行き詰まったときは温かいものと水分と糖分と深呼吸
「うーん。なんだか上手くいってないわ」
私は刺しかけの刺繍を手に眉を寄せた。公爵家での刺繍の会では完成できずに持ち帰った宿題である。提出期限にまでそれほど間がないので、家に戻ってからも頑張っているのだが、どこがどう上手くないのかはっきりとはわからないが、どうにもしっくりこない。
何か歪なところがある気がするのだが、それが最初から根本的にダメなのか、途中で変な具合に歪んでしまったのか、なかなか自分ではわからない。
「ずーっと手元で見ていると、余計にわからなくなってくるわね」
私はお母様に相談してみることにした。
「そういうときは、一度少し距離を取ってみると良いですよ」
刺繍を手に、お部屋に伺った私の顔を見て、お母様は微笑んだ。
「あなたはお父様に似て、根を詰めがちだから」
問題が発生すると、明確な成果を得られる具体的な対処法を性急に求めすぎて、自分に余裕がなくなってしまう傾向があるのだという。
「そういうときには一度、一歩下がって一息ついて別のことをなさい」
ううむ。流石、ライゴールの中のライゴールと呼ばれたお父様の妻だ。お母様は小柄でたおやかな線の細い淑女なのだが、私は知っている。あの厳格で、能率と行動の鬼で、怒れる獅子のようなお父様をなだめて言うことをきかせられるのは、お母様だけなのだ。お母様と結婚できたからお父様は現在の地位で上手く貴族社会に馴染めているのだと、以前、お兄様が評していた。
恐れられて討伐される猛獣にならないように、非常時に従っても良いと思える良い猛獣使いを見つけるのはライゴールの男にとっては、重要な課題なのだそうだ。飼われる趣味はないから、男でなくて良かったと言ったら、では母上を見習って飼える側になりなさいとアドバイスされたっけ。言うことはわからないでもないが、結婚相手との関係をそういう例えで説明するのはどうなんだろうと思って、複雑な顔をしたら、言葉の表層を文字通り受け取るのはやめなさいと諭された。
あの時、「己の欠点を補ってくれる相手というのは貴重で、共に欠点を補い合えるパートナーというのは得難い存在だよ」とおっしゃったお兄様に、お兄様は欠点がないからお相手選びが楽ですねと言ったら、「そんなことはないよ」と笑われたっけ。
とにかく私はお母様の言葉に従い、一旦、刺繍を脇において休憩することにした。
半端な時間だが、お茶係を呼んで、何か一杯入れてもらうことにする。
「温かいものを」
かしこまりました、という意味の一礼をして静かに下がった彼は、最近、お父様の勧めで新しく付けてもらった使用人だ。
元々、私は手軽におかわりできる保温用茶器を愛用していた。厨房で用意してもらったあとは、茶器の中に吊るされた熱した錘が冷めきるまで、テーブルにおいておけばいつでも熱いお茶が注ぎ口から出せるティーアンは、勉強会のときに便利だった。気取ったお茶会ならテーブルの女主人が客にお茶を振る舞うのがルールだが、勉強会でいちいちそんなことはやっていられない。それに、二人で頭を突き合わせて課題に集中するなら、使用人がずっと部屋に待機してこちらを見ているというのも煩わしかった。
しかし、私達の婚約が解消された時点で、お父様から待ったがかかった。婚約者でもない男性と部屋に二人きりになるのは、許可できないと言われれば、それは道理である。
かくて私のティーアンはお蔵入りとなり、元婚約者殿との勉強会は開放的な場所にテーブルがセッティングされるようになって、新しくお茶係が待機するようになった。
新しく私専属とされたこの使用人は、体格の良い男で、お茶係というよりは護衛の方が得意そうに見えた。実際、彼はお目付け役の護衛の意味で私につけられたのだろうが、意外なことにお茶を淹れるのもとても上手かった。
最初こそお目付け役をつけられたことに内心で憤慨していた私だが、ティーアンに入れっぱなしのお茶ではなくて、都度適温でサーブされるおいしいお茶の味に完全に懐柔された。おまけに彼はその体格に見合わず、存在感が全然なくて、同室にいてもまったく気にならなかった。
私も上級貴族なので、部屋に使用人がいることが気になるような神経はしていないが、それにしても多少は他人の存在を意識はする。しかし、このお茶係はともすると完全に同室にいることを失念するレベルで地味だった。
お父様、一体どこからこんな人材を引っ張ってきたんだろう?
「お茶にしては変わった香りね」
「ハーブティーです。遅い時間ですのでお休みの妨げにならないものにさせていただきました」
いつものお茶よりも少し薄い色の澄んだお茶の中には、小さな花の蕾が入っている。
「口に入れたときはそうでもないけれど、飲んだあとで鼻に香りが抜けるわ」
悪い香りではないが、好みよりはややきつい。
「もう少し香りの弱いものにいたします」
淹れ直そうとするのを止めた。
「気分転換になるからこれでいいわ」
私はカップの中で、蕾がゆっくりと開いていくのを眺めながら、少しずつ温かいお茶を口に含んだ。
ティーカップを置いたソーサーの脇に、小皿が置かれた。小皿には指で軽くつまめるサイズの円錐形の白い菓子が一つ置かれていた。
「メレンゲです」
泡立てた卵白を焼いた菓子らしい。摘むと意外にザラザラした表面に付いているかすかな焼色が美味しそうだ。
かじるとポクンと割れた。思ったより甘い。そのままお茶を飲む。美味しい。
私は壁にかかった絵をぼんやりと眺めた。それから天井を見上げ、窓のところに行って外の空気を吸った。
そうだ。彼がドートルード嬢を口説くことを、これ以上直接的に支援するのは私には無理だが、もっと別のアプローチができるのではないだろうか。
例えば、ドートルード嬢の周囲にいるその他の男性諸氏が彼女以外に興味を移すようにすれば、競争率は下がる。アーベル殿下と婚約者のベアトリスの拗れた仲が良くなれば、一番強力な競争相手がいなくなるではないか。
「ねえ、ハーゲン。あなたにお茶を淹れる以外の仕事って頼んでもいいのかしら?」
私は、気は利くけれど存在感のない目立たないお茶係に、ちょっとした協力を頼むことにした。
お兄様とその嫁の話はこちらをどうぞ
「政略結婚のお相手は氷雪の翼獅子様!〜お家のために絶対に落としてみせます」
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