アーベル殿下とヒバリの卵(前編)
「タヴィア! 聞いてちょうだい」
ベアトリス・ウェゲナーは、学院の正面の石造りの大階段を足早に降りて来て、オクタヴィアに泣きついた。階段の途中に幅広く取られた踊り場にいたオクタヴィアはベアトリスが勢い余って転ばないように受け止めて、まずは落ち着くようにと肩を抱き、背に優しく手を添えた。
ベアトリスはオクタヴィア・ライゴールの母方の従姉妹にあたる。長年に渡る複雑な政略結婚のせいで、上流貴族は多かれ少なかれ血縁と言えなくもない関係にあるのは確かだが、ウェゲナー家とライゴール家は同派閥で、かなり近しい仲だった。そのため、二人は実際の家格の差より親しい間柄で、学院でも良く一緒に過ごしていた。
それにしても、日頃は隙のない淑女っぷりのベアトリスがこのように取り乱すことは珍しいので、大階段付近にいた学院生達は何事かと二人の方を見た。
「どうしたの?トリシア。ちゃんと聞いてあげるから、まずは一回落ち着こうね」
麗しのお姉様二人のいつになく近い距離に、一部の下級生の女子達から黄色い悲鳴が上がった。オクタヴィアは姦しい娘らに、ライゴール的な冷ややかな視線を一瞬向けると、ベアトリスを彼女らの視線から守るようにスッと立ち位置を入れ替えた。
「落ち着いて話ができるところに行きましょう」
肩を抱いたまま、もう一方の手でベアトリスの冷えた細い指先を温めるように握って、オクタヴィアは親友を人目につかないところに連れて行った。
教授達の研究室がある北棟は人影もまばらだった。従者の案内で少人数講義用の討論室の一つに入ったオクタヴィアはそこでベアトリスから話を聞いた。
彼女が声をつまらせながら少しずつ語ったところによれば、どうやらどこかのマヌケがベアトリスに、アーベル殿下が自分の談話会に男爵令嬢を呼んでチヤホヤしていることをバラしたらしい。
「談話会は男が政治や文壇の論議をする場だから来るなと言っていたくせに」
だから、男爵令嬢の噂はベアトリスの耳には入らないように周囲が気を使っていたのだが、不文律の緘口令は徹底できなかったようだ。
「トリシア、そんなに手を強く握りしめてはいけないわ。爪で傷がついてしまう」
討論室の硬い木のベンチに並んで座ったオクタヴィアは、ベアトリスの深窓の令嬢らしい細くて白い手をゆっくりと開かせて、赤く爪の跡がついた手のひらを撫でた。
ベアトリスはうつむいたまま、小さく声を絞り出した。
「私のどこが劣っていたというのよ」
「そうじゃないわ、トリシア。そうじゃないの」
「私には何が足りなかったの?男の方と対等に渡り合える学識?論説の技術?でも、そんなものアーベル殿下はお嫌いだったわ」
「殿下は秋の弁論大会でもご苦労なさっておいででしたものね」
「そうなのよ。リーダーなのに想定外の返答に弱くて、絡め手から切り返すとか、ユーモアで場の空気を変えるとかができなくて、自分の思い通りに話ができないと思った途端に、議論を打ち切ってしまうんだもの」
粘り強い交渉やディベートは得意ではないらしい。彼は「もういい!」と言って不機嫌に話し合いを投げ出すクセがあった。
学院の弁論大会程度ならラウルのような同じチームのメンバーがサポートしていたが、実生活の社交の場では、ベアトリスがその場をフォローしていたのを、オクタヴィアは知っている。だが、自分のせいで白けた場をベアトリスが和ませて、彼女がふった別の話題が盛り上がると、アーベル殿下はより一層不機嫌になってしまう傾向があった。
「前途多難ね」
オクタヴィアは出入り口の方に視線を送った。扉前にいた従者が一礼して通路側に出て扉を閉める。父の部下なら人払いぐらいはしてくれるだろう。学院内ではあるが少し自由に話したい、と一拍呼吸を整えてから、オクタヴィアは親友に向き直った。
「トリシア……どうする? もう止めておく?」
「え?」
「あなたはこれまでよく頑張って耐えてきた。それでもこの仕打ち。これは王家の公爵家に対する侮辱だわ。もうこれ以上、我慢する必要はないと思わない? 損切りは重要よ。生ゴミは早めに捨てないと」
「え、ちょ、ちょっと、タヴィア。生ゴミって……殿下のことそんな」
「あら、ものの例えよ。誰も尊き御身の殿下のことを、生ゴミだの腐れ外道だの実力も伴わないのに自尊心だけ高い鼻高坊っちゃんだの拗ね太郎だのとは言っておりません」
「言い過ぎよ」
「そうかしら」
オクタヴィアはその父兄にそっくりの冷ややかな眼差しで、ベアトリスをひるませた。
「だったら、あなたはどのように思っているの?」
「それは……あの方はそこまで悪くいうほどひどいわけではないと思う……けど」
日頃は自分から率先してこき下ろしていたアーベルを弁護する言葉を探して、ベアトリスは視線を彷徨わせた。
「正直、減点方式で採点するなら、とうに零点以下でしょ。トリシア、あなたの採点基準は違うの?」
「私は……婚約者を試験課題のように採点するのは違うと思うのよ……だって、人なんだし……」
「学院での合否も人に対する採点よ」
あなたは婚約者に何を望んで、どういう基準で判断したいのかと、オクタヴィアはベアトリスに迫った。ベアトリスは、いつもは優しい親友の苛烈すぎる視線の圧に目を伏せた。
「そんなふうに言わないで。私はあの方のことを、そんなふうに考えたくないの」
ひんやりした石造りの討論室にしばし、沈黙が満ちた。
「ベアトリス・ウェゲナー。あなた、ミルクが半分だけ入ったミルク壺をどう思う?」
急に声のトーンを変えて、唐突な話題を振ってきたオクタヴィアに、ベアトリスは戸惑った。
「ミルク壺?え、どう思うって急に言われても」
顔を上げてこちらを見たベアトリスに、オクタヴィアはフッと笑みを浮かべた。
「悲観論者ってね、ミルクが半分だけ入ったミルク壺を見るとこう思うんですって……」
彼女はベアトリスの眼の前で人差し指をスーッと下げてみせた。
「ミルクが半分しか入っていない」
ベアトリスは目を瞬かせた。言われたことはわかるが、この話がどこにつながるのかがわからない。オクタヴィアはそんな彼女の前でニヤニヤしながら「それでね」と話を続けた。
「それを聞いた悲観論者は、こう思うのよ」
彼女は三文オペラの舞台俳優のように大げさに両手を広げて天を仰いでみせた。
「ああ、なんてことだ。そんな考え方があったのか。大変だ。明日のミルクが足りない。どうしよう。私はもうダメだ」
「何の話?」
「悲観論者だけで物事を決定するとよろしくないっていう話よ。物事は多面的に評価しないと」
オクタヴィアは指折り数え始めた。
ミルクの一日の必要量は?
ミルクは生モノだから備蓄できない。
流通と供給が社会的に安定しているなら嘆くのは無駄。毎日、買った方が良い。毎日必要量買える収入を確保せよ。
それでも不安な場合、ミルクの必要量が壺に半分なら、壺を半分の大きさにする手もある。そうすればミルクがいっぱいの壺に安心できる。
「ミルクの消費量なんて考えたこともないわ。それは使用人の仕事ですもの」
「ええ、そうね。私達は日々の糧の心配をする必要のない身分だわ」
オクタヴィアは「では、あなたの心配事は?」と言って、ベアトリスの鼻先に指を突き付けた。
「あなたは、殿下のことを“足らない”男だっていつも嘆いていたでしょう?悲観論者さん」
ベアトリスは目を見開いた。
オクタヴィアは笑みを深くした。
「それでもあなたは、私が同じように騒いでみせたら、それはちょっとおかしいと思える程度に常識があって、バランスの取れた思考のできる人よ、トリシア。あなたは嘆き悲しむだけの悲観論者ではない」
オクタヴィアはベアトリスの手を強く握った。
「あなたが、ただ嘆いて切り捨ててオシマイにしたくはないというのなら、協力するわ。一緒に殿下のことも多面的に再検討してみましょう」
オクタヴィアは、ベアトリスの不安げに揺れる瞳を、力強く見据えた。
「ね、私達、不安と批判を一度忘れましょう! さあ、トリシア。溜まった不満を全部捨てて、まっさらな気持ちで、殿下の良いところをとことん上げていきましょう。目標は百個。一緒に頑張ろう。加点方式で満点目指すわよ!!」
一日では終わらなかった。
よかった探し




