
「だって」
花丘さんは一旦言葉を区切った。彼女の顔は夕焼けに照らされているためか赤くなっているように見えた。
「私ももっと樫山君と話がしたいから」
その言葉を聞いて僕はこれまでの人生が報われたような気がした。
「ど、どうぞ、入って」
「お、お邪魔します」
僕は玄関のドアを開けて、花丘さんを家の中に入れた。僕はとても緊張していた。好きな子を家に招いたのは生まれて初めてだからだ。
「僕の部屋は二階だから」
そう言って、廊下にある階段を指し示す。ちなみに姉さんの部屋も二階にある。
「わ、分かった」
僕の家に入ってから花丘さんの様子が変だ。いつもは明るい表情を浮かべ、僕をはじめとしたクラスのみんなに元気を与えてくれる。
そんな彼女が今はなんだかぎこちない。顔にも緊張が走っているのが見て分かる。
「えっと、花丘さん、大丈夫?」
「えっ!? 大丈夫だよ。どうして?」
「いや、何か緊張しているみたいだから」
僕がそう言うと、花丘さんは辺りを見回して、やがて口に手を当てて内緒話をする時の仕草をした。
「私ね、男の子の家にお邪魔するの初めてなんだ。だから、緊張しちゃって」
そんな言葉を聞いて、僕もまた内心ドキドキした。まさか僕が花丘さんの初めての男(語弊)になってしまった。
「そうなんだね。気にしなくていいよ。今、この家には僕たちしかいないから」
両親は仕事に出掛けており、姉さんも大学に行っている。家族がいないから気を遣わなくていいと安心させるつもりで言ったが、その時僕の頭に衝撃が走った。
(今、この家には僕たちしかいない!?)
僕は今、好きな子と家で二人きりの状況なのである。
花丘さんと一緒に帰るだけでもとてもドキドキする。それなのに、そんな彼女と誰もいない家に一緒にいる。これはもうとてもめちゃくちゃすごくドキドキするに決まっている。
「じゃ、じゃあ、僕の部屋に行こうか」
「う、うん」
僕は階段を登り始めた。花丘さんも後ろでついてきているのが分かる。けれど、今の彼女がどのような表情を浮かべているのか分からなかった。
「へー、これが男の子の部屋なんだね」
僕の部屋に入った花丘さんは部屋の様子を見回していた。今朝、部屋を全力で掃除しておいて良かった。
と、そんなことはどうでもいい。今、僕の部屋に好きな子がいる。自分から誘っておいたのもなんだが、僕はとんでもないことをしているのではないだろうか。
「この棚にあるのって全部漫画なんだ。樫山君はたくさん漫画を持っているね」
花丘さんは部屋にある本棚を感心したように眺めていた。漫画好きである僕の部屋には壁の一面を覆い尽くすように本棚があり、さらに本棚には漫画が所狭しと並んでいる。そろそろ新しい本棚が欲しくなってきたぐらいだ。
「そうだね。色々集めているんだ」
「へー。あれ? 『キミ振』が本棚にないよ?」
「え?」
花丘さんにつられて僕も本棚を見た。一通り見たが、確かにない。僕は焦燥感を覚える。しかし、その時記憶が甦った。
「それならこっちにあるよ」
ほらと僕が指差したのは部屋の中央にある長方形のテーブルだ。その上には『キミ振り』が置いてあった。
昨晩、一気読みした後、本棚に戻さずテーブルの上に置いたのだ。一瞬焦ったが、なんとか思い出せて良かった。
「これだよ、これ」
花丘さんは嬉しそうな顔をしながらテーブルに駆け寄り、単行本を手に取った。
「うんうん。ちゃんと全巻あるね。流石同士だね」
そう言って、彼女は輝くような笑顔を僕に向けた。その笑顔は思わず自分の罪を告白してしまいたくなるほど眩しかった。
「ま、まあね。それより座って」
僕は来客用のクッションを花丘さんのそばに置いた。誰も使っていない新品のものだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
花丘さんは制服のスカートを押さえながらクッションに腰を下ろした。僕も同じように床に座った。 花丘さんは手に持っていた漫画をパラパラとめくった。
「ほら、ここが私の好きなシーンだよ」
「へあっ!?」
僕が変な声を出してしまったが、花丘さんがおかしな行動をとったわけではない。彼女は漫画を見せようと僕に近寄っただけである。よりはっきり言うと、僕に至近距離で近づいてきたのである。
「大丈夫? 何か声を出してなかった?」
花丘さんは心配そうな顔をしていた。僕と距離が近いままだ。
「大丈夫だよ。気にしないで。そのシーンが花丘さんのおすすめなんだね」
僕は話題を戻した。その間も心臓はうるさく鼓動していた。
「うん、そうなの。樫山君はどのシーンが好きなの?」
花丘さんは僕に単行本を渡した。何度でも言うが、距離は近いままである。心臓に悪い。
「えっと、僕はね」
僕は単行本を開いてお気に入りのシーンを探した。この後も僕と花丘さんは互いの好きなシーンを紹介し合った。
「はっ!」
突如僕は意識が目覚めた。どうやらあまりの眠気についに限界が来たらしい。気づかないうちに眠りについてしまったようだ。
「あれ? 花丘さんは?」
僕は辺りを見回した。僕がいるのは自分の部屋だ。しかし、そこに彼女の姿が見当たらない。
まさか花丘さんと同じ部屋にいたのは夢だったのだろうか。だとするとどこからが夢なのか。もしや、昨日、花丘さんと一緒に帰ったのすら夢で……。
「ん?」
僕はテーブルに置いてあるあるものに目が止まった。それはノートの切れ端のようで、可愛らしい字でこう書いてあった。
『気持ちよさそうに寝ていたから今日は帰ります。お邪魔しました! また語ろうね!』
その字に見覚えがない。姉さんはこんなに可愛らしい字を書かない。ここから考えるにこれは花丘さんの書いたものだろう。その時僕が眠りにつく前の出来事を思い出した。
語り合った後、花丘さんがトイレを借りたいと言ってきた。僕が一階にあるトイレの場所を教えると、彼女は部屋から出ていった。
一人になった僕は漫画を読み返していたが、昨夜あまり寝ていないのもあり、そのまま寝落ちしてしまったようだ。
恐らくトイレから部屋に戻ってきた花丘さんは寝ている僕に気づいた。彼女は書き置きを残して、そのまま家を出たのだろう。
それにしても、どうしてわざわざメールではなく、書き置きを残したのだろう。もしかして花丘さんはメールではなく、手紙を使う古風な人なのだろうか。
それならそれで彼女と文通してみたいと考えていた時だった。
「あっ」
その瞬間、僕はある事実に思い至った。僕と花丘さんは連絡先を交換していなかった。だから、彼女は書き置きを残したのだろう。
「今度、連絡先を交換しよう」
ノートの切れ端を大切に机の引き出しにしまいながら僕はそう決意した。